あと半分の教育

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を観た余韻そのままに、本棚から何気なく井深大の著書『心の教育』を手に取った。本書は1985年に出版された『あと半分の教育』に一部改訂を加えて復刊されたものである。

外観的にはコンパクトにまとまっているが、第一次資料を丁寧に引きながら戦後教育が作られた背景を洗い出し、今後の展望まで示唆する一書である。

本書の冒頭では日本近代史は40年ごとに節目を迎えている、という一つの歴史観を紹介している。

その起こりを1865年とし、同年は日本が諸外国からの圧力と国内から起こってきた改革派による革命運動の混乱から元号を慶応に改めた年であった。結果的にはこれが江戸時代の終焉を飾る最後の元号となる。

40年後の1905年は日露戦争の終結を迎えた年で、さらに下って1945年は敗戦の年にあたる。そして戦後40年は日本国中で大変な努力をして高度経済成長期を生み出し、近代化以降はじめて物質的な豊かさを確立した期間である。その節目を1985年に置いている。

さてここからさらに40年経つと2025年、いよいよ21世紀に突入し出版当時の年代からはイメージすることもむずかしい域になる。

しかし著者は教育という視座から今(1985年に)大転換を行わねば、40年後の日本は決して明るいものにはならないと警鐘を鳴らす。

当時から学歴至上主義の弊害、いじめ、非行といった問題が社会を悩ませてはいたものの、これらについてはすべて「対症療法」が行われただけで、近代化以降、とりわけ戦後教育の抱える根本的な問題点については不問のままであったことを同氏は厳しく指摘(糾弾)する。

行政の失策、怠慢に対して厳しい指摘を重ねた末にたどり着いた解答は、もはや教育を「専門家」に任せておくわけにはいかない、というものであった。

ここでいう専門家とは強いて限定すると義務教育を担う小・中学校ということになるだろうか。では専門家に任せず如何にすべきか、という問いに対し著者は家庭での躾・教育を再興することだと力説する。

躾・教育は家庭でするもの、といえば何の変哲もない一般論に聞こえるが、この国の戦後においてそれは非常に大きな意味を持つ。

誰もが知っているように、戦後焦土と化した国家を再建すべく、物資の確保とこれを支える人材育成に奔走した。しかし人材といってもそれは効率よく「物」を生み出すための人海戦術の一員であり、無個性で代替可能な「労働力」の増産が主要テーマだったのである。

還元すればGDPを高めることに夢中に過ぎて、情緒や感性、倫理観といった人格を育てることをどこかに置き忘れてしまった、ということである。著者が唱える「あと半分の教育」とはこれである。

しかし今から振り返るといろいろな欠陥に満ちた「間違った戦後教育」で括られてしまいがちだが、当時は日本国全体を覆う飢餓の問題から脱する急務があったために当時は当時の最善を尽くした結果と見ることもできよう。

ともかく井深氏は前掲書に遡って1969年には幼児開発協会を設立し、以後『幼稚園では遅すぎる』 『0歳からの母親作戦』など幼児教育、そして胎教の意義、重要さを主張する著作を段階的に出版している。

さて、それでは心の教育とはどうあったらいいのか、というと本文中に「これからの教育に必要なのは、家庭教育の見直し」と題して、著者が試論的にまとめた具体案が記載されている。

多少の主観が交ざるがその要点を纏めるとおよそ次のようになる。

0歳児からの教育を意識し、その際に愛情と信頼に基盤を置いたしつけを行うこと。

胎教の研究を促進し、その成果をもって親の教育に反映すること。

母親の職場進出の増加にあいまって、幼稚園と保育園の役割が重要になる。よって両者の役割の明確化や整合性を図る必要性がある。

読めば確かにその通りだが、出版から40年後にあたる2025年を2年後に控えた現在、これらのことはまったく手つかずのままである。そして不登校や引きこもり、いじめ、自殺と言った児童を取り巻く問題は増え続けているのだから、井深氏の懸念は的中するも、解決案は空念仏に終っていることになる。

ともかく同氏が高度経済成長期のまっただ中に戦後教育の欠陥に気づき、その解決策として0歳からの教育を掲げた直観力と先見性には驚くばかりである。しかもここでいう「ゼロ歳」というのは数え年の感覚を残している。つまり数えでは生まれたら一歳なのだから、ゼロ歳児とは胎児のことで胎教に重きを置く考えである。

こうした考えは野口整体のそれとおおむね軌を一にするけれども、実は井深氏は整体協会で行われていた野口先生の講義にも出席されていたそうである。人間を観る、ということに関しては一企業人と整体指導者とで相通じるものがあったのかも知れない。

胎児からの育児、を考えるなら当然のことながら母親を無視するわけにはゆかない。整体では母胎内からもうすでに育ちつつある我が子を意識した生活を勧める訳だが、そこには母親になるための教育も必要になる。

これこそが育児のための本当の教養「あと半分の教育」なのだが、それは頭でする勉強ではなく意識を鎮めて身体の感覚を優先させるという身体性の世界である。

これにより母親と胎児との見えない心のつながりを意識して、産後もこの「つながり」をできるだけ保つように心掛ける。そのためには母親はもちろん、父親も、おじいちゃんもおばあちゃんも、みんながこれを支えるべく深い理解と惜しみない協力が必要である。

