泣く子

むかし社会科で「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉を聞かされたが、地頭の方はともかく泣く子にも勝てぬというのは今からするとおかしいように思う。

子どもは大人よりもずっと心が開かれているのだから、丁寧に応対すれば泣く子の気持ちも理解できるし、ささくれだった心をなだめることだってできる。自分で子どもを持った経験からこれは確信している。

なぜこんな話かというと、最近外出するとどうにも気になる場面に出くわすからだ。

町に出るとベビーカーに乗せられた子どもが泣いている。それはしょうがないけれども、母親は泣いている子どもを放ったまま黙ってクルマを押している。別段急いでいる様子もない。

あるいは父親が娘を電動自転車に乗せている。前乗せのシートでやはり泣いているのだが、信号待ちで何か言ってあげるのかと思うと、こちらも何かラジオの雑談でも聞き流しているかのようにまったくの無視である。

こういう時に何故ひとこと「どうしたの?」といってあやしてあげないのだろう、と思う。いや親と言えど人間である。虫のいどころ次第で子どもの泣き声が腹立たしく聞こえることもある。たまたまそういう場面に出くわしただけかもしれないが、それにしてもむかしはあまり見ない光景だったように思う。そのむかしの記憶もだいぶおぼろげなのだが…。

三つ子の魂云々…というのももはや死語かも知れない。しかし整体の潜在意識教育という観点からいえば(そんなもの持ち出さなくても)上のような行為は子どもの発育を歪める。

子どもの頃なんてどうせ覚えていないのだから、もう少し大きくなったら…、などと思っているとしたら10年後20年後に手痛いしっぺ返しを食うことになるだろう。

まあその頃になるともう自分が子どもに何をしたかなんて覚えていないのだろうから、うちの子が急に反抗し出した、他所で事件を起こした、暴力を振るった、という認識になるのかもしれない。胎教をはじめ自分のやってきた育児と、現在の子どもの行為の因果性など想像もつかないのではないだろうか。

ともかくこういう子育てが子々孫々繰り返されれば人間の世の中は殺伐としたものにならざるを得ない。世界の元首があつまって平和な世の中、慈愛に満ちた世界を作りましょうと言ったところで、根本的に人が人を信じていないのだから武装解除も核の廃絶も為し得ない。

とはいえそもそも競争と闘争は生き物の常なのだから、戦争や紛争をどうの…ということ自体がナンセンスなのかもしれない。

それはともかく生き物が自分の種子を十全に育てられなくなったとしたら、それはその種(しゅ)全体が縮小の方向にあるのではなかろうか。

これも人間が増え過ぎたことによる随伴現象だと思えばマクロにおいては納得できないこともない。とはいえミクロの視点からいえばそういう風に育てられた子はゆくゆくは本人のみならず周囲をも不幸にしかねない。

ヒトラーの例を出すまでもないだろうが、子どもの頃に与えられた不遇の記憶は時間を経て変質し思わぬ形で噴出する。

「少しくらいは放っておく方が子供は早く自立するし、タクマシク育つ」などという乱暴な意見もいまだに耳にするが、これは保護者・養育者の怠慢を是認するための詭弁にしか聞こえない。

確かに放っておかれた子どもは早く自立する(ここでの自立とは自分で身の回りのことができる、という程度の意味である)。栄養を欠いた子は早く歯が生え、早く歩きはじめる。泣いても要求を受け入れてもらえない子は言葉を早く覚える。

野性動物として育てるなら成長は早い方がいいかもしれないが、人間としてよく生きる道に導こうと思えば先ず感情を豊かに分化させ、細やかな情緒を育まねばならない。そのためには言葉を話すのも、人見知りをするのも遅いほどよい。そうなると当然独立期も遅くなるが、その方が心の清らかな時期も長くなり素直に伸びるのである。

そのため保護者には子どもが言葉を話さなくとも、要求を察知して叶えてやれるだけの感性が要求される。頭だけが賢しらに発達し、覚え込んだ「育児法」を押し付けるようなガサツな育児を繰り返していては、子育てに欠かせない野性的な勘は退縮する一方である。

