教室のお知らせ

2022年1月 の教室を下記の日程で行います。

13日(木)10:00-12:00 活元指導
13日(木)13:00-16:00 愉気の会
29日(土)10:00-12:00 活元指導
29日(土)13:00-16:00 愉気の会

参加希望者は前々日までにお申し出ください。

今月の教室

12月の教室は下記の通りです。

9日(木)活元 10:00-12:00
9日(木)愉気 13:00-16:00
10日(金)座学 10:00-12:00
25日(土)活元 10:00-12:00
25日(土)愉気 13:00-16:00
26日(日)座学 10:00-12:00

参加希望者は前々日までにお申し込みください。

10月21日 愉気の会後記

去る10月21日(日)、愉気法講習会を行いました。

愉気とは狭義においては整体法の気の手当てです。こまかな技術以前に「愉気をする人になる」ことが先ずなによりも肝要です。そのための下準備を念入りに行いました。

はじめは脊髄行気からです。

背骨に気(もしくは息)を通すような心で、スースーと呼吸をします。

しばらくすると気持ちが落ち着いてきますので、すっかり落ち着いたところで活元運動に入っていきます。

しっかり一時間弱、時間をとって行いました。

しかしながらこれもまだ下準備です。大自然のリズムと自分の呼吸を合わせるために、頭をぽかんとさせて身体の動きの中に没頭していきます。

この日ご参加されたみなさんは、よく体が動いていらっしゃいました。

愉気をしよう、人に手を当てて癒そう、と考えるような方はそれだけ心が自然に近いのかもしれません。

そうして活元運動がおわったら今度は坐学です。

教材は野口先生の『健康生活の原理』から。下に一部を引用しておきます。

私は医学的な考えというもの、あるいは体の解剖学的構造というものについて、何も学ばない十代のころから、大勢の人に愉気をし、また活元運動を誘導して健康をたもつように指導してきました。痒いところを掻くと、痒みがなぜ止まるのかは判らなくても、掻くと痒みが止まるようなものだったのでしょう。そのための体の構造も知らなければ、何を食べたらよいか、そういうことも知らないのに、相手を健康に導き得たのです。

何を基準に導いたか。強いていえば、人間はどうしてい生きているのか、生きている力を潑溂とさせるにはどうしたらよいか、人間の勢いということ、気の集注分散の波、ただそれだけを見つめ、その勢いを使って、さらにかくれている勢いを誘い出す、それだけのことを目標にしておりました。…<中略>…だから私の知識は五十何年間、一つ処へ坐りこんで、来る人の体を丁寧に観察し、そのうちにある勢いと、その勢いのもたらす体の変化だけを一人一人、調べ考えてきただけなのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.8-9)

とこういう具合に、とにかく形以前の「勢い」を呼び覚ますのが整体法の根本です。そうして相手の裡なる勢いを揺さぶっていく媒体が「気」である、と考えたら良いと思います。

こういう原理を念頭に置いて、その上で技術に入っていくことが大切だと私は考えています。

さて前置きがうんと長くなりましたが、いよいよ実習です。

具体的なこと‥をいちいち書いていくとものすごく長い駄文がつづいてしまいそうなので、申し訳ないのですがここから抽象になります。あとはご参加されてからのお愉しみと、思ってください。

先ずは気の感応を視覚化するための稽古です。

それから相手の背骨に手をかざして、引き合うところを見つけます。

そのあとで実際に触れての愉気を行いました。

あとはご参加いただいた方から「こんな場合はどこに愉気をしたらよいか?」という質問がありましたので、それにお応えするような稽古を行いました。

個人的にはこういう手かざし、手当ての系統は「変な方向」に言ってしまわないことがとても大事だと思っています。

ひと言でいえば「謙虚さ」みたいなものを修めていくことが修行ではないでしょうか。

自然との調和をはかっていく時に、やっぱり「私は、こうだよ」というものがあると、何となくギクシャクしてしまいます。

だからとにかく呼吸を自然に、こころを自然に。でも「自然にしよう」なんて思うとかえって不自然になりますから、自然にするなんていう作為らしいものをすっかり忘れてしまうくらいにまで活元運動をやっていくことが「愉気をする人」になるための近道だと思います。

などと言いつつも「この人のために」という気持ちがあれば、それだけでやっぱり愉気にはなりますが‥。何であれ、こういうことを覚えておくことは良いことにはちがいありません。

