1ヶ月ほど前になるが実は腰痛に悩まされていた 医者の不養生はともすれば同情の一つも買えるけれども、整体指導者の不整体は許されない 恥なのである いろいろ調整を試みるもよくはならず、難渋しながらどうにか仕事をやり過ごしていたのだが回復の波は期せずして訪れた 結論から言えば、庭の草むしりと冬物の片付けで脚立に登り降りしていたら調子が戻ってきたのだ 治そう治そうと工夫したり庇ったりしているうちはかえって …
名前はない
愉気って何だという質問だが、人間の気力を対象に集注する方法だ、と考えたら良かろう。人間の精神集注は、その密度が濃くなると、いろいろと、意識では妙だと思われることが実現する。穏やかな太陽の光でも、集注すると物を焼く。光はレンズで捉えられるのだが、気は精神集注によってちからとなる。それ故、愉気するには高度な精神集注の行えること、恨みや嫉妬で思いつめるような心ではない、雲のない空のような天心が必要である …
30歳からのハローワーク
ユングは自らの心理学を「人生後半の心理学」と説いたそうである 最近はせい氣院で行なっている仕事も「人生後半の整体指導」ではないかと思うことは多い 客層が自分の年齢を基準に形成されるからかもしれないが、最近は40歳前からの自己変革を求める人が割りに増えている だいたいその辺りから自分の人生を逆算して考えるようになるし、時期を同じくして職業の選択もシビアになってくる 見ていると20歳前後で就職をされた …
やさしさに包まれたなら
なんだかんだ言って「やさしさ」は大切だ 「やさしさとは何か」と考えていくといろいろな定義が生まれそうだが、ここではいわゆる母性原理のようなもの指している、と思う 整体指導という「人を癒し育む」仕事においては父性も母性も同等に大切なのだが、現代(戦後)の日本社会では父性がますます希薄になってきているために、メンタル系の指導者には「コワモテ」の人が目立つ 具体的に言うと、占い師などでも「あなたはこうい …
体育と精神医学
心のことだと体と関係が無いように考えている人は沢山いる。心理学と生理学を別箇にしているからであろう。その為に精神身体医学とか、心身一如たれとかいう意見がおこるが、始めから心身が分離している人間などは一人も無い。分離していたのは学者の頭である。体育を土台とした教育ということを教えて主張しなければならないのはこういう考えの人が多いからである。(野口晴哉『叱言以前』全生社 p.61) 現代は心と体のつな …
内なる美
近頃は対話型の精神療法の勉強にいそしんでいたが、やはりフィジカル面では背骨が大事である 先日あるカウンセラーさんと治療談義をしていた折、「心理療法では、〈治った〉と判定するのはどのポイントですか?」と訊ねたら、「忘れたとき」とおっしゃっていた また、それにつづいて「身体が変わったとき」とも言われた 確かにどちらもそうだ 忘れたときは身体も変わっている そして人間は対話でも変わるし、手技(皮膚の接触 …
師弟関係の完成
最近本のツンドクが折り重なって、何から手を付けたらよいかわからなくなっていたのだが、1年前から停泊中の『ユング自伝』をようやく読みはじめた プロローグ 私の一生は、無意識の自己実現の物語である。無意識の中にあるものはすべて、外界へ向かって現れることを欲しており、人格もまた、その無意識的状況から発達し、自らを全体として体験することを望んでいる。…(『ユング自伝』みすず書房より) 言うまでもなくユング …
鎮
整体操法は鎮心という処の押え方から勉強する 物事は最初に基本という名の極意から教えるようになっているから、これもそうなのだろう 鎮魂(タマシズメ)という言葉があるけれど、またどういう意味かはわからないけれども、つまるところ鎮まれば終わりなのだ 鎮まり切らないものは一体何なのか ただそれを見ている自分が邪魔なのである ぼそっと、或いはただ茫然と坐って静めようとしている間はたいてい鎮まらない むしろ活 …
命の謳を聴け
ホームページの「当院の整体」のページをマイナーチェンジした 妻にイラレで図を作ってもらったのだが、これで少し発症のメカニズムがわかりやすくなったのではないだろうか わからない人にはやっぱりわからないだろうが、いくらかでも感性が生きているなら自分の人生の舵をみすみす他人に引き渡してはならない 自分とは一体何者なのか 身体を通じて命に聴くことである 病症と対立することは広大な無意識に小さな自我が喧嘩を …
退路なき現在
昨日の記事を読むといかにも宗教を軽視しているようにも見えるが、私は宗教は尊いと思っている。 ただ宗教の定義がそもそも曖昧だし、現行のそれの多くが特定のドグマを擁立するだけの集団になっていることは残念だと思う。 だいたい捉われを捨てることが目的であるはずなのに、宗教活動をしている人の方が案外執らわれていたりするから妙である。これではむしろ執教的と言わざるを得ない。 無論宗教法人ばかりがドグマを有して …