自分を拠り所に

本屋で立ち読みしながら、パラパラとめくった『禅語録』の中から、
自灯明 法灯明
という語句が目にはいった。
お釈迦様が亡くなるとき、弟子のアーナンダが、
「私たちは、これから何を依りどころに生きて行ったらよろしいでしょう」と尋ねたら、お釈迦様がそう答えられたと言う。
私はハッとした。先生が亡くなるまで説きつづけたのも、全くこのことだったからだ。
“自らを灯明(ひかり)とし、自らを依りどころとせよ。法を灯明とし、法を依りどころとせよ”
自灯明 法灯明――
何と端的な表現だろう。私は霧雨の庭に急に薄陽がさして来たような明るさを感じた。(野口昭子著 『見えない糸』 全生社 pp.10-11)

自分の仕事は、無条件に人を励ます仕事だ。それも「○○だから大丈夫」、「□□できれば平気だ」という話ではなく、ただの「大丈夫」でなければならない。

ありがたいことに毎日いろいろな状況の方のお話を聞かせていただく。生きていくのは「大変だ」のひと言で片付けてしまえばそれまでだが、人の悩みはどれも「個性的」である。いってみればすべてがオリジナルであり、すべてがレアケースなのだ。

その一つ一つに「これから」対応策を考えているようでは打つ手がいくつあっても間に合わないし、すべてが後手なってしまう。そもそもが、そういう人間的な行為や努力でどうにかなるようなレベルのものでは人は苦しまない。人間的「はからい」ではどうにもならないから、「悩む」のだ。

そうでありながらも、人間には等しく不滅の灯明(ひかり)が与えられているというのも事実である。そういう意味でヒトは平等だ。ところが思考が錯綜するとその不滅のはずの「光」が見えなくなる。これがいわゆる「迷い」の正体だろう。

仏道の方では、こういう「悩み」や「迷い」のことを無明と言ったりする。繰り返すが「明かり」も「光り」もはじめから失われてはいないのだ。光があっても「見えなくなっている」ことが問題なのである。いつだって問題事は「あちら」ではなく、「こちら」にあるのだ。

自分自身が自分自身を曇らせている。その曇りを自分自身で払う。これ以上ないほど確実ではないか。自分を拠り所にする。その為に他者の力も我がモノとして使うことができるのは、やっぱり自分に力があるからなのだ。

これから「なる」のでは間に合わない。すでに「ある」ものに気付けるかどうかである。

まさしく「自灯明 法灯明」だ。