しかしながら現実は核家族や共働きの増加に伴って、上のような在り方は徐々にむずかしくなっているのだから悩ましい。むしろ子どもはなるべく手がかからないで済むように、できるだけ早く自立させ、「しっかり」するように文字や計算といった知育の時期が繰り上げられている傾向すらある。

現実はけっしてかんばしい方向にはない訳だが、だからこそ先に紹介した解決案の内の「胎教の研究を促進し、その成果をもって親の教育に反映すること」は是非にも推進したい内容である。

胎教に関する研究結果は探せばいくらでも入手することができるので、有志の方は是非にもそうした情報を活用して実践していただきたいと願う。母国、という言葉があるけれども、文字通り母は国をも創造する。

次なる40年を明るく拓かれたものにするために必要なのはこれから生まれ育つ新しい力であり、その誕生を支える母親の心と体ではないだろうか。

泣く子

むかし社会科で「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉を聞かされたが、地頭の方はともかく泣く子にも勝てぬというのは今からするとおかしいように思う。

子どもは大人よりもずっと心が開かれているのだから、丁寧に応対すれば泣く子の気持ちも理解できるし、ささくれだった心をなだめることだってできる。自分で子どもを持った経験からこれは確信している。

なぜこんな話かというと、最近外出するとどうにも気になる場面に出くわすからだ。

町に出るとベビーカーに乗せられた子どもが泣いている。それはしょうがないけれども、母親は泣いている子どもを放ったまま黙ってクルマを押している。別段急いでいる様子もない。

あるいは父親が娘を電動自転車に乗せている。前乗せのシートでやはり泣いているのだが、信号待ちで何か言ってあげるのかと思うと、こちらも何かラジオの雑談でも聞き流しているかのようにまったくの無視である。

こういう時に何故ひとこと「どうしたの?」といってあやしてあげないのだろう、と思う。いや親と言えど人間である。虫のいどころ次第で子どもの泣き声が腹立たしく聞こえることもある。たまたまそういう場面に出くわしただけかもしれないが、それにしてもむかしはあまり見ない光景だったように思う。そのむかしの記憶もだいぶおぼろげなのだが…。

三つ子の魂云々…というのももはや死語かも知れない。しかし整体の潜在意識教育という観点からいえば(そんなもの持ち出さなくても)上のような行為は子どもの発育を歪める。

子どもの頃なんてどうせ覚えていないのだから、もう少し大きくなったら…、などと思っているとしたら10年後20年後に手痛いしっぺ返しを食うことになるだろう。

まあその頃になるともう自分が子どもに何をしたかなんて覚えていないのだろうから、うちの子が急に反抗し出した、他所で事件を起こした、暴力を振るった、という認識になるのかもしれない。胎教をはじめ自分のやってきた育児と、現在の子どもの行為の因果性など想像もつかないのではないだろうか。

ともかくこういう子育てが子々孫々繰り返されれば人間の世の中は殺伐としたものにならざるを得ない。世界の元首があつまって平和な世の中、慈愛に満ちた世界を作りましょうと言ったところで、根本的に人が人を信じていないのだから武装解除も核の廃絶も為し得ない。

とはいえそもそも競争と闘争は生き物の常なのだから、戦争や紛争をどうの…ということ自体がナンセンスなのかもしれない。

それはともかく生き物が自分の種子を十全に育てられなくなったとしたら、それはその種(しゅ)全体が縮小の方向にあるのではなかろうか。

これも人間が増え過ぎたことによる随伴現象だと思えばマクロにおいては納得できないこともない。とはいえミクロの視点からいえばそういう風に育てられた子はゆくゆくは本人のみならず周囲をも不幸にしかねない。

ヒトラーの例を出すまでもないだろうが、子どもの頃に与えられた不遇の記憶は時間を経て変質し思わぬ形で噴出する。

「少しくらいは放っておく方が子供は早く自立するし、タクマシク育つ」などという乱暴な意見もいまだに耳にするが、これは保護者・養育者の怠慢を是認するための詭弁にしか聞こえない。

確かに放っておかれた子どもは早く自立する(ここでの自立とは自分で身の回りのことができる、という程度の意味である)。栄養を欠いた子は早く歯が生え、早く歩きはじめる。泣いても要求を受け入れてもらえない子は言葉を早く覚える。

野性動物として育てるなら成長は早い方がいいかもしれないが、人間としてよく生きる道に導こうと思えば先ず感情を豊かに分化させ、細やかな情緒を育まねばならない。そのためには言葉を話すのも、人見知りをするのも遅いほどよい。そうなると当然独立期も遅くなるが、その方が心の清らかな時期も長くなり素直に伸びるのである。

そのため保護者には子どもが言葉を話さなくとも、要求を察知して叶えてやれるだけの感性が要求される。頭だけが賢しらに発達し、覚え込んだ「育児法」を押し付けるようなガサツな育児を繰り返していては、子育てに欠かせない野性的な勘は退縮する一方である。

こういう親によって全く要求を聞いてもらえなかった場合は自分の感情がわからない大人に育つ。感情が分からないと大人しいかというとその逆で、衝動的に感情に支配される大脳的弛緩状態が常となる。

また中途半端に理解されたり、されなかったりといった場合は早くから賢しらな言葉を無理解に駆使するようになる。俗にいう「ませる」というのはこれである。

早く育った子はゆったり育った子に対して何かと優位になることが多い。そのために先に獲得した知恵で意地悪をしたりいじめたり、ということも出てくる。

すべてが悪い方向に行く、というような言い方はちょっと主観に偏りすぎかもしれない。しかし客観性・普遍性ということを当てにしていては間に合わないところまで、相当に大衆心理が歪んでいるように思えてならない。