こういう親によって全く要求を聞いてもらえなかった場合は自分の感情がわからない大人に育つ。感情が分からないと大人しいかというとその逆で、衝動的に感情に支配される大脳的弛緩状態が常となる。

また中途半端に理解されたり、されなかったりといった場合は早くから賢しらな言葉を無理解に駆使するようになる。俗にいう「ませる」というのはこれである。

早く育った子はゆったり育った子に対して何かと優位になることが多い。そのために先に獲得した知恵で意地悪をしたりいじめたり、ということも出てくる。

すべてが悪い方向に行く、というような言い方はちょっと主観に偏りすぎかもしれない。しかし客観性・普遍性ということを当てにしていては間に合わないところまで、相当に大衆心理が歪んでいるように思えてならない。

不遇な環境で育ったがために立派になった人もないかもしれないが、このようなケースでもどこかできちっと愛情を受けていなければ十全な発育は望めないと私は思う。感情が豊かにはたらき、心にゆとりのあるやさしい子に育てようと思えば心を細やかに受け取ってまめやかに観ていくよりほかない。

忙しくてとてもそんなことはやっていられない、という人は「児童は、人として尊ばれる…」からはじまる児童憲章を一度読まれるとよいと思う。

「なにもそこまでやらなくても死にはしない」という言葉も嫌いである。死なない程度の育児でよいなら今の日本なら誰でもできる。その点子どもは元来丈夫なのである。しかし一人の子どもの内にこころがあり、そこに一つの宇宙があると思えばその世界を憎悪や窮乏、絶望に染めてはならない。

よってすべての母親、父親は一つないし二つ以上の世界の創造主の資格を持つ。自分が神さまと同じ立場にあると思えば、泣く子を前にしたときに自ずと慎みと敬虔さを具えた態度になるのではないだろうか。

活元会 2017.12.9:暗示からの解放

12月9日の活元会では野口昭子著『回想の野口晴哉』ちくま文庫 から資料を抜き出して(下はその一部)使いました。


……「或る日、包丁を持った男が玄関に上がり込んで、

“ここは俺達の縄張りだ、何で挨拶に来ないのか!”と怒鳴っていた。弟子がオロオロして飛んで来たので、僕が出て行くと、男はもっと凄んで、畳に包丁をグサリと突き立てた。僕は咄嗟に

“この手が離れない、離そうとすると、ギューッと握ってしまう、離して見給え”

と言ったら、ほんとうに離れなくなってしまった。

“この尻も畳にくっついてしまう。立とうとすればするほど、ピタッと畳にくっついてしまう。さあ、立って見給え”

と言うと、歯を喰いしばって立とうとするが、どうしても立てない、そこで、

“警察でも呼ぼうかな”

というと、泣き出しそうになって、

“何とか、カンベンしてくれ”

と言うんだ。可哀想になって、

“二度と来るな”

と、ポンと手を叩くと、ふっと元に戻り、コソコソ帰って行った」

私はびっくりして、「それは催眠術の一種なの?」と訊いた。

「不動金縛りの術っていうんだ」

と何でもないように言う。一体、何時、何処で、こんな術を習得したのだろう。

“私も修行してできるようになりたい”と言うと、先生はまったく意外な返事をした。

「修行なんて無駄なことさ。みんなお互いに暗示し合って、相手を金縛りにしているじゃないか、自分もまた自分を金縛りにしているじゃないか。

人間はもっと自由は筈なんだ。だから僕のやってきたことは、人を金縛りにすることではない。すでに金縛りになっているものを、どうやって解くかということだ。

暗示からの解放だよ」

そのころ先生は講習会を開き、「全生」というパンフレットも出したが、その説くところは、生を萎縮せしめるすべての既成概念を打破することであった。……(野口昭子著『回想の野口晴哉』全生社 pp.45-46 太字は引用者による)

すでに金縛りになっているものを、どうやって解くか

小説調にサラサラサラと綴られていますが、わたしはこれこそがいわゆる野口整体の「核心」だと思えてなりません。

人間の健康や幸福というものをずっと突き詰めていくと、早晩「根本の原因は何か」ということを考えさせられるはめになります。

そうすると、本来自在であるはずのその人の自由性を制限しているモノは何なのか?それは潜在化した「もろもろの観念」ではないか、ということがだんだんと浮かび上がってくるものです。

