2月4日(日)、大倉山に出て『アントロポゾフィー医学から見た青年期の精神疾患』を聴講してきた。
アントロポゾフィー医学とは、、、シュタイナー教育から派生した医療体系といっていいのだろうか…。詳しいことは何も知らず調べずで行ったので(モノを習うときはこれが一番イイのだ)、まあホントにおノボりさんの感覚で楽しかった。
後日調べまして、正しくは↓↓のようなもの、だそうです。
アントロポゾフィー 医学 とは ルドルフ・シュタイナー 博士( 1861〜 1925) によって 始め られ た アントロポゾフィー( 人智 学) を 基盤 として、 イタ・ヴェークマン 医師( 1876〜 1943) の 協力 の 下 に 創始 さ れ まし た。 精神 の 内 なる 発展 と 魂 の 変容、 そして 健康 と 病気 に関する 認識 と 理解 を 深める こと で、 今日 の 医学 を 拡張 し、 真に ホリスティック な 取り組み へと 導く もの です。
山本忍. 三分節で考える病の意味: 甲状腺の気持ちを考える (Kindle の位置No.16-20). Magnolia books. Kindle 版.
自分は野口整体を標榜している関係でこれまで何度も「シュタイナー」を勧められているのに、聴いても読んでもアタマに入ってこないでいつも挫折している。
自分の国語力の低いこともあるが、シュタイナー学は峻厳な霊峰の匂いがする。だから生半可な気持ちではご縁にならないのだ、と勝手に結論付けていつも横目に通り過ぎてばかりなのだ。
かといって巷でライトに薄められたものを読んでも誤解や曲解が増えるだけだろうし、消化力のない胃袋に栄養物をつめ込んでも具合が悪くなるだけだろう。そんな理由から今回も「匂いを嗅がせていただいた」くらいだと思っている。
さて、講師の方は三名おられたが、自分が出られたのは時間の関係でお一人目の精神科医の塚原美穂子先生の講義だけだった。結論から言えば、のっけからおしまいまで「釘づけ」だったのだが。
先生によるとシュタイナーの言葉で年を追うごとに確かに「うん、そうだ」と実感されるのは、「医療とは、(詰まるところ)教育である」ということだそうである(おっしゃったことと記憶が違ったら申し訳ない‥)。
確かに、具合が悪くなってから、病気になってから、「さあ、これをどうやって治しましょうか‥」というのはどこまで行っても後手に回って、生命をリードする立場には至らない。
心の自然を保ち、体を損なわないように生活する態度を自ら学んで身に付けなければ、生命のはたらきに振り回されているうちに一生は終ってしまうのだ。
だから最終的に「教え、育む」というプロセスによって医療は完遂されるべきだ、とこういう結論になるのはよく考えれば自明の理である。まあ野口整体にも通底する理念だ。
それから、一度受けた教育というのはそれが良くとも悪くとも、破壊される(その影響下から脱する)のに30年はかかる、との由。
確かにそうなのだ。
自分の経験からいっても、だいたい小4からおかしなことになったのだが、当時を10才とすると、現在が40歳。今ようやく頭の中の氷が溶け始めた感覚がある。
いろいろな人にお会いした経験から鑑みると、40歳で「治りはじめ」たら、まあ〔中程度〕だと思う。
もちろんもっと遅くたって、いや遅ければ遅いで「治っていく過程」は素晴らしいことだし、早いから良いとも悪いともいえない。
治る時というのは必ず「その人の、その時」、なのだ。
そして治すのはいつも「環境」である。
環境などというと誤解を受けそうだが、それはいわゆる転地療養みたいに水と空気のイイところで、という話ではなく、患者がのびやかに安心していられる環境ということだ。
信頼できる人や信頼できる場所の力で生命の自由性ははじめて開かれる。
つまりコワゴワ、ビクビクするような「場」では自然治癒は起こらないのである。
そういう「治癒の場」を、何もない所にでも生み出す力を私は講師の塚原先生から感じた。立ち上がって話し始めた瞬間から治す人の雰囲気である。
個人的にはこれだけで充分な体験だった。音楽療法は体験できなかったので、またいずれ縁があれば。しかし最近とくに精神療法の世界にはノスタルジーを感じる。自分が受けたかったのは、施したかったのは、こういうことなのだ。
今回の体験で難しいシュタイナー学にも親近感を感じることができた。理解には程遠いけれども、どのような形であっても医療の世界に可能性を感じられることはうれしい。