やっぱり体癖から整体法に興味を持たれる方は多い。最終的に人が最も興味を示すのは人なのかもしれない。
自分のことも知りたいし、他者のことも知りたい。体癖が好まれる背景にはこういう心理的な背景があるのではなかろうか。
さて情報過多の世の中なので「体癖」について調べようとするといろいろな情報が舞い込んでくる。
しかしせっかくちくま文庫に野口晴哉の自著『整体入門』と『体癖』が入っているのだからまずこれを読まないで過ごす手はないだろう。
個人的には『体癖』の中の、生物の活動の根元を漠としたエネルギーの集中分散に還元した「平衡要求の二方向」という試論(?)が圧巻だと思っている。
また別のところで述べている「ヒョッとしたら体癖のもとは波であるかもしれない。」という筆者の憶測を含んだ表現は、著者の体癖論が未完であることを物語っている。
そしてこの体癖の研究はとても一代限りでは完遂しないという見込みから、整体協会を社団法人にしてこの経験知的財産を後世に託したのだという。
体癖現象、体癖素質がなぜ生じるのかを省察し、またその使い方、活かし方を開拓するのは整体を知った私たちの務めである。
中には「体癖」を新手の占いの様に考えている人もいるみたいだが、実際はフィジカルな事情が深く関与したもので一定の論理性と客観性を具えていることを見落としてはならない。
捻じれや開閉などといった身体的な特徴(体癖現象)が生じる背景に、そうした行動や体型を生む感受性の傾向を認めているところは重要な視点である。
この感受性傾向が形成される原因はというと、まず両親の組み合わせ、そして胎教と生後1~3年余りの過ごし方が深く関与しているのではないか、というのが現在私が立てている仮説である。
この体癖が解ると何の役に立つのか、どう役立てられるかというと、人間理解のための一つの指針を得られるといったところか。
整体指導のプロであれば個人に起こる病気の扱い方、体調や生活のあり方を指導するうえで一定の普遍性を具えた座標を得ることができる。
ただしこれは文字の知識だけでなく、ある程度体験を積んで精通してからでないと難しい。
さらにこういう個人を特定の類型に分けて考える類型論は、理論が先行してしまい個人を見る目が却って粗雑になるという問題がつきまとうので注意がいる。
具体的に言うと、ある一人の人間をすぐに彼は〇〇型とか△△型…というふうに決めつけてしまい、類型論のおかげで却って個人の理解が浮薄になるというパラドックスが生じてしまうのである。
プロの心理療法家や臨床家は「個人」というものが「いかに個性的か」ということを体験的に知っているためこのような過ちを冒しにくいが、初心の方がネットに散らばる体癖論を読みかじった場合はまず気を付けたい点である。
一方で多くの方が興味を持ってこの体癖を研究することはこれまで科学で捉えきれなかった「生きた人間」、そして「個人」を知るうえで価値のある行為である。
核となるのはやはり野口先生が集中分散を繰り返すと言った「エネルギー」の正体だろう。
日本語では「気」の一字に集約されるが、これは物理的(つまり視覚的)に捉えられられない「漠とした何か」のようである。
また「気は気でのみ感ずることができる」とも言っておられたので、体癖をより深く理解するためには、一定の客観性に基づいた知識に加え、良質な体験によって磨かれた主観が鍵となる。
そしてこのような事情が体癖論を近代的な学問の俎上に挙げることを困難にしているのである。
ともかく「体癖」は人間を対象とした類型論であるために、人間が生存するかぎり完成に向かって再構築され続ける、という有機的な性質を持っている。
このように考えると、文字で得た体癖の情報を自身に当て込んで私は何型何種だからどのような職業を選び、どう生きたらよい、また誰と付き合ったらよい…、などと考えることがいかに浅薄な見方であるかが理解されるのではなかろうか。
さまざまな体癖的素地があることを認めたとしても、個人や個人を取り巻く環境は複雑多岐であり、類型化できるいくつかの性質を具えた唯一無二の自分を「いかに生きるか」という問題は生涯を通じて向き合うべき一大テーマである。
科学的医療や科学的教育の浸透に伴い、近年とくに「人間」というものの捉え方が無機的になりつつあることは周知の事実である。こうした風潮に毒された頭では体癖という現象学的な経験知を前にしても、その真価に触れることはできない。
野口先生の奥様は「整体の道は、知識ではなく体験を通してのみ理解できると思っております。」という言葉を遺されており、こちらも整体という大きな知識体系が愉気や活元運動という主体的な経験を伴ってはじめて立体的に体得、体認されるものであることを示唆している。
斯くいう筆者はというと、例えば「体癖」に関する体験的理解度はまだ10%にも満たない、と思っている。そのため今なお興味を失わずに臨床を続けているのだが、これがなかなか難しい。
特に個々の腰椎と各感受性との関連はどういう事情によるものか、いまのところ見当がつかず、脳科学の新たな進展を密かに待っている始末である。
ともあれ入り口はまず「知ること」である。体癖に興味を持たれ方には先ず原書に触れることを必ずお勧めしている。そして良い導き手を求めて、正しく整体を実践されることが体癖理解の第一歩であることを改めてここに強調しておく。