その潜在しているものを掴み出し、言語化することで形を与えて、意識の俎上に挙げてしまうとその時点で力を失わせることができるのです。

これが「整体指導」とか「精神療法」と言われているものの実体、正体だと思うのです。

それはいってみれば「鍵」のようなもの。

心の中にある観念の中で、その人の「枷」になっているものをはずしていくための鍵を見つけたいのです。

そもそも鍵というものは鍵穴から入っていける大きさで、中の構造にぴったり合う形を取り、そして右か左か正確に回す力を加えることで、小さな力でも開けることができます。

逆にこうした条件をすべて満たさなければ、どんなにつよい力を使っても鍵は開きません。無理やりこじ開けようとすれば、扉は開くどころかこわれてしまいます。

だから心の病でも体の問題でも、その「鍵」が見つからなければ本当には治らないのです。

ところが実際は鍵が見つからないままに、あれもこれもと色々なことをやって結果的に心や体をこわしているものが「治療」、としてまかり通っているようなことも少なくありません。

本来であれば、治療とはその人の身心全体に起こっている問題の構造をよく理解し、固有の正しい方法を見つけ出して適用する、ということが求められているのです。

面白いのは、ふつうの鍵はたいてい一つですが、生きた人間の臨床における「鍵(刺戟方法)」はいろいろにあって良いところです。

例えばそれが言葉(対話や催眠術)であったり、また手技による身体への刺戟であったり、他にも味や香り音楽、などなどなど‥、その気になれば五官を通して感知されるすべての刺戟を鍵として活かすことができます。

このことを精神科医の神田橋條治氏は「一木一草、これ治療である」という風に表現されています。

とにもかくにも、そうやって「生を萎縮せしめるすべての既成概念を打破すること」がその人の治癒力を最大限に活かす「鍵」たり得るのです。

つまり「暗示からの解放」というたったひと言、それだけのことなのですが、臨床の場ではそこに至るまでにものすごいドラマが生まれることがある反面、時にはお互い知らぬ間に「自由になっていた(=治ってしまった)」、何ていうこともあります。

いってみれば「病気」というのは「観念の化けたもの」と言っても相違ありません。

おそろしいのは、どんな人の「言葉」にも生殺与奪のちからがあるということです。知らないうちに余分な観念を植え付けてしまうことも沢山ありますし(これが多い‥)、その観念を取り除き自由にするちからもある(こちらは技術が要る‥)。

「コトバ」というものは、良くも悪くも「劇薬」なのです。

それだけに使い方を正しく学んでいくことで、すばらしい「治療薬」にもなりえます。

一方で「こころの構造」というのはとても複雑でわからないことだらけ。それだけに暗示をかける時はみんな知らずにポンポンかけているものが、いざそれを解こうとするとプロの専門家であってもむずかしい場合があるのですね。

「敵を知り己を知れば‥」という諺がありますが、〔人間〕に取り組む者はまず自分を知らなければ話にならず、いやそれ以前に人と「お話(対話)」ができないのです。だからいまのわたしは、人の鍵に取り組むまえに、まず自分のこころに掛かった鍵を見つけよう!と日々精進している次第(つもり?)です。

次回の活元会は12月14日(木)です

(この記事の参考図書)

気合と勢い

・気合といふこと、操法の大事也。彼の実を虚ならしめ、我の実を彼に移す。彼の実、病気の塊り也、我の実、健康なる正気也。彼吐く時我吸い、彼の吐き切る時我が指に力を入れる、この呼吸適へば、忽ち彼満つ。
これを気合といふ也。(野口晴哉著『治療の書』全生社 p.118)

・私は先生の気合を思い出した。先生の気合は比類のないもので、琴を立てかけ、何本目といって買い合いをかけると、その糸だけがピーンと鳴った。山道で気合をかけると、他の人の声はみんな谷に落ちるのに、先生の気合だけは、遠い山脈に、唸るように、波打つように消えて行った。
そんな気合を、先生はここ(御岳)で会得したのだろうか。(野口昭子著『回想の野口晴哉』ちくま文庫 p.28)