不遇な環境で育ったがために立派になった人もないかもしれないが、このようなケースでもどこかできちっと愛情を受けていなければ十全な発育は望めないと私は思う。感情が豊かにはたらき、心にゆとりのあるやさしい子に育てようと思えば心を細やかに受け取ってまめやかに観ていくよりほかない。

忙しくてとてもそんなことはやっていられない、という人は「児童は、人として尊ばれる…」からはじまる児童憲章を一度読まれるとよいと思う。

「なにもそこまでやらなくても死にはしない」という言葉も嫌いである。死なない程度の育児でよいなら今の日本なら誰でもできる。その点子どもは元来丈夫なのである。しかし一人の子どもの内にこころがあり、そこに一つの宇宙があると思えばその世界を憎悪や窮乏、絶望に染めてはならない。

よってすべての母親、父親は一つないし二つ以上の世界の創造主の資格を持つ。自分が神さまと同じ立場にあると思えば、泣く子を前にしたときに自ずと慎みと敬虔さを具えた態度になるのではないだろうか。

教育

自分の子どもが大きくなってきたこともあって教育について考えることが増えた。

人類発生以来、つまりヒトが人間の体(てい)をなして社会生活を構成し始めて以来、子どもを如何に教育すべきかという問いは常に考えられてきたテーマだろう。

ことに日本は近代以降子どもの教育を考える状況が特殊であったように思う。

明治という時代はそれまで東洋一辺倒だった日本史上に西洋文明という異物が混入され、非キリスト教文明圏として世界史上類を見ない早さで近代国家が形成されていく渦中にあった。

その大変革期の中で子どもの教育に関して「学制」が発布され、ここに初めて中央集権国家による一律の教育方法が敷かれたのである。その内容は東洋的な宗教観や道徳観念を土壌に、西洋文明という新たな肥料を撒くことで開花した和魂洋才という異質な文化の香りを帯びていた。

異質という点でもう一つ付け加えると、当時から現在に至るまでいわゆる先進国が国家主動の学校を持つケースが極めて少ない点にも留意しておきたい。

例えばイギリスのケンブリッジ大学やオックスフォード大学は国からも資金は出ているものの基本的には独立している。またアメリカにおいても州立大学か私立大学しか存在しない。

そもそもアメリカの場合は日本の文科省に相当するような国全体の教育を一元管理する部署が確立されるまでに、国家建設から200年以上も経過しているのである。日本が明治5年に学制を発布したことに比べればその違いは歴然である。

またドイツをはじめとする連邦国家にも国営の大学は存在しない。国土の広さもあってか、ヨーロッパで教育に中央集権的なシステムを採用している国はフランスだけだという。こうしてみると維新直後に日本が行った教育システムがかなり特殊なものであったことが分かる。

ただしこれにも相応の理由があってのことである。当時の教育は帝国主義の風が吹き荒ぶ国際社会の中に、難産の末たった今産声を上げたばかりの小国が生存をかけて作り上げたもので、一人一人のことよりも国体を護持するための「国民」を作り上げることに特化したものだったのである。

結果的には維新の動乱を引きずる国内を治めながらも、直面する西欧列強の外圧をはねのけ、国際社会の荒波の中で日本国ここにありという存在感を示すまでに成功したため、一見すると維新後の教育を高く評価することもできそうである。

しかしながな往時の度重なる国難を次々と解決していった人材には江戸の教育を受けた人物が屋台骨になっていたことを見逃すことはできない。この点を考慮すれば明治・大正の情勢をもって維新後の教育の評価を一元的に下すことは難しい。

とにもかくにもこの時期に日本の近代教育の方向性が大きく定まったのである。そして敗戦後は焦土と化した国家の復興に適した人材が大量に必要となったために、戦後民主主義の名のもとに代替可能な工業製品の一部品の如き「労働力」を生み出すものへと内容が差し替えられたのである。

ほどなくして昭和30年代には高度経済成長期にさしかかり、働けば働くほど所得が増し、消費も増えるという上昇のスパイラルに突入する。その結果驚くべきスピードで戦後復興が進められ衣食住の問題が改善されると、いつしか教育の目的はさらなる「幸福」をもとめて拡大生産と拡大消費へと移行されていった。これもまた国家の見えざる総意として、教育を施す側も受ける側も無自覚のうちにシフトしていったのである。

その要因は欧米発祥の合理主義と科学文明を流入しその威力に目が眩んだ人々が、それらがもたらす物質的な豊かさの延長線上に無上の幸福も理想の人間像も顕現すると錯覚したためであった。

しかしその期待は裏切られることになる。人間の生活を支えるためには衣食住をはじめとする物質面の恩恵が不可欠であることは確かだが、これ「のみ」によって人間の生きる意義や生きている充足感までが満たされたり精神的に豊かになったりするわけではないことが、時間の経過とともに徐々に明らかになってきたのである。

またいかに豊かに「生きる」ことを強調したところでやはり人間が死ぬという事実からは免れ得ないために、人間が自身の死ついて深く考えることは貧困からの脱却や物質的な豊かさの追求などとはまた別の次元の問題として存在することが改めて認識されたと言える。

