うつは心の風邪か

体が風邪を引くように、心も風邪を引く。うつは「こころの風邪」みたいなもの。そういうフレーズをときどき目にする。

だいたいが「風邪」も「うつ」も定義があいまいなのだ。だからそうだといえばそうかもしれない。

おそらく「うつ」という病気が重篤なものになると相当に苦しいから、「今は苦しいけど、ちゃんと養生すれば必ず治りますから」という、心ある人からの励ましではないかと思っている。

野口整体の『風邪の効用』という本があるけれども、これによれば風邪は体の自然良能、すなわち発熱・発汗・下痢等々‥症状はいろいろあるが、その風邪を途中で止めないでしっかり経過すると身体の偏りは消失することを説いている。

もうちょっとわかりやすくいうと、自分の力で自然に体は整うってことを意味しているのだ。

ここでいう「偏り」って具体的にどういうことかと言えば、「骨格の位置」とか「重心バランス」のことである。

つまり発熱と発汗で筋肉がゆるむから骨格が正常な位置に戻るし、筋骨のバランスが整えば内臓機能も正常化し、そして最大化するのだ。

それなら、「うつ」にもそういう自然良能の力があるのか?と問われれば、それは間違いなくある。

「うつ」状態が体と心の偏りを正している、と考えて相違ない。

だいたい人間が治る時、というのは全てにおいて苦しみを伴うものなのだ。

「苦しいから治っている」といっていいだろう。

風邪もそう、そうなのだ。

「うーん…」と寝込んで唸っているときに、必ず身体のどこかが治っている。

共通しているのはうつでも風邪でも必ず、過去に何らかの「不快」を味わっているということだろう。「その時」の情動が消化しきれずに、体の内、あるいは心の中に居座っているのだ。

それを遅ればせながら、1年後でもいい、いや10年、20年後でもいいから身体上に表現して、感じ直して、苦しみ直すことで心身ともにクリアになる。

心でも体でも、きちっと病気をすることが治るためには必要なのである。

ときどき心理カウンセリングを受けた後で「具合が悪くなった」とか、「かえって気分が落ち込んだ」とかいうことが起こるのは、過去に感じ、出しそびれた不快情動が記憶の底から浮かび上がってきたからだと言える。

感じはじめたらそれから何日後か何週間後かはわからなけれども、やがては消えていくのだ。

暗がりに繁殖したカビとかキノコがお陽様にあたると消えてしまうように、心の底にも意識の光が指し込むとクリアになる。

ただまあ、人によってはそういうカビとかキノコみたいな不快な情動体験が「生きがい」とか、「生きるための燃料」みたいになっている人もいるから、心の治療というのはむずかしいのだが‥。

場合によっては、少しくらい偏りがあった方が「人間味」がある、と言えなくもない。

まあでも、せっかく心の風邪を引いたのならこれを上手く使わない手はないだろうと、わたしなら思う。

風邪をきちんと経過したあとは身体がさっぱりする。

これと同じように、うつを経過したあとで、今までとは違った創造的な自分だけの人生の道が拓けた、という例を、日々の臨床でたまさか見させてもらっている。

いずれにせよ病気は外から無理やり治すものではない。

「いのち」という全体性の中でその目的を正しく理解し、善用するべきだ。

苦しいときはその苦しさの中心を見据え、本質を見極めようとする態度を学ぶことである。

やがて必ず、その病の中に「道」が見えてくる。

抑うつ -音のならない身体

抑うつというものがあまりにありふれているので、それを「まったくの正常」な反応だとする精神科医も現れてきている。もちろん、その場合、「日常の仕事や職務を妨げない程度のもの」という条件がついているが。しかし、大多数の人々の感じ方や、行動の仕方が、統計上では「正常」をそのように定義するなら、精神的な疎外感や距離感をもつ分裂傾向もまた、それが多くの人に見られ、入院を要するほど深刻なものでなければ、「正常」ということにあるだろう。また今日その発生率がきわめて高く、統計的には、ほぼ現代人の常態になっているような、近視や腰痛についても、まったく同じことが言えるだろう。

…人間をバイオリンにたとえてみよう。バイオリンが正しく調弦されているときは、弦は振動し、音を出す。それで、楽しい曲や悲しい曲、葬送曲や喜びの歌を奏でることができる。うまく調弦されていなかったら、そこからでてくるのは、不協和音だろう。弦がゆるんでいたら、音をだすことすらできないだろう。その楽器は「死んで」いて、反応を示すことができない。それが抑うつの人たちが陥っている状態である。抑うつの人は反応することができないのだ。

%e3%83%90%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%b3反応することができないという点によって、抑うつ状態は、ほかのすべての情動状態から区別される。希望をくじかれている人は、状況が変われば、信仰や希望をとりもどすだろう。落胆している人は、その原因がとりのぞかれると、元気になるだろう。落ち込んでいる人は、楽しみのきざしがみえてくると、明るくなるだろう。しかし、抑うつの人から反応を喚起できるものは、なにもない。むしろ好機が訪れたり、楽しいことがあると、かえって抑うつを深めてしまうこともよくある。(A・ローエン著 『甦る生命エネルギー』 春秋社 p.11)

整体では「身体から表情が消える」ということを最も警戒します。もう少し平たくいえば「止まっている」という状態を解消する、勢いを呼び戻すのが役目です。一人ひとりを丁寧に見てみると、現代社会を生きている人の大半が生理的な動きの大部分を制限されています。それは「感じている」ことを抑圧して、「考え」によって感覚を塗りつぶして生きていくことを半ば強要されているのかもしれません。

「プラス思考」などに代表されるように、「考え」はいくらかでもコントロールできますが、「感じた」ことはどうすることもできないのです。心的ストレスの強い環境にたえず身を置いている人は徐々に筋肉を硬化させ(筋肉の鎧化)、やがては「感じた」ものを認識しない身心を構築していく。これがいわゆる抑うつ症の身体です。

整体の対象となるのは須らくこうした「鈍り」が常住となった身体です。整体操法の目的は一言でいえば「感受性を高度ならしむる」ということに尽きます。ローエンが抑うつの身体を「音の出ないバイオリン」に例えてその回復を目指すことも整体の健康観によく適合しており、興味を覚えるのです。整体という行為は治療というよりは、調弦のような技術といった方が合っています(実際に整体では人体上の急所を「調律点」と呼んでいる)。その人の感覚や感受性の本来のものをいっしょに取り戻していく作業です。

その過程は決して楽なものではありませんが、音の出ない身体で人生を生きることは、「生きていながら生きていない」といってもそう間違いではない。今、「生き生きとしている」ためには、「楽しい曲や悲しい曲、葬送曲や喜びの歌」などを正確な音調で奏でられる身心であることが不可欠なのです。ただし楽器と違うのは、人間は生きており、ものではないということにあります。

直る力はその技術を扱う側にはなく、直されようとする当人の中にあります。失われた身体感覚を取り戻すのは、その人の裡なる要求によってなされるものだし、指導者もまたその要求に応ずるのが仕事のすべてです。要求が出ないうちに何を施しても、これはどうにも何にもなりません。その「時」を見極めて、機に応ずる力が双方に必要です。やはり意識を閉じて、無意識に任せることが要訣といえます。

命はいつだって光を失わないものです。光が見えないのは、意識によって曇らされている時だけでしょう。活元運動の必要性もまたここにあると思うのです。