また有志の方で集まってやって開催いたしましょう。

8月9日活元会後記

去る8月9日に坐禅・活元会を行いました。

なぜか前回と同じく台風の予報と重なりましたが‥。そして前回同様、予報に反して大したことはなく、みなさん無事にお集まりいただけました。

内容は脊髄行気から始まって、坐禅、野口整体の教材資料を使っての座学、そして活元運動です。

まずは脊髄行気について。

ちなみに「行気(ぎょうき)」というのは自分の身体のどこかに、呼吸を入れていくようなつもりで気を集める訓練法です。

だから「脊髄・行気」といった場合は、脊柱管という背骨の中心孔をイメージして、頭のてっぺんから尾骨に向かって息を吸っていく(つもり)。

「すーっ」と鼻から吸って、吐く方は特に意識しません。

目をつぶって静かにおこないます。

大体、10分くらい。

ひとしきりやって落ち着いてきたところで次は坐禅です。

坐禅はご存知の方も多いと思いますが、半眼といって目を開けておこないます。ただし、視線は45度下方(やや伏し目がち)になります。

そして、うちの坐禅会では「坐骨」を大切にしています。坐骨をぴたっと座布団に据えて背骨をまっすぐに立てていれば、「足の形は自由」ということにしています。

一般的には結跏趺坐(けっかふざ)という、いわゆる大仏様の座り方を推奨するわけですが、これがむずかしければ正坐でも結構ですし、アグラでも椅子坐でもOK。

そしてさらに、眠くなったら寝っ転がっていてもOKです(今のところ、ゴロ~ンと寝た人はいませんが‥いいんですよホントに)。

とにかく、

「何にもしない」

ということをやってみましょう、という集まりです。

本当に「何にもしない」でいる時、自分は、世界は一体どうなるのでしょうか。

どうぞ、やって確かめてみてください。

 

さて、それから休憩をはさんでお待ちかね(?)の座学です。

いや‥、脊髄行気と坐禅がおわった時点でみなさんエンディングモードだったのですが…一応スケジュール通り敢行いたしました。

資料は野口晴哉著『愉気法1』全生社の「質問に答える」より。

質問 活元運動の会で大変よいことを学びまして感謝しておりますが、年を取ると(六十五歳)、長患いをしないで終わりたいということを考えます。老衰死ということになりますと、一年近くはおしもの世話を受けるようですが、避けられないことでしょうか。

 こういうご質問ですが、死ぬ時はみな快感があるのです。老衰して人に世話をかけるというのは、まだ自分の力を発揮していない人です。力のある内に力を使わないでいると、そういうように動けなくなるのです。本当は死ぬ間際まで動ける。…<中略>…

…ですから、死ぬ前の一年間、人に小便をとってもらうことなど考えないでいいと思います。それまでは相互運動をし、人にも愉気をし、自分も愉気を受け、相互におやりになることがいい。人間はそういう力を持っているのだから、それを存分に発揮しなくてはいけない。専門家ではなくては治せないというのは嘘なのです。みなお互いに治し合う力を持って生まれているので、そういう人間の持っている力を発揮しさえすれば、お互いがお互いを助け合えるのです。ただ心を無にして触ればそれでいい。(『愉気法1』pp.75-80 一部太字は引用者)

坐学では整体の心得と世界観を知っていただくために資料を選出しています。

大切なことは価値観と世界観、そして死生観の共有と理解。

平たくいえば、生きているうちに「力を出し切ろう」と言っているのです。

そのために頭のはたらきを停止して、身体の方に任せることが大切だといいます。

整体ではよく「ポカンとして‥」、といいますが、何にもしないでぼやーっとしていることにも立派に価値があるんですね。現代的にはあまり好まれないかもしれませんが。

例えば、日本に曹洞宗を伝えた道元禅師によって、坐禅の要諦について記された『普勧坐禅儀』という指南書があります。これによれば‥

諸縁を放捨(ほうしゃ)し万事を休息して、善悪を思わず是非を管することなかれ。
心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。

という部分があります。つまり「心のはたらきをすべて開け放して、一切を忘れて休息しなさい」と言っているんです。活元運動というのも、形こそちがいますけどそういう訓練ですね。

