活元会 2017.12.9:暗示からの解放

12月9日の活元会では野口昭子著『回想の野口晴哉』ちくま文庫 から資料を抜き出して(下はその一部)使いました。


……「或る日、包丁を持った男が玄関に上がり込んで、

“ここは俺達の縄張りだ、何で挨拶に来ないのか!”と怒鳴っていた。弟子がオロオロして飛んで来たので、僕が出て行くと、男はもっと凄んで、畳に包丁をグサリと突き立てた。僕は咄嗟に

“この手が離れない、離そうとすると、ギューッと握ってしまう、離して見給え”

と言ったら、ほんとうに離れなくなってしまった。

“この尻も畳にくっついてしまう。立とうとすればするほど、ピタッと畳にくっついてしまう。さあ、立って見給え”

と言うと、歯を喰いしばって立とうとするが、どうしても立てない、そこで、

“警察でも呼ぼうかな”

というと、泣き出しそうになって、

“何とか、カンベンしてくれ”

と言うんだ。可哀想になって、

“二度と来るな”

と、ポンと手を叩くと、ふっと元に戻り、コソコソ帰って行った」

私はびっくりして、「それは催眠術の一種なの?」と訊いた。

「不動金縛りの術っていうんだ」

と何でもないように言う。一体、何時、何処で、こんな術を習得したのだろう。

“私も修行してできるようになりたい”と言うと、先生はまったく意外な返事をした。

「修行なんて無駄なことさ。みんなお互いに暗示し合って、相手を金縛りにしているじゃないか、自分もまた自分を金縛りにしているじゃないか。

人間はもっと自由は筈なんだ。だから僕のやってきたことは、人を金縛りにすることではない。すでに金縛りになっているものを、どうやって解くかということだ。

暗示からの解放だよ」

そのころ先生は講習会を開き、「全生」というパンフレットも出したが、その説くところは、生を萎縮せしめるすべての既成概念を打破することであった。……(野口昭子著『回想の野口晴哉』全生社 pp.45-46 太字は引用者による)

すでに金縛りになっているものを、どうやって解くか

小説調にサラサラサラと綴られていますが、わたしはこれこそがいわゆる野口整体の「核心」だと思えてなりません。

人間の健康や幸福というものをずっと突き詰めていくと、早晩「根本の原因は何か」ということを考えさせられるはめになります。

そうすると、本来自在であるはずのその人の自由性を制限しているモノは何なのか?それは潜在化した「もろもろの観念」ではないか、ということがだんだんと浮かび上がってくるものです。

その潜在しているものを掴み出し、言語化することで形を与えて、意識の俎上に挙げてしまうとその時点で力を失わせることができるのです。

これが「整体指導」とか「精神療法」と言われているものの実体、正体だと思うのです。

それはいってみれば「鍵」のようなもの。

心の中にある観念の中で、その人の「枷」になっているものをはずしていくための鍵を見つけたいのです。

そもそも鍵というものは鍵穴から入っていける大きさで、中の構造にぴったり合う形を取り、そして右か左か正確に回す力を加えることで、小さな力でも開けることができます。

逆にこうした条件をすべて満たさなければ、どんなにつよい力を使っても鍵は開きません。無理やりこじ開けようとすれば、扉は開くどころかこわれてしまいます。

だから心の病でも体の問題でも、その「鍵」が見つからなければ本当には治らないのです。

ところが実際は鍵が見つからないままに、あれもこれもと色々なことをやって結果的に心や体をこわしているものが「治療」、としてまかり通っているようなことも少なくありません。

本来であれば、治療とはその人の身心全体に起こっている問題の構造をよく理解し、固有の正しい方法を見つけ出して適用する、ということが求められているのです。

面白いのは、ふつうの鍵はたいてい一つですが、生きた人間の臨床における「鍵(刺戟方法)」はいろいろにあって良いところです。

例えばそれが言葉(対話や催眠術)であったり、また手技による身体への刺戟であったり、他にも味や香り音楽、などなどなど‥、その気になれば五官を通して感知されるすべての刺戟を鍵として活かすことができます。

このことを精神科医の神田橋條治氏は「一木一草、これ治療である」という風に表現されています。

とにもかくにも、そうやって「生を萎縮せしめるすべての既成概念を打破すること」がその人の治癒力を最大限に活かす「鍵」たり得るのです。

つまり「暗示からの解放」というたったひと言、それだけのことなのですが、臨床の場ではそこに至るまでにものすごいドラマが生まれることがある反面、時にはお互い知らぬ間に「自由になっていた(=治ってしまった)」、何ていうこともあります。

いってみれば「病気」というのは「観念の化けたもの」と言っても相違ありません。

おそろしいのは、どんな人の「言葉」にも生殺与奪のちからがあるということです。知らないうちに余分な観念を植え付けてしまうことも沢山ありますし(これが多い‥)、その観念を取り除き自由にするちからもある(こちらは技術が要る‥)。

「コトバ」というものは、良くも悪くも「劇薬」なのです。

それだけに使い方を正しく学んでいくことで、すばらしい「治療薬」にもなりえます。

一方で「こころの構造」というのはとても複雑でわからないことだらけ。それだけに暗示をかける時はみんな知らずにポンポンかけているものが、いざそれを解こうとするとプロの専門家であってもむずかしい場合があるのですね。