むしろこうした生きる死ぬといった問題に関しては戦時中のほうが身近であったためこれに対する考え方や価値観については社会一般の通念として強固に構築されていたし、さらに個々人の責任においても相当に考え抜かざるを得なかったのである。

しかし戦後はいかに幸福に「生きるか」ということのみが強調された結果、人間が本来死を背負いその中でいかに自身が納得のいく死生観を創造して死んでいくかという、人間にとって最も重要な「宗教観」がいつの間にか見失われていたのである。

このような特色を持つ昭和の教育に対し、野口晴哉が「教育の荒廃は理想を失ったからだ」と早期に問題の焦点を看破していたことは注目に値する。

そのためこうした漠とした心の虚を埋める方法を求めてさらなる物質の充足に奔る者もいるかと思えば、軽薄なスピリチュアリズムに耽溺したり、巷に勃興する即席の「宗教的な」活動に身を寄せたりする者まで現れて来たのである。

一節には地下鉄サリン事件の実行犯の中に国内最高レベルの高等教育を修了した者がいたことから行政がようやく近代教育の欠陥を認識し始め、この時に戦後教育の最初の見直しが始まったと言われている。この事件は我が国の公的教育から「人間を育てる」という要素が欠落していることを示す証左として十分なものであった。

ここまで極端な例を持ち出さずとも、戦後の教育には生徒の非行・不良化からいじめや不登校に至るまで諸々の問題が表面化しているのだが、これらに対して場当たり的なマイナーチェンジがなされるばかりで抜本的な原理原則の見直しが行われた痕跡は見当たらない。

私が30年ぶりに現代の義務教育に触れた際に感じた欠陥は「個人を見失っている」ということと、そして「〔人間〕を捉えていない」というこの二つだった。

何より「この子にいま何が必要か」という教育者の主観が現場から排斥されている状態は大きな問題だと考えている。

これが江戸時代の寺子屋のようなシステムの場合、入所の時期もカリキュラムのすすめ方も個人の成育段階と資質、能力の特性などに委ねられていたという。このような個から出発する学びの環境下では何をどのように教えるか、また何を学ぶか、学ばせるかということは生徒と指導者との関係性によって自在な変化を可能とする。

またこのように個人が中心に在る教育の場合、現代教育で重視する「平均」という概念がないことも重要である。元来個体差を持つ生き物を育もうというときに、「平均」を割り出しこれに沿わせようとする行為自体に意義があるか否か、疑問なきを得ない。

しかしながら個を育てるのではなく社会を構成するパーツを生産するかのように「国民」や「人員」を育てようとする場合、その出来、不出来を客観的に算出し他に示さなければならなくなる。

そもそも生徒の成績を甲乙丙丁…のような形で定量化する査定方法はイギリスかアメリカの兵隊を教育するシステムからの流用であったという。

つまり教育には公のための価値と個のための価値があり、その大半が教育を施す側、すなわち公、体制側の価値基準に沿って実施される傾向が強い。

このような体制側の視点に立って教育を行おうとする時、被教育者の持つ個体差は豊かな創造性を保有する「個性」ではなく、修正の対象となる「悪癖」として見做される。それ故そこに基準値なるものを設けてそれを上回る者、下回る者、逸脱する者…といった風に評価し、全てを基準の中に収める努力が善であることが疑いもなく遂行される。

さらにこうした「値」によって人を評価しようとする場合、試験の得点では測れない能力などは見落とされやすい。つまり生き物はデジタル化された瞬間にその実態は我々の視界から消え失せ、値だけを対象とした無機物的な評価が強調されることになる。

こうしてみると現代教育はよほど恐ろしいことをやっているように思えるが、結果がそれほど惨憺たるものにならずに済んでいるのは子どもの持つ弾力や創造性、人間の融通性などといった生命に内在する秩序(ホメオスタシス)に支えられていると考えられる。

しかしシステムが要求する成果が客観的な数値で示せる平均化である以上、被教育者の個性は「正常な成長」を滞らせる摩擦の元凶でしかないのである。

だからこそ現代の日本で人間を全き姿に育てようと思えば、義務教育の評価からこぼれ落ちる創造的な要素を掬い上げる有機的な目が要求される。

有機体としての人間を丸ごと捉えることができるのはやはり生きた人間の目以外にない。当然そこには客観を正しく活かすことのできる優れた主観が必要である。

ところが先にも述べたように現行の義務教育の在り方では如何に聡明で意欲に満ちた先生でも主観を働かせる余地はほとんどないといっていい。このような状況だからこそ家庭での子どもの育て方が一層重要になってくる。

子どもを十全に育てる、躾けるなどと思えばやはりそこには相応の時間も労力も必要となるが、社会情勢や経済的な事情によって核家族の共働きが増え実質的に親が子どもに関わる時間は昔より少なくなっている。

加えて現代は歪んだ自由主義の風潮に流されて道義の観念が曖昧になっているため、そこから生じる不品行までも「多様性」という名のもとに許容され、家庭の内でも外でも子どもの躾の急所を見逃してしまいがちである。

整体の場合はどうかというと、体の裡に働く秩序を基準に人を育もうとまず考える。そういう意味ではどのような子どもを見るにしてもある種の一貫性と普遍性が保てるのである。それはまさしく個人を主にした教育の在り方であり、これが正しく履行されれば全き整体人が次々と育つはずである。