どこまでいっても、「ポカン」として身体のはたらきに任せましょう、という話です。

そして、いよいよ実践に移ります。

みなさんでいっしょに息を合わせて活元運動を行いました。

活元運動にはこうしなければいけない、こうしてはいけない、ということはありません。ぱたぱたよく運動の出る人、とろーんと眠りかけている人、いろいろです。

丁寧に1時間くらいかけておこないました。全員の運動がある程度おさまったところで終了です。

最後にほっこりお茶を飲んでおしまい。

実際のところ、毎回毎回、これって一体何をやっているのかなあ、なんて思うこともあります。

でも何となくみんなお集まりいただくのだから、たぶん目に見えない功徳があるんでしょうね。

心がほんのちょっとでも洗われて、ラクになって帰っていただければ、本人並びにまわりの人たちにとっても良いことだと思うのです。

今月はもう一回、25日(土)にも行います。

ご参加を希望される方は前々日までに、メールフォームにてお申し込みください。

名前はない

愉気って何だという質問だが、人間の気力を対象に集注する方法だ、と考えたら良かろう。人間の精神集注は、その密度が濃くなると、いろいろと、意識では妙だと思われることが実現する。穏やかな太陽の光でも、集注すると物を焼く。光はレンズで捉えられるのだが、気は精神集注によってちからとなる。それ故、愉気するには高度な精神集注の行えること、恨みや嫉妬で思いつめるような心ではない、雲のない空のような天心が必要である。(野口晴哉著『健康の自然法』より)

ときどき愉気はレイキヒーリングとどのように違うのですか?と訊ねられるが、そもそもレイキのことをよく知らない

と思ったら、よく考えると愉気が何だかもわかっていないではないか

しかしもう一つ踏み込んで考えてみると人間が生きていること自体が、何がどうなって生きているのか解ってやっている人などいないのだ

特にこういう生命原理に近いようなものは、探ったり追っかけたりしているうちはそれらしい理屈に掴まるだけで実態そのものに突き当たることは無い

ただ、手を当てると何かが起こるのであって、それに名前を付けたのは人間である

そしてどう使うかを決めるのも人間なのだ

流派や方法論、名称は気になるところだが核心はそこにはない

人間の位(くらい)というのがちからの根源であり、その上で精神の平衡を保つことが全て

名前はどうでもいい

健康の自然法とは流石言い得て妙である

愉気と活元

先日の活元会は教材(レジュメ)なしの、実践重視で行こうと思ったけど、いつもの癖で結局「お話」が長引いてしまった。

そもそも治療というのは「思想の共有」が前提で、これがないと行えない。

だから巷で「野口整体」と呼ばれているものが一体「どんなことを考えているのか」をある程度わかってやっていただかないと、愉気(気の手当て)とか活元運動(自然の運動)とかを一生懸命やろうと思ってもやがては行き詰ってしまう。

ともかく〔いのち〕がどれくらいシッカリと、完璧に機能しているか、ということを自覚したうえで、その絶対性がそのまま発現するようにもっていくのが整体の基本理念だ。

だから愉気も活元運動もこちらからは「何もしないことで、すべてが整っていく」ということの、具体的な方法論である。

この二つを体得しておけば、まあおそらく他の健康法はいらない。もちろん好きならば食事療法も、体操法も、何でも取り入れてやったらいい。きっと相乗的に良い効果があがるはずだ。

それでも人間が考えたものは、枠と限度がつきまとう。ところが本能とか野生とか直観というものは、思想を乗り越えていつも超然としている。大体において、そっちでいった方がずっとラクだし、確かなのだ。

健康法に時間を割くのも、本来ならもったいない。本当は「野口整体」なんかすっかり忘れて、バンバン生きるのが一番いいだろう。

と言ってまた自分で矛盾を生んでしまったけど、愉気も活元も「覚えて→忘れる」ところまでがワンセット。そういうところは、サトリと一緒かもしれない。

一応の「ひと区切り」、というところはあるので、そこまでは一息でやってしまうと面白い。わかった後はそれこそ気ままに、仏道の方では「聖胎長養」っていう言葉があるけど、とにかく「何にもしないで健康」なのがなによりだ。

実践していくといつか必ずわかる、というそういう話。〔いのち〕というのは知っても知らなくても、最初から救われている。でも知ってみると、やっぱり安定感が違うかな。そんな気がする。

愉気について

この数日、愉気についてまた改めて考えていた。実際は「考えさせられた」という体なのだが。最終的に「ピタッとする」という、これに尽きる。これ以外の何ものでもない。それは「静止」ということでもあり、それと同時に「適合」ということも意味する。