今日は夕飯をすませたあと、子どもと家で気合をやって遊んだ。

整体法には呼吸法が伝わっている。邪気の吐出法、漏気法、深息法、気合法の4つだ。

もしかしたらもう少し、奥義のような秘密裏の呼吸もあるかもしれないけれども、そこまで奥のことは私は知らない。

 

気合法というのは、イエーイという音声を出して、下腹部に強い膨満感を生む呼吸法である。琴やキターのような弦楽器に向かって気合をやると反響するから面白い。

家には琴はないのでグレゴリオチャイムで遊んだ。エーイ!と気合をかけるとイーーン・・と鳴る。

1歳半の子供がキャー!と発声しても鳴るので、波長さえ合えば共鳴することが判った。神秘性はなくした。極めて物理的ではないか。

久しぶりにやってみると、発声とともに仙腸関節がぐーっ引き締まるのが如実にわかった。さらに両足の拇指球がぐさっと突き刺さるような立ち方になる。

 

腰がびーん!っと締まるような感じで、簡単に言うと「やってやろうじゃないか」の心境になる。

整体操法の究極は人間に潜在する力を奮起することなのだ。

こちらの勢いが相手に共振するようにする。

 

相手の勢いを喚び覚ますのはこちらの勢いなのである。

指導する者はそういう「圧縮した力」を瞬時に爆発させる技術が必要だ。

 

さて気合を繰り返しやっていたら、梅雨の鬱滞感もサッパリと消えていた。理屈をこねてもどうにもならない時は、自分で自分に気合をかけてしまえばいい。

本当のことを言えば気合に音声はいらない。いちいち大きな音を立てるのは虚の活かし方を会得するための実を使った稽古である。

 

単なる大声でガアガアいったって、それは形骸化した迷惑行為にしかならない。

実際に気合いと練るには「真剣に生きる」ということに尽きる。

 

裡なる要求を知り、その実現に向けて全生命を傾ける。

詰まるところ気合の要訣はこれだろう。

今を無駄にしてはいけない。

今を生きよう

今という「機」に間に合うからこその機合いなのだ。

健康って何?

「…子供は大人よりももっと、心と体が直結しているんだ。だから感情や心を抑えられれば体をこわす。…」

「一人を丁寧に観ていることだ。そして子供の眼がいつもいきいき輝いているように導くことだ。それさえ出来れば、大人は簡単さ。大人の中にある子供を見て話しかければ、それでいいのだ」(野口昭子著 『回想の野口晴哉』 ちくま文庫 pp.282-283)

今日太郎丸を保育園に迎えに行ったら、なにやら調子が変である。風邪の兆候もあって、だいぶ咳き込んでもいるんだけど、そういう問題じゃない。目が縮んでいる。

帰り道、いつも踏み切りで叫ぶ、「でんしゃー!」も今日はない。やっぱりおかしい。「なんだろう?」ずっと考える。

ある地点で気がついた。「あっそうか、今日は歯科検診があったと言ってたっけ」ということで、アタリはついた。なるほど、という感じ。痛かったのかも知れない。口をこじあけられたのかもしれない。

 

そうこうしている間に家に帰り、ごはん。そしてお風呂でリカバリーをはかる。

……

ゆるまない。

すみやかに添い寝に移行して、背中に愉気する。背中は固い。やはり、「ショック」だったのだ。

淡々とおなかに愉気する。汗が出てきた。これで動き始めたので、明日の朝また様子を観ることにする。

 

いつもそうなのだが太郎丸は「健康診断」をすると、健康じゃなくなる。おかしな話なのだが「健康って何?」ということが共有できていないからこうなるのだ。

健康とは心にも体にもしこりがないことだ。「順」という状態。他人が乱さなければ子供はいつも順である。大人はその順を快と感じられるように、感性を澄ませておく必要があると思う。

 