ところが現実が相談順ではない。体の生理に従って育児をしようなどと考えると、社会一般との価値観の相違からあらゆる場面で摩擦が生じるからこれもなかなか大変である。

そもそも体の裡なる秩序に従って生活する、あるいは他者の体にもその秩序を顕現せしめるように援助するには、指導する者にも相当な訓練が必要となる。

整体流の子育ては子どもが自ら育つ力を中心に据えたもので、教える方が主体となっている現今の義務教育とは対極の視座に立っている。つまり指導者は自分の都合を押し付けるような態度は極力抑え、相手の成長の要求やタイミングが訪れるのをひたすら「待つ」ことも求められるのである。

このような差異は教育という言葉に含まれる「教える」と「育つ」という主体の二面性をよく現す事例である。つまり教育の主役は教える側なのか、育つ側なのか、というその両極の間に揺れ動く間主観に置かれている。

力関係において優位にある指導者は特にこうした自他を共に活かす教育を追求することを怠ってはいけない。教育の場でときどき聞かされる「あなたのためを思って…」という常套句にはよくよく気を付けなければならないだろう。自分が相手のためと思って疑わない態度の中にも、知らないうちに己の利がつよく反映され相手の幸福やあるべき成長の機会を奪っていることはないだろうか。

以上のようなこともよく考えながら、子どもの健やかな成長を本気で守ろうと思ったら手間も時間も掛かるし、教養も忍耐力もいる。しかし目の前の一人の子どもを十全に育てることがなされなければ社会の改革も体制の変革も虚しいシュプレヒコールで終わってしまうのだから保護者や養育者はそこに全力を注ぐ価値も理由も十分にある。

私自身整体をはじめて17年ほど経つけれども、整体の教育について考える時それは近代以降に抽象化された人間像から再び個人を蘇らせるために必要な視点であると思うようになっている。

胎教

前項の『いのちの輝き』の中でも胎教の重要性を説いているが、野口整体でも一生を通じて健全な人間を育てるという観点から胎教を重視している点は通底する。

医術ということを突き詰めていくと、必ず途中で教育の問題に突き当たる。病気でも怪我でも「どうしてこうなったのか?」「こうならないためにはどうすればよかったか?」とずっと辿っていくと、原因は過去にあるために「そもそもそこに至った生活から正すべし」ということになっていくのだ。

更にその生活スタイルに至った原因を追究していくと、幼児期に浸っていた社会、そして胎教に至るのは当然の成り行きと言えるだろう。

例えばうちの子でいえばもう8才なので、胎教のことをいくら思ってもとうに手が付けられない域に達している。同じ8才の子どもたちを見てみると、本当にそれぞれ個性豊かで人格形成の土台はほぼ完成しているという印象を持つ。

以前の私は母胎の中で体と心の発育の5、6割が済んでいると思っていたのだが、どうやらそれは誤りで、本当は9割以上がすでにでき上がってしまっているのではないかと考えを改めた。

たとえば人間の生活スタイルに朝型とか夜型という表現があるけれども、これは出生の時刻に起因しているのだという。明け方に生まれた子は概して朝型になりやすく、夜半に生まれた子は夜型になるという統計結果が前掲書の中に記されていた。

井深大の著作にある『幼稚園では遅すぎる』という主張も、この線でいえば育児を意識するのは生まれてからでは遅い、ということになる。

昔の日本には「お腹の子に障る」などという表現があったように、母胎内の生活が生まれてくる子の性格や体質にどれだけ強い影響を与えるか、ということが広く一般に共有されていたのである。

しかしながら現代のようにもろもろの事情で共働きが当たり前となっている状況にあっては、いくら胎教を叫んでも深い共感を得ることは難しいかもしれない。

もちろん妊娠期に多少の配慮を持って生活をする人はいるだろうが、かといって「いかに生活すればいいか」とい具体的な問題となると、整体法を正しく修めないことには的確な効果をあげることは難しいのではなかろうか。

すこし論点からはずれるかもしれないが、現代教育はとかく知育に偏り過ぎている。知育に加えて、徳育、体育が教育の三要素として掲げられているけれども、これらをばらばらにして、それぞれ別々の方法で育もうという考え方で果たして奏功するだろうか。

利発で、情があり、逞しい子に育てるための急所の時期を考えるなら、一粒の生殖細胞が数億倍に成長する受胎直後の数週間を軽視する訳にはゆくまい。これは体感的なもので現代人の好きな科学的根拠の確立を待っていたら実証は難しいだろう。

しかし現実に目を向ければ現代社会を生きる人々の心身の問題は山積みで、根拠以前の直感を頼りとし、速やかに胎教の実践を奨めたい。妊娠が分かった時点で仕事をしているなら早期に休暇を取り、家庭内においては妊婦に不当なストレスを掛けないように皆が協力し合うべきである。

社会制度の改正も結構だが社会の最小単位は個人に帰するのだから、社会の改革は個人を十全に育てることから考えねばならないのが道理だろう。

胎教に関してもう一つ知的な方からアプローチするなら前掲書に加えてトマス・バーニーの『胎児は見ている』を読むとその重要性をより深く認識できると思う。

環境問題が叫ばれて久しいけれども、自然を守ろうと思うならまず人間の内なる自然を護り心身の環境破壊をなくすことが重要ではなかろうか。

意識を閉じて無意識に聞く、裡なる要求を感じ生活する、こういうことは人間の自然を守り外界をも治めることに繋がっていく。教育も自然保護も百の論より足下の実践に尽きる。胎教を重んじ良い出産を迎えることはその第一歩であると思う。

