前回からの続きとして河合隼雄著『ケルト巡り』について書いていくことにする。
初出版が2004年の1月30日とあるから、およそふた昔前の本ということになる。当時としてはだいぶ前衛的な内容であったと思うが、いま読むことにも大きな意義があるだろう。
令和になって6年目を迎えた現在の日本は依然として西洋近代的なものの見方、そして価値観をベースに生活をしている。
具体的にいえばそれはキリスト教の霊肉二元論を背景に持つ(このように「意識」している日本人は少ないが)物心二元論、そしてそれに付随する機械論的世界観である。
我々日本人もこうした価値観や世界観を「当たり前」として生活しており、その高度な合理性や利便性から生じる恩恵は計り知れない。だからひとたび自然災害などによってこうした近代文明の仕組みが崩壊すると、普段浸っている近代文明の恩恵を自覚すると同時に、その構造的な脆さについても痛感させられるのである。
考えてみればどのような文化、文明においてもその利点と限界、そして問題点があると言えそうだが、近代以降急激に台頭して来た欧米的な価値観と世界観(以後これらをひとまとめにパラダイムと記す)は高度な合理性やパワーを兼ね備えているために一見すると完全無欠のような印象を与える。そのため航海術の進歩によりヨーロッパ諸国が他国に進出すると他所の文明を呑み込むように拡大していったのである。その過程で多少の問題点が顕在化しつつも、現在に至ってなお世界を席巻しているといっていいだろう。
これに関する記述として本書から次の部分を引用してみよう。
物事を研究したり論文を書いたりするときに私たちは、どうしてもヨーロッパ近代の考え方から逃れられず、そのパターンに従ってしまいがちである。言うなれば私たち現代人は、知らず知らずのうちに、キリスト教が生み出してきた文化を軌範として思考しているということである。<中略>
…しかし、現代のわれわれを取り巻く状況を考えた場合、それだけでは世界を一面的にしか捉えていないと言わざるを得ない。これからは「無意識」的なことへの視野も含めて、世界の在りようを考えていかなくてはならないと、私は考えている。河合隼雄著『ケルト巡り』NHK出版 p.8,9
およそこの辺りまでは前回の記事の重複になるが、こうした西洋近代的なものの見方だけでは解決のつかないものとして、人間における幸福や苦悩といった心の問題や死が考えられる。
科学では視覚的に捉えられない事象は死角になり、研究の対象足りえない。人間にとっての心や死などはまさにその典型といえるだろう。西洋近代のパラダイムは唯物的であり、ともすればそれは無機的になりやすいのである。
その結果、我々が幸福について考える時は知らず知らずのうちに物質的な豊かさにのみ傾倒しがちである。換言すればそれはおカネやモノの追求に集約されるが、これらをどれほど所有しても「幸福」になれないばかりか、むしろ多くを所有したことによって「不幸」に陥ったり、あるいは死という厳粛な現象の前ではそれらがあまりに無力であることを思い知らされたりする。
また死にまつわる現象として病気が考えられるが、これら病気に対しても科学は数々の有効な対応策を持っているが、それとて万能ではない。
例えば記憶に新しい新型コロナウィスルによる肺炎が猖獗した折にも、先進諸国はこぞって対策を講じたが、それらがどれほど奏功したかは疑わしい。
もちろん様々な対応策の効果が全くなかったとは言いきれないが、最終的には猖獗の波が去るまで待つより他なかったのではないか、といった結論さえ思い浮かぶ。
こうした問題の根底にあるものとして、西洋的な自我を中心にした考え方、そしてその自我から切り離された「無意識」や「自然」に対する見方や付き合い方が考えられる。
これについて河合はユングによる次の一節を引いている。
ユング(1875-1961)の言で私の好きな言葉に、「ヒューマン・ネイチャーはアゲインスト・ネイチャーである」というものである。ヒューマン・ネイチャーのネイチャーは「性質」を意味し。アゲインスト・ネイチャーのネイチャーは「自然」を意味する。
この言葉が示すように、人間の特徴は、その存在が自然の一部であるにもかかわらず、自然と切れる傾向を持っているところにある。同書 pp.17-18
つまり人間は動物でありながら反自然的な行動を取る、これはどうしたことか、というのである。
ここで改めて「自然とは何か?」ということを考えなければならなくなるが、筆者は別の著書で近代の日本がネイチャーの訳語として「自然」という言葉を当てた点を視野に入れて次のような考察をしている。
キリスト教文化圏におけるネイチャーとは人間以外、もしくは私以外の外界を指す意味として用いられる。そしてここでいう「私」とは、デカルトによって確立された我思うの「我」、つまり自己の中でも意識を中心とした自我を指している。自我と自己について
ところが明治までの日本は東洋的世界観の中で純粋培養されてきたため、西洋流の自我から切り離されたネイチャー(≒自然)といった概念はそもそも存在しなかったのである。
つまり近代以前の日本人からすれば人間も自然の一部であり、「自分」は見えざる大きな流れの中で生かされている、といった感覚を多くの人が持っていたのではなかろうか。この時自我は西洋のように確立して自然と対立したり支配したりするものとはかんがえられない。むしろ東洋において我は慎み忍ぶものであり、無我こそを至高に据える傾向が強かったように思われる。
それが近代化以降欧米のパラダイムを受容していき、僅かにではあるが自我が芽生え自然から遊離し始めたのである。しかしヨーロッパやアメリカの人たちの様に、自我が完全に自然から切り離されて神とのつながりによって安定を求めなければならない程ではなく、自然(ここでは外界や無意識)の中から浮島の様に自我が顔を出したかと思えば、すぐに埋没し、他と溶け込んでしまう性質を持っているのが日本的自我の特徴である。
この他者や外界とふわっとつながっている、あるいはつながれる感じが日本人の特徴だとすると、これと同様のものを筆者はヨーロッパの中でもアイルランドの人たちからは感じるのだという。
しかし筆者はただ欧米人と日本及びアイルランド人をただ対置させるだけではなく、深いところではお互いに共通のものを持っているのだという。その中で自我を重視して生きていくのか、無我を大切にして生きるのか、といった風に強調する面が違うだけで、欧米の人たちにも日本人のような感性を発揮することはできるし、日本人でも欧米人のような合理的な自我を確立することも可能なのである。
例えばヨーロッパの歴史上にもルソーやゲーテのように自然との融和を主張する思想家がいるかと思えば、日本人の中にも欧米の人たちと同じ次元で議論を交わすことができる人たちが増えている。
この場合「どちらがいいか」ということではなく西洋と東洋の性質の違いということを知ったうえで、自分は現在どのような生き方をしているのか、あるいはどのような態度が欠けているのかなどを俯瞰できるようになると、現代を生きていくうえでは非常に有益なのではないかと私には思える。
日本人が欧米の在り方を学び、欧米人がキリスト教以外の文化を知ることで何が得られるのか、具体的には思い浮かばないが、「混迷の時代」などと言われる昨今にあってこうした構図を知らずに生きることは羅針盤のない航海に等しいのではないかとすら思うのである。
「いかに生きるか」ということを考える時、全体の中での個人の在り方、そして私にとっての公というものが明瞭に把握できることが望ましい。このようなことを省察するうえで本書は有用な手引きとなるのではないかと、私には思えるのである。(つづく)