整体をやるならこの「健康って何?」を共有するところが着手になる。あなたにとっての健康とは何だろうか。ついでにいえば幸せってどういうことだろうか。

行先の決まっていないものはどこにも辿り着けない。整体に限らず医療に掛かる時にでも、ふと立ち止まって考えてみてはどうだろうか。その行為にどんな意味があるのか。あなたにとっての健康とは何だろうか。

無窮のちから

赤ちゃんは、電話の音、外を走る車の音、廊下を歩足音にもビクッとする。その点、離れよりも、母屋の方が騒々しい。不安なのか、怖いのか、よく泣くし、眠りが浅い。

すると、おぢぢは音楽室に連れて行って、子守唄?をうたう、低い声で、ゆっくりと…

「ガタガタ、ガタガタ
騒がしいのが人間の世界なんだよ。
その中で静けさを保てるのが人間なんだよ。
人を信頼して生きていれば
そういう世界に住めるんだよ」

赤ちゃんは言葉が判るらしい。だんだん深く長く眠るようになった。

このおぢぢの子守唄は、赤ちゃんだけでなく、若いパパ、ママにも聞かせたものらしい。それは親が細心の注意を配ることは大切であるが、余り神経質になりすぎると、それが赤ちゃんに即、反映するからだ。(野口昭子著 『子育ての記』 全生社 pp.228-229)

月並みだけどやっぱり自分が子供を持ってみると、子供の世界に関わることが増えた。保育園の送り迎え然り、お客さんの相談事もまた然りだ。

「三つ子の魂百まで」というのも、日々の体験からそう実感する。この場合の「三つ子」というのは、今の「満年齢」に換算すると2歳くらいまでを指すそうだ。この時期に接した保護者・養育者の精神状態というのが後々の潜在意識の方向づけとして大きな役割を占める。

しかし、昨日ののり超える力でも示したように、人間というのは身体の使い方、心の用い方に関しては、かなりの自由度が与えられている。つまりある程度自我が発達してから、「自分で自分の構造を考える」ということが人間には可能なのだ。もとより心理療法や整体指導というものは、そういう人間の精神構造を土台として立脚している。

もちろん子供の時には、周囲の大人がその子供の「こころの世界」を守ることが大切なのは間違いない。しかしながら、母体内や幼年期において、どれほど外力に煽られ、乱されても、根本的な自然治癒力とか秩序回復機能とかいう自然の「ちから」を失わせることはできないのだ。

確かに心も体も一過性に偏ることはある。だけど生命は歪まない。命はいつだって健全なのだ。どこかで一度、生命に対する「信」を失っても、どこかでまた掘り起して、それを自覚し、取り戻せばいい。ひと度自分自身で自覚し、取り戻したものは不滅である。整体指導者というのはそういう不滅の光を知る、生命の絶対的な肯定者なのだ。

先ずは、自分自身の信が他者に燃え移る。そしてその光はまた隣へと移っていく。その信というのは人間的な思念ではない。自分のいのちを見極めれば、やがてはそういう信も不要になる。

生命とは最初から至極である。これ以上手のほどこしようもないくらいに、最初から、ただ、そう在ったものなのだ。この道は、はじめから絶対に崩れない、歪まない、冒されることもない。あとは一人ひとりが、自身の体験を以って、これを実証するのみである。

これを信ずる人は皆で集まって一緒に活元運動をやったらいい。疑念の残る方は、胸落ちするまで訊ねて話をするべきだ。人間の健康を思うとき、最終的にこれ以外の「落ち」はないのだから。本当に落ち切った時に、「ああ、間違いないな」という風に、確かに「気づく」ものが在る。それが生命に宿る無窮のちからなのだ。

一つ

誰しも一度薬で治ったものは、その薬がないと治らないと思い込む。整体で治ってものは、整体を受けなければ駄目だと思ってしまう。それが何もしないで、よくなってしまうことはとても考えられないことで、だから不思議なのだ。

しかし一旦、何もしないで乗り超えた体験がある者には、もう不思議でも何でもない。自己の内に、灯明(ひかり)を発見するからだ。その灯明に導かれて動いていけばいい。これがほんとうの意味の自立ということかもしれない。