乳歯

小1(6才)の子どもの上の前歯がかなりぐらぐらしている。かれこれひと月くらいはそうしていて、これがまたなかなかとれない。

早い子なら年中さん(4~5才)から抜け替わっているんだけど、うち子どもの発育は他と比較するとだいぶゆるやかである。

実はこれはある程度画策してやっていることで、たまたまそうなったわけではない。

整体法では早く育つこと、いわゆる早熟を警戒する。

「早く育って何が悪いか」という反論もあるかもしれないが、この場合何をもって良しとするかは個人の主観に委ねられる話で絶対的な是非善悪はないと思っている。

子どもをどう育てたいか、どうしたいか、というのは親の価値観に拠るもので、生物の適応力を活用すれば、早く「人間」にしようとすればできない話でない。

ハイハイしてれば早く立たせようとする、アーアーといっていれば早く話せるようにする、字も早く訓練して覚えさせて、足し算引き算でもやらせようと思えば幼稚園からできるのだから。

しかし整体法においては急づくりになるよりも、着実に、適切な期間を要して成熟していくことをよしとする。

乳歯に関して言えば、乳児期に十分栄養が満ちていればそれほど早く生えてくる必要がない。咀嚼の必要がないからである。

そのために生後2、3ヶ月くらいから赤ん坊の要求に応じて離乳食を施す。柔らかくて、体に適した、栄養に満ちたものをあたえていれば自然、そうなっていくのだ。

乳歯がおそければ、当然永久歯もおそい。「おそい」いうのも比較によって生じる表現なので、より正確に言えば「その子」の「その時」に生えてくるわけだが。

「なんだそんなことが整体なのか」と思う人は無論こんな面倒なことはやらなくていい。

しかし人間の人間たるゆえんは知恵を働かせて上質な文明を形成し、他の動植物よりも緩やかに育つ点にある。

馬とか鹿なら生まれたと同時に立とうとし、その日のうちに走れるようにならなければ生存できない。

その点人間は違う。周囲の大人たちからさまざまな保護を受けて高い生存率を保有しているために、生後1年以上も安心して寝ていられるのである。

そうしてこの期間に充分要求を満たされ、保護され安心して育った子どもには独特の雰囲気がある。外界に対する漠とした不安や恐れが感じられない。

根拠のない自信、とか余裕と呼ばれるものもここから生じるのではないだろうか。

具体的に言えば「人見知り」ということが生じにくい。そして初めての場に行ってもさっと不安なく相手の中に入っていける。

だから核心となるのはそういった点で、歯の生える時期というのは副次的についてくる現象と思った方がいいのかもしれない。

そうやって出てきた歯がどの程度丈夫なのか、という点はもう少しを観察を要するけれども、現時点で虫歯その他のトラブルはない。その点順当にきているといえそうだ。

真に見るべきは発育の遅速ではなく、常に相手の要求から出発するという生命主体の世界を築こうという心の態度にある。

こういった着眼は他の育児書ではあまり見かけたことはないので、これも整体独自の知恵の一つなのかなと思う。

子どもの宇宙

息子(3歳)の保育園放浪記が3園目でようやく落ち着いた。

「子どもが保育園(幼稚園)に行きたがらない」

「行こう、というと泣きだす」

こういうことは世の中にいくらである話だけれども、河合隼雄先生によれば子ども一人一人の中に別々の宇宙があるのだ。周囲の大人にはその一人一人の世界を大切に守る責務がある、という。

これに因んて思い出すのが、サン=テグジュペリの『星の王子様』の冒頭、みんな最初は子どもだったのに子供だったことを覚えている大人はいない、という一節である。

子どもの心がわからなくなるのは、それだけ大人の心と体が日々ストレスにさらされ、鈍ってしまうからかもしれない。

鈍りも身体の防衛反応の一種なので、一概に「悪い」と言えない複雑さが人間には、ある。

野口晴哉は「子どもの目の輝きをよく見てそれを守ること」そして「抱き上げたときの重さ(リラックス度合)をよく感じとること」の重要性を説く。

身体がずっしりと重く感じれば、それだけ安心して、世の中を信じて生きていることがわかる。

大人が整体を保つのは、人類の未来を担う子どもの心に広がる宇宙を守るため、といってもいい。

そういう風に「大切に」されて育った子どもたちが大人になり、そういう大人がまた子どもの宇宙を大切にしていく。

これをくり返せば人間の世の中が少しづつ豊かになっていくはずである。

大それた話になったが、まずは我が子の中にある唯一無二の宇宙を守りたい。

そのためにときどき自分のこころの扉を開けて、光を入れ、風通しをよくしておきたいと思う。

 

妊娠中から活元運動を行なってもよいか:できることなら妊娠前、出産を意識したらすぐにはじめよう

質問〕 子供ができたばかりの人に、活元運動を奨めたいのですが、反応が心配です。

 活元運動をやりますと、内部に異常のない時は流産する傾向が無くなってしまいます。流産しかけている人でも、活元運動をすると元へ還ります。

内で胎児が死んでいるような場合は、活元運動をすると、直ぐに流産します。一、二回やっていると、出てしまいます。

だから、内で死んでいるとか、母体がどうしても産むのに具合が悪いという状態以外は流産しません。

活元運度をすると却って楽に産める。流産した場合でも、簡単に終えます。何でもない時は体を丈夫にします。

 