「敵を知り己を知れば‥」という諺がありますが、〔人間〕に取り組む者はまず自分を知らなければ話にならず、いやそれ以前に人と「お話(対話)」ができないのです。だからいまのわたしは、人の鍵に取り組むまえに、まず自分のこころに掛かった鍵を見つけよう!と日々精進している次第(つもり?)です。

次回の活元会は12月14日(木)です

(この記事の参考図書)

気合と勢い

・気合といふこと、操法の大事也。彼の実を虚ならしめ、我の実を彼に移す。彼の実、病気の塊り也、我の実、健康なる正気也。彼吐く時我吸い、彼の吐き切る時我が指に力を入れる、この呼吸適へば、忽ち彼満つ。
これを気合といふ也。(野口晴哉著『治療の書』全生社 p.118)

・私は先生の気合を思い出した。先生の気合は比類のないもので、琴を立てかけ、何本目といって買い合いをかけると、その糸だけがピーンと鳴った。山道で気合をかけると、他の人の声はみんな谷に落ちるのに、先生の気合だけは、遠い山脈に、唸るように、波打つように消えて行った。
そんな気合を、先生はここ(御岳)で会得したのだろうか。(野口昭子著『回想の野口晴哉』ちくま文庫 p.28)

今日は夕飯をすませたあと、子どもと家で気合をやって遊んだ。

整体法には呼吸法が伝わっている。邪気の吐出法、漏気法、深息法、気合法の4つだ。

もしかしたらもう少し、奥義のような秘密裏の呼吸もあるかもしれないけれども、そこまで奥のことは私は知らない。

 

気合法というのは、イエーイという音声を出して、下腹部に強い膨満感を生む呼吸法である。琴やキターのような弦楽器に向かって気合をやると反響するから面白い。

家には琴はないのでグレゴリオチャイムで遊んだ。エーイ!と気合をかけるとイーーン・・と鳴る。

1歳半の子供がキャー!と発声しても鳴るので、波長さえ合えば共鳴することが判った。神秘性はなくした。極めて物理的ではないか。

久しぶりにやってみると、発声とともに仙腸関節がぐーっ引き締まるのが如実にわかった。さらに両足の拇指球がぐさっと突き刺さるような立ち方になる。

 

腰がびーん!っと締まるような感じで、簡単に言うと「やってやろうじゃないか」の心境になる。

整体操法の究極は人間に潜在する力を奮起することなのだ。

こちらの勢いが相手に共振するようにする。

 

相手の勢いを喚び覚ますのはこちらの勢いなのである。

指導する者はそういう「圧縮した力」を瞬時に爆発させる技術が必要だ。

 

さて気合を繰り返しやっていたら、梅雨の鬱滞感もサッパリと消えていた。理屈をこねてもどうにもならない時は、自分で自分に気合をかけてしまえばいい。

本当のことを言えば気合に音声はいらない。いちいち大きな音を立てるのは虚の活かし方を会得するための実を使った稽古である。

 

単なる大声でガアガアいったって、それは形骸化した迷惑行為にしかならない。

実際に気合いと練るには「真剣に生きる」ということに尽きる。

 

裡なる要求を知り、その実現に向けて全生命を傾ける。

詰まるところ気合の要訣はこれだろう。

今を無駄にしてはいけない。

今を生きよう

今という「機」に間に合うからこその機合いなのだ。

健康って何?

「…子供は大人よりももっと、心と体が直結しているんだ。だから感情や心を抑えられれば体をこわす。…」

「一人を丁寧に観ていることだ。そして子供の眼がいつもいきいき輝いているように導くことだ。それさえ出来れば、大人は簡単さ。大人の中にある子供を見て話しかければ、それでいいのだ」(野口昭子著 『回想の野口晴哉』 ちくま文庫 pp.282-283)

今日太郎丸を保育園に迎えに行ったら、なにやら調子が変である。風邪の兆候もあって、だいぶ咳き込んでもいるんだけど、そういう問題じゃない。目が縮んでいる。

帰り道、いつも踏み切りで叫ぶ、「でんしゃー!」も今日はない。やっぱりおかしい。「なんだろう?」ずっと考える。

ある地点で気がついた。「あっそうか、今日は歯科検診があったと言ってたっけ」ということで、アタリはついた。なるほど、という感じ。痛かったのかも知れない。口をこじあけられたのかもしれない。

 

そうこうしている間に家に帰り、ごはん。そしてお風呂でリカバリーをはかる。

……

ゆるまない。

すみやかに添い寝に移行して、背中に愉気する。背中は固い。やはり、「ショック」だったのだ。

淡々とおなかに愉気する。汗が出てきた。これで動き始めたので、明日の朝また様子を観ることにする。

 

いつもそうなのだが太郎丸は「健康診断」をすると、健康じゃなくなる。おかしな話なのだが「健康って何?」ということが共有できていないからこうなるのだ。

健康とは心にも体にもしこりがないことだ。「順」という状態。他人が乱さなければ子供はいつも順である。大人はその順を快と感じられるように、感性を澄ませておく必要があると思う。

 

整体をやるならこの「健康って何?」を共有するところが着手になる。あなたにとっての健康とは何だろうか。ついでにいえば幸せってどういうことだろうか。

行先の決まっていないものはどこにも辿り着けない。整体に限らず医療に掛かる時にでも、ふと立ち止まって考えてみてはどうだろうか。その行為にどんな意味があるのか。あなたにとっての健康とは何だろうか。