もう一つ、私が感じたのは、自然の経過というものには、人智の及ばない順序と速度があって、どんなに痛くても、痛いことなどお構いなしに、着々と周到に進められているということだった。

速効を求めるものには、じれったいような動きかもしれないが、よく考えると、お産にしても、育児にしても、病気を経過するにしても、この順序を全うしたものは、皆そのあと生き生き丈夫になっている。

私は「自灯明」のが、人間の意志で頑張る自力ではない、宇宙の息に連なるであり、無限の灯明に包まれた安らぎのであることを思い知らされていた。

そして「自灯明、法灯明」が、お釈迦様が亡くなるときに、弟子に言われた言葉だったということに改めて感動した。すると、不思議とそこに先生が重なってきて“真理は一つ”という思いが深まるのだった。(野口昭子著 『見えない糸』 全生社 pp.14-15)

手技療術を行う人がよく使う言葉で、「治る力は、治療者と患者の力が半分、半分」というのがある。確かにそうとも言えなくもないのだが、本当のところ「治る力」というのはそんなふうには分けられない。「生命活動」というのは、はじめから宇宙全体の一個の「はたらき」なのだ。そこから分離的に働くのが人間に具わる「理性」である。

理性による「悪い・良い」という分別心が、もともと完全無欠であるはずの自然経過を阻害する。病気と健康の対立構造も、人間の作りだした「概念」なのだ。知恵の実を食べた人間は神の世界を追われたそうだが、宗教という訳語が与えられた「religion」という言葉には、その切り離された人間と神の世界を「もう一度つなぐ」という意味があるらしい。一報で仏道の禅という行は、人間はもともと世界と切り離されてなどいない、「一つ」であることを体得、体認するための行法である。

そもそもがいきている人間には、絶えずどこかが毀れている。それを絶えずどこかで治しているという、平衡作用がはたらいている。これを生きている、という。この動きは極めて玄妙なものだ。そのはたらきを体得できない人にとっては命はどこまで不思議なものとして映るのだろう。大事なことは、不思議といおうと真理といおうと、生命活動はまさにお構いなしであり、もとより〈いのち〉にはキズもケガレもくっ付きようが無いなのである。

そういう観点から、愉気法も活元運動も、いかに「自分が、する」という考えをを消せるかが鍵となる。「何かしている」のだけど、誰も何もしていない。この「何もしない」という積極的受動性の発露が愉気でもある。本当に任せ切ったときに、自我は自己と同一になり、宇宙になる。

そしてこれはいつでも「そう」なのだけど、ほとんどの人が気がつかない。自分のまつ毛は自分で見えない。近すぎて。坊主に憧れて「任運自在」などといっても、「梵我一如」といっても、自分自身が心底肯えなければそんな言葉はガラクタに等しい。これから一つに「なる」とこなど不可能だ。最初から一つなのだから。認める必要もない。そういう自分が引っ込めば済む話なのだ。

自分を拠り所に

本屋で立ち読みしながら、パラパラとめくった『禅語録』の中から、
自灯明 法灯明
という語句が目にはいった。
お釈迦様が亡くなるとき、弟子のアーナンダが、
「私たちは、これから何を依りどころに生きて行ったらよろしいでしょう」と尋ねたら、お釈迦様がそう答えられたと言う。
私はハッとした。先生が亡くなるまで説きつづけたのも、全くこのことだったからだ。
“自らを灯明(ひかり)とし、自らを依りどころとせよ。法を灯明とし、法を依りどころとせよ”
自灯明 法灯明――
何と端的な表現だろう。私は霧雨の庭に急に薄陽がさして来たような明るさを感じた。(野口昭子著 『見えない糸』 全生社 pp.10-11)

自分の仕事は、無条件に人を励ます仕事だ。それも「○○だから大丈夫」、「□□できれば平気だ」という話ではなく、ただの「大丈夫」でなければならない。

ありがたいことに毎日いろいろな状況の方のお話を聞かせていただく。生きていくのは「大変だ」のひと言で片付けてしまえばそれまでだが、人の悩みはどれも「個性的」である。いってみればすべてがオリジナルであり、すべてがレアケースなのだ。

