ケルト巡り③‐安易な平和論

河合隼雄がアイルランドを訪ねる旅の前に、偶然別の案件で首都ダブリンに行く用向きができたという。

それはあるアメリカの大学が主催した国際的な会議であった。当時(2001年)は世界のあちこちで「ダイアログ・アマング・シビライゼーションズ(文化間の対話)」という概念が注目され始めていたさ中である。

それまでの世界は(現在でもそうだが)アメリカに代表されるキリスト教文化圏に利権が集中していた。その結果彼らと権益を共有できない対立的立場にある国や異なる宗教観を持つ民族との摩擦や衝突が絶えず、国際情勢は波乱の予兆を匂わせていたのである。

こうした不安定さを解消すべく異なる文化の間で「とにかく話し合うこと」が大切だ、という考えが自然に生じてくるのもうなずける。これについては著者である河合も常日頃考えていたことでもあり、今回折よく招かれスケジュールの都合も良かったために参加の運びとなったのである。

しかし大きな期待を胸に会議に出席してみると、その内容は著者からして到底満足のいくものではなかったという。本書よりその部分を下に引用する。

そこに集まっている人たちの意見は、言ってみれば「人に親切にすることはいいことだ」といった類のことなのだ。考えてみたら孔子さんも言っておられる、キリストさんも言っておられる、コーランにも書いてある、と。(中略)「これだけ共通点があるのだから地球上の人は平和に楽しく暮らせるのだ」という結論に導こうとするのである。

私に言わせれば、そんなのは当たり前のことだ。仏典や経典には「不親切にするのはいいことだ」などとは滅多に記されていない。

私はこの会議にあとから入っていったひとりだし、しかも英語が下手なので言いにくかったのだが、思い切って自説を述べた。「そんなことを言ってもダメだ、話が甘すぎる」、「そんな認識では、いつか変なことが起こりますよ」と。しかし参加者たちは「お前アホちゃうか」という冷たい視線を私に向けるだけである。

結局、どうしても話の流れに乗ることができなかった。「人類はひとつだ」とか「平和だ」と言ったところで、そんな言説はほとんど効力を持たないのである。そういう結論を出すのは勝手だし、「そうだ、人類に平和を」と言うのは結構だが、あまりにも安易な話し合いの内容に幻滅したのだった。平和はもちろん大切だ。しかし余程掘り下げた議論をしないと意味がないのだ。

それから二年を経ずして、アメリカとイラクの戦争が始まった。(『ケルト巡り』pp.90-91)

このような話し合いがアメリカ国内から発案され、実施されたことは意義深いことである。しかし、そもそも平和の概念が抽象的なので内容もいきおい具体性が乏しくなるのはやむを得ない。

また戦争の対義として平和が置かれることもあるが、平和を実現しようとする心にもすでに対立が生じているのだからこれは適当とは言えないだろう。会議上で河合に向けられた「平和論者の冷たい視線」はこの矛盾をよく表している。

一般的に平和という時はだいたい頭の中にある空想の産物を指して言っていることが多い。だから平和について話し合おうと思ったら各々よほど深堀りした考えを持参しないと観念の遊戯で終わってしまう。

体を観ている立場からすると、平和には頭の中に作った観念と体の裡から生じてくる内観現象に分けられる。後者は「平安」などとも言い換えられるが、我々が本来目指すべきはこちらの方ではないかと私は考える。野口晴哉はそのために「深い息をせよ」といったのだ。

平和は自分以外の誰かが作るものではなく、ただ自分がそう「ある」ことだが、ここに身体性ということが大きく関わってくる。いくら口先で「平和を…」といったところで、平和を自認できる脳の活動状態とそれを支える身体性が乏しければ「それ」を実感することは不可能である。

体が整っているとその体で感受できる世界も自ずから静謐なものになる。こうなれば意識は「ただ、ある」という無感覚の起点に鎮座するので、このときはじめて感覚なき感覚として「平和」が体得、体認されるのだ。

ただ一口に体が整うといってもそこに客観的基準を定めることはむずかしい。平和はあくまで主観的事実なのだ。その中で「息が深い」ということは一つの指標になることは確かである。

ただし息が深いことと深呼吸をすることは別である。深い息はラジオ体操の深呼吸のような意識的動作では成し得ない。自然と「そうある」ことが大事なのだが、そこに身心を越えたある種の平衡状態が要求されるのだ。

こういうことを無視して現世利益的に平和について考え、争いや対立をなくしましょうというのはかえって余計な煩労や諍いを増やすことになりかねない。繰り返しになるがこうした話し合いがアメリカの大学から希求されたのは有意義であり、かつ示唆的である。

河合は本書の中で「アメリカはヨーロッパ的なものがもっとも先鋭的になって現出した、とても合理的な国」と称している。また「人間が自然を支配して操作して、自分の欲することを実現してゆく傾向を極限にまで推し進めていった国」とも言っている(『ケルト巡り』p.19)。

この「人間」とか「自分」から出発したものの見方をあえて西洋的として括るなら、世界のどこにも中心を置かずに山川草木とか神羅万象といった大宇宙の中に自分がぽっと生かされている、と考えるのが東洋的感性である。また現代は西洋・東洋という二元構造だけでなく、中東に代表されるイスラム圏の世界観や身体性をも視野に入れて考察する必要も高まっている。

そもそも「話し合う」ということ自体が欧米的手法あり、このような方法のみに頼っているかぎり、その言語活動を支えている身体性の違いや意識以前の世界などは死角になり続ける。

こうしたキリスト教文化圏以外のものの見方を発信するためにもやはり言語は重要である。しかしこうしたことを広く視野に入れつつ、また然るべき訓練によって対立を越えられる身体性を備えた人物によって話し合いがなければさしたる成果は期待できないであろう。

このような問題に対するとき、長きにわたって東洋圏に属しながらいち早く近代化した日本人に期待が寄せられる向きがあるが、多くの日本人が自国の文化や身体性を客観的にどれほど理解してるかというとこれも疑わしい。

グローバリゼーションが提言されて久しい現代において改めて西洋とは何かを問い、近代化以降の日本人の動向がどのようなものであったのかを再考することは、これからの世界を生きる上で大きな意義を持つことを筆者は示唆している。

我々に求められることは先ず知ることであろう。そして指針を見出し、身体を通じて実践することである。野口整体が唯一の方法ではなく、身体というもの、そして意識や精神というものに丁寧に向き合う時間を大事にすることは現代を「豊かに」生きるためには欠かせない営為なのである。