近頃痛まずにお産をする方法として、活元運動をする人がとても多いです。

その誘導の方法は、仰向けにして、臍の上に手を当てて愉気をする。そうするとお腹の中が動き出してくる。動き出してくる人達は活元運動をしても大丈夫です。

手を当てると、動かないで逆に硬くなってしまう人もいます。そういう人を誘導すると、流産する場合があるのです。

予めそれ(臍に手を当てるということ)をやっておくといいと思います。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.141-142 一部改行は引用者)

活元運動は身体を敏感にし弾力を持たせるための運動だから、出産に備えて行っておくことはとてもよい。

その上でいつから始めるかということだけども、まったく整体の素養のない人ならば妊娠中、特に安定期に入る前に行うのは注意がいる。

体が整っているということは身体の様々な機能が正常にはたらくということなので、丈夫な子ならきちっと月が満ちるまで待って生まれてくるし、何か異常があった場合は流れてしまう。

だから考えよう、見方によっては「リスク」があることを知っておく必要がある。

うちを例にとると2009年から仕事をしてきているが妊娠期から整体の個人指導、活元運動の指導をお引き受けしてこれといった問題が生じたということはない。

そもそも件数自体がそんなにないのもあるけれど、基本的に自分の技術は愉気をベースに行っているので、急激に大きな変動を起こすようなことがないのだろう。

しかしまあ「いい出産をする」「自分で産むんだ」と決心したら、妊娠を意識したと同時に整体指導、活元運動をはじめる方が絶対にいい。

折に触れて何度も書いてきているが、「整体」という概念を理解するのに早くて1年、それらしい身体になってくるのに3年くらいはみておきたい。

何でもそうだが、こと身体のことに関していえば付け焼刃でぽっとできるようなものは信用ならないと思っている。

世相全般に高齢出産が増えていることに加えて、都心ならば体の固い人、基礎体力のない人も多いだろう。

そういう人がまた分娩台のような体の自由の利かない環境で産むとなると、やはり備えあれば憂いなしだ。出産は「準備で9割決まる」と思ってもらいたい。

引用とは少しことなる意見だが、「時代性」を考慮に入れれば腑落ちするだろう。『健康生活の原理』自体が40年前に出版されたものなのだから。

整体出産・整体育児を志すなら半年、1年くらい前から活元運動をはじめるといいだろう。

野口整体と予防接種:子供を丈夫に育てる知恵と覚悟

太郎丸がもうすぐ3歳だ。そんなわけで存在すら知らなかったのだが3歳児健診の案内状が来た。

たしか1歳児検診?かなんかの時だったと思うが、現地に行くとあっちからもこっちからも子供の悲痛な叫び声が聞こえて、「こりゃあなんのための集まりだ‥?」と妙に疲れて帰ってきたことを覚えている。

「身長を測ります」とかいって子供のかかとをギューギュー引っ張ったりするのがちょっと見るに堪えなかった。医は仁術じゃなかったのか。このくらいの時期なら大きいか小さいかくらい抱っこすればわかるじゃあないか。

人間はモノではない。そういう当たり前のところをスルーして、ものも言えない子どもを捕まえて、呼吸もタイミングもなくガサガサやらるのは残酷である。健康診断で親子ともに精神衛生を乱されるというアイロニー。

加えてうちは予防接種を打っていないので、そこをかならず突っ込まれる。

整体の仕事をしていると年に1、2回くらいは「子供に予防接種を打っていいんでしょうか?」といったたぐいの質問をいただく。大事な子供のためなのだ。いくらでも情報は収集して、自分で考えて決断すべきである。

参考までに一つ書いておくと、水野肇著『誰も書かなかった日本医師会』か『誰も書かなかった厚生省』という本のどちらかにBCG(結核の予防を目的としたワクチン)についての記述があったと思う。

これによるとBCGの普及率の増加と結核の罹患率の減少については数字上はなんの関連性もない、という調査結果が表されている。わかりやすくいうと「BCGを打ったら結核にかからない」という数値上の証拠は取れていないのである。

全く「無関係」ではないかもしれないが、だからといって何がなんだかわからないものを盲信して体内に注入するという神経がわからない。

まるっきり効果がないならまだいいが、何かしら作用はしているんだろう?人間の身体というのは研究して解っているのはほんの一部、99%はブラックボックスなのだ。それでなくてもワクチン関連の被害報告は枚挙にいとまがない。

そうかといって「野口整体」をちょっとかじったくらいでいきなり薬も飲みません、病院の検査は一切受けません、という盲信から盲信への枝渡りも困ったものである。

整体という生き方はなにも「西洋医療と対立する」という位置で固定されたものではない。「自分のカラダで感じ、自分のアタマで考えて行動し、その結果に自分自身が全責任を負う」という自立の態度なのだ。そもそも自立とか自由というのはそういうものだろう。

自分の健康は自分で保つ。

こう聞くと耳触りの良さも手伝って「アライイワネエ」といわれるが、わるいけど整体はそんな甘っちょろいものではない。

つまり他人の弁(客観)に頼らずに主観を軸に生きていくわけだから、その主観が狂ったら全てご破算なのである。

整体生活を志すならそういう基本的な思想理解からはじまって、身体がまあまあでき上がってくるのに3~5年くらいはかかると思って欲しい。取って付けたように整体やったって整体にはならない。生兵法はケガのもとで、いのちが掛かっていることを忘れてはならない。