その一つ一つに「これから」対応策を考えているようでは打つ手がいくつあっても間に合わないし、すべてが後手なってしまう。そもそもが、そういう人間的な行為や努力でどうにかなるようなレベルのものでは人は苦しまない。人間的「はからい」ではどうにもならないから、「悩む」のだ。

そうでありながらも、人間には等しく不滅の灯明(ひかり)が与えられているというのも事実である。そういう意味でヒトは平等だ。ところが思考が錯綜するとその不滅のはずの「光」が見えなくなる。これがいわゆる「迷い」の正体だろう。

仏道の方では、こういう「悩み」や「迷い」のことを無明と言ったりする。繰り返すが「明かり」も「光り」もはじめから失われてはいないのだ。光があっても「見えなくなっている」ことが問題なのである。いつだって問題事は「あちら」ではなく、「こちら」にあるのだ。

自分自身が自分自身を曇らせている。その曇りを自分自身で払う。これ以上ないほど確実ではないか。自分を拠り所にする。その為に他者の力も我がモノとして使うことができるのは、やっぱり自分に力があるからなのだ。

これから「なる」のでは間に合わない。すでに「ある」ものに気付けるかどうかである。

まさしく「自灯明 法灯明」だ。

生き物を観る眼

赤ちゃんの観方で一番大切なのは、他から抱きとったときの重さの感じである。異常のおこる前は、その重さの感じがフワッと軽いし、充実してズシリとした感じのするときは調子がいいときである。これは物理できな目方の問題ではない。「留守にして帰って、まず子供を抱きとる。その瞬間の重さの感じで留守中どんなに扱われたか判る。また皮膚のつやと張り、眼の色と光とちから、便の量と色、及び掌心発現の状況などから、観る眼を養うことが大切である。そういう生き物を観る勘は、生き物に注意を集めて。興味をもって観ることによって育つ」と(野口)先生は言う(野口昭子著『子育ての記』全生社 p.7)

先月太郎丸をつれて一歳半検診に行ってきた。診るものと言えば、身長・体重、歯科検診、それから言葉がどれくらいわかるのか、である。「言葉の遅れ」がないかどうかを確認したいようだ。

それはいいとして、歯の検査の時に無理やり口をこじ開けられたみたいで太郎はかなりショックを受けてしまった。顔が小さくなってしまって、翌日は熱も出した。結局調子が正常に帰るのに三日はかかったのだった。

診察室に入っては泣き出す子供の集団を見ると、やっぱり人情的には憤懣やる方ない気持ちにはなる。申し訳ないのだが、こういうものが「人間」の健全な発育を点検するものとは到底思えない。ただし、それは極々少数派の主観的な価値観で、ふだん我々が職能的に使っているような「生き物を観る眼」の方が相当「異質」なのだということも知っているつもりだ。

簡単に言うと、「動いている物を動いているまま、全体性を観る」というのがこちらの仕事で、一般医療(科学)では「動いているものを一時的に止めて、部分的に測り」たいわけである。

もちろん、こういう風に部分的に専門性を高めることで解ることもあるのだ。それはそうなのだが、部分的になることで観えなくなることも沢山ある。そして我々はいつだって、その専門分化によって「見えなくなる」ものに用があるのだ。具体的には先に引用した、「皮膚のつやと張り、眼の色と光とちから」というものがそうだし、もっと端的に言えば「いのち」というものが「それ」である。

整体というのは発生当初から、近代医療の見地で「見落とされるもの」を相手に仕事をしてきたのだ。科学的な分析は生命活動から出てくる燃えカスを調べているだけで、「いのち」そのものを捉えることは絶対にできない。

だから「人間の健康生活を指導する」といったときには、やはり整体の独壇場というのが実状ではないかと思う。我田引水も甚だしいのだけど、本当のところそうだとしか思えないのだからしょうがない。縁のあった人たちと向き合って、一人一人、直にこの価値を伝えていくより他ない。多勢に無勢なのだが、それは職業としての存在意義とセットなので複雑な気分だ。