ここで「同調する」などというと、なにやら解ったような気にさせられるから自分としては肯えない。そういうテクニカルな気配が残っていてはだめだ。

「無心にやる」などとい言うのもあやしい。無心などあったとすれば、それはもう「無心」ではないではないか。もっと自身の内奥の命がそのまま出てくる感覚だ。

一方で「やさしい、やわらかい」気であるということは必要条件である。最終的に人格から滲み出る深い愛情のちからが育ってこないことには話にならないだろう。

毎日仕事で行っているのだから中にはうまくいくこともあろうが、「うまくいった」と思ったらそれもまた邪魔だ。兎に角、淡々と静を養うことだけがそれを可能とする。

愉気は整体の基本であり根元でもある。どんな人にも、はじめたその日からできるし、一方でいわゆる「熟練者」でも力を失うことがある。経験の積み重ねによって気が研ぎ澄まされたり、逆に経験故にナマクラにもなるのだから妙なものだ。

一切の努力も汗も放擲して「そのまま」やるというところに、東洋人が好む「無」の本質があるようだ。この価値観に触れられるまで自分は十年を要した。

ただし掴みどころのないものに掴むところができた時は注意が要るのだ。直ちに手放して、からっぽにしておきたい。余計なものをみんな打ち捨てた時に、また最初のまっさらのスタート地点に立ち戻る。「普通」とか「今」とか言われるものがそれだが、もう一つ無理やり表現しようとすれば「黙」の一字になるだろうか。

結局のところ万言はたった一つの黙を表すためにあるのかもしれない。そして「何もない」ということを表現するにはやはりこれしかないのか。無と有は同じ事象の別称なのである。そのどちらのスパッとない、そういう有りもしないものが厳然として在ることが判ると、自身に最初から与えられている本来の自由性に気づく。全くよくできているものだと思う。

やさしい気持ちで

今日は坐禅と活元運動の日でした。参加者がお一人だったので、マンツーマン指導です。

坐禅会は全国いたるところにありますが、せい氣院は整体院ですから坐相(坐る時の姿勢)をその方に合わせて無理なく作れるように心掛けています。坐禅は苦行ではありませんから、リラックスがとても大切なのです。

なぜかはわかりませんが、坐禅につづいて活元運動を行うとやさしい気持ちになります 。坐る前と坐った後、外の世界は何も変わらないのですから不思議なものです。

禅修行はお一人でも基本的に問題ありませんが、やっぱり2、3名はいらした方が「場」が作りやすいかも、ですね。そういえば今月はブログ告知を忘れていました。Σ(・_・)あかん!

%e8%a6%aa%e5%ad%90%e3%83%8d%e3%82%b3今月は月末にもう一度活元会があります。9月24日(土)10時-13時 次回は活元運動・愉気(手当て)の教室です。先月同様に「つながり」と「関係性」をテーマにした手当ての実習を考えています。

ご参加希望の方は前々日までにメールをお送りください。それでは。

8月 活元運動の会

8月の活元会についてご案内いたします。

■日程
8/14(日)  14:00-17:00(坐禅・活元)
8/27(土)  10:00-13:00(活元・愉気)

■場所
横浜反町 せい氣院

■料金
各回3,000円
※当月・前月に当院の個人指導を受けられた方は2,000円

■服装
白系の柔らかい服装をご用意ください(インナー着用可)。

■内容
8/14は活元運動の前に静坐して禅を組みます。意識の鎮静を味わうために、ゆっくり息を吐いて、全身のゆるみと腰の自然な伸びを創ります。

8/27は活元運動の後に愉気(手当て)の実習を行います。統一した身心と柔らかい手で触れる感覚を訓練いたします。

初めてご参加を希望される方は、一週間前までに「予約・お問い合わせページ」のメールフォームよりお申し込みください。その他の方は前々日までにご参加の旨をご連絡ください。

以上、宜しくお願い申し上げます。

野口整体 せい氣院
朝比奈洋介

魂の点火者

「人生二度なし」を説いた教育者 森信三氏は「魂の点火者」と呼ばれていた。

魂に火がつけば、あとは心も体も勝手に燃えていく。

指導者というのは皆、心を動かすことが仕事の根幹だ。

本来、医も仁術である。

心の温度を使うものなのだ。

当然だが、あちらに火を灯すには、こちらが燃えていなければいけない。

もとより人間は赤々と燃えているのだから。

いのちを高められるは、いのち以外にない。

愉気とはそういうものだ。

人間がいる限り、人間はつながりあっていく。

つながりを見失いかけたら、背骨を感じ、手を当て合って、活元運動をしよう。

人間がいる限り、人間はつながりあっていく。

このことはずっと変わらない。

燃え移るものがある限り、光はつながっていく。

それだけで、ずっと大丈夫なのだ。