誰しも一度薬で治ったものは、その薬がないと治らないと思い込む。整体で治ってものは、整体を受けなければ駄目だと思ってしまう。それが何もしないで、よくなってしまうことはとても考えられないことで、だから不思議なのだ。
しかし一旦、何もしないで乗り超えた体験がある者には、もう不思議でも何でもない。自己の内に、灯明(ひかり)を発見するからだ。その灯明に導かれて動いていけばいい。これがほんとうの意味の自立ということかもしれない。
もう一つ、私が感じたのは、自然の経過というものには、人智の及ばない順序と速度があって、どんなに痛くても、痛いことなどお構いなしに、着々と周到に進められているということだった。
速効を求めるものには、じれったいような動きかもしれないが、よく考えると、お産にしても、育児にしても、病気を経過するにしても、この順序を全うしたものは、皆そのあと生き生き丈夫になっている。
私は「自灯明」の自が、人間の意志で頑張る自力ではない、宇宙の息に連なる自であり、無限の灯明に包まれた安らぎの自であることを思い知らされていた。
そして「自灯明、法灯明」が、お釈迦様が亡くなるときに、弟子に言われた言葉だったということに改めて感動した。すると、不思議とそこに先生が重なってきて“真理は一つ”という思いが深まるのだった。(野口昭子著 『見えない糸』 全生社 pp.14-15)
手技療術を行う人がよく使う言葉で、「治る力は、治療者と患者の力が半分、半分」というのがある。確かにそうとも言えなくもないのだが、本当のところ「治る力」というのはそんなふうには分けられない。「生命活動」というのは、はじめから宇宙全体の一個の「はたらき」なのだ。そこから分離的に働くのが人間に具わる「理性」である。
理性による「悪い・良い」という分別心が、もともと完全無欠であるはずの自然経過を阻害する。病気と健康の対立構造も、人間の作りだした「概念」なのだ。知恵の実を食べた人間は神の世界を追われたそうだが、宗教という訳語が与えられた「religion」という言葉には、その切り離された人間と神の世界を「もう一度つなぐ」という意味があるらしい。一報で仏道の禅という行は、人間はもともと世界と切り離されてなどいない、「一つ」であることを体得、体認するための行法である。
そもそもがいきている人間には、絶えずどこかが毀れている。それを絶えずどこかで治しているという、平衡作用がはたらいている。これを生きている、という。この動きは極めて玄妙なものだ。そのはたらきを体得できない人にとっては命はどこまで不思議なものとして映るのだろう。大事なことは、不思議といおうと真理といおうと、生命活動はまさにお構いなしであり、もとより〈いのち〉にはキズもケガレもくっ付きようが無いなのである。
そういう観点から、愉気法も活元運動も、いかに「自分が、する」という考えをを消せるかが鍵となる。「何かしている」のだけど、誰も何もしていない。この「何もしない」という積極的受動性の発露が愉気でもある。本当に任せ切ったときに、自我は自己と同一になり、宇宙になる。
そしてこれはいつでも「そう」なのだけど、ほとんどの人が気がつかない。自分のまつ毛は自分で見えない。近すぎて。坊主に憧れて「任運自在」などといっても、「梵我一如」といっても、自分自身が心底肯えなければそんな言葉はガラクタに等しい。これから一つに「なる」とこなど不可能だ。最初から一つなのだから。認める必要もない。そういう自分が引っ込めば済む話なのだ。