くり返すが「自分の考えで行動して、その結果に全責任を負う」。自然界ならあたり前のことなんだが、人間の場合はこの大事なことを他人に丸投げしたまま生きている人が大勢いる。

いわゆる指示待ち人間、責任転嫁型の人間を脱却しないかぎり、自立した健康も、自由も独立もないのである。

弱ければ、強くなるより他ない。

どんなことに出会っても息を乱さず生活できるようになるまで、人知れず静かに鍛えることである。そういう覚悟がないなら最初から整体なんぞやらないでいい。

論点が予防接種からずれてしまったが、医術というものはたとえその行為がどんな些細なことに見えても、自分の、あるいは肉親のいのちに関わる一大事であることを忘れないでもらいたい。

世相全般にもっと真剣になってもらいたい。もっともっと、生きること死ぬことを深く悩んでもらいたい、というのが正直な思いなのだ。

生理痛は頭を休めて寝ること

このブログ内でも何度も書いてきたが、女性の体調不良に関するスマホとパソコンの被害は軽視できないと思った。

生理痛や生理不順にはじまり、妊娠中のつわりや腰痛・腹痛などは、だいたい2日くらいパソコンを見ないだけで軽減できるものが大半である。

これは40年以上前の野口先生の文章にも見つかる話で、「キーパンチャーのような仕事は女性に向かない」といった内容が記されている。おそらく、指の使い方、それから目の負担などを総合的にみた結果であろう。

そうはいっても今時パソコンを使わない仕事を探す方が大変である。だからといって全く希望の持てないような話かというと、その気にさえなればある程度はコントロールできるものだ。

可能な方はパソコンを使用する時間帯をシフトするだけで、なかなか良好な結果が得られることがわかった。簡単に言えば寝入りばなに画面を観ない、というそれだけでもかなりいい。

どうしてもやめられない仕事なら仕方ないけれど(これも本気になればやめられるのだが)、個別にお話を訊いてみると用もないのに電車の中や夜中にネットサーフィンをしてる人は存外に多い。

試しにデジタルデトックスを実践していただくと、一週間で身体は相当変わる。一番は頭蓋骨の形と頭の働きだ。出どころの判らない余計な不安や怒りが消えていく。そうなると一気に自分の住む世界が静かになるのだ。

生理痛・生理不順や妊娠前後のトラブルで病院や治療院にかかるなら、ますその前に1週間の早寝と脱液晶画面を勧めたい。必ずや効果を感じられるはずである。

生き物を観る眼

赤ちゃんの観方で一番大切なのは、他から抱きとったときの重さの感じである。異常のおこる前は、その重さの感じがフワッと軽いし、充実してズシリとした感じのするときは調子がいいときである。これは物理できな目方の問題ではない。「留守にして帰って、まず子供を抱きとる。その瞬間の重さの感じで留守中どんなに扱われたか判る。また皮膚のつやと張り、眼の色と光とちから、便の量と色、及び掌心発現の状況などから、観る眼を養うことが大切である。そういう生き物を観る勘は、生き物に注意を集めて。興味をもって観ることによって育つ」と(野口)先生は言う(野口昭子著『子育ての記』全生社 p.7)

先月太郎丸をつれて一歳半検診に行ってきた。診るものと言えば、身長・体重、歯科検診、それから言葉がどれくらいわかるのか、である。「言葉の遅れ」がないかどうかを確認したいようだ。

それはいいとして、歯の検査の時に無理やり口をこじ開けられたみたいで太郎はかなりショックを受けてしまった。顔が小さくなってしまって、翌日は熱も出した。結局調子が正常に帰るのに三日はかかったのだった。

診察室に入っては泣き出す子供の集団を見ると、やっぱり人情的には憤懣やる方ない気持ちにはなる。申し訳ないのだが、こういうものが「人間」の健全な発育を点検するものとは到底思えない。ただし、それは極々少数派の主観的な価値観で、ふだん我々が職能的に使っているような「生き物を観る眼」の方が相当「異質」なのだということも知っているつもりだ。

簡単に言うと、「動いている物を動いているまま、全体性を観る」というのがこちらの仕事で、一般医療(科学)では「動いているものを一時的に止めて、部分的に測り」たいわけである。

もちろん、こういう風に部分的に専門性を高めることで解ることもあるのだ。それはそうなのだが、部分的になることで観えなくなることも沢山ある。そして我々はいつだって、その専門分化によって「見えなくなる」ものに用があるのだ。具体的には先に引用した、「皮膚のつやと張り、眼の色と光とちから」というものがそうだし、もっと端的に言えば「いのち」というものが「それ」である。

整体というのは発生当初から、近代医療の見地で「見落とされるもの」を相手に仕事をしてきたのだ。科学的な分析は生命活動から出てくる燃えカスを調べているだけで、「いのち」そのものを捉えることは絶対にできない。

だから「人間の健康生活を指導する」といったときには、やはり整体の独壇場というのが実状ではないかと思う。我田引水も甚だしいのだけど、本当のところそうだとしか思えないのだからしょうがない。縁のあった人たちと向き合って、一人一人、直にこの価値を伝えていくより他ない。多勢に無勢なのだが、それは職業としての存在意義とセットなので複雑な気分だ。