病気は体の自然良能

2003年に『風邪の効用』がちくま文庫に入ってから今年ですでに17年経っている。

10年ひと昔という言葉に照らせばもうふた昔は前になろうかという話だが、当時は大手書店では平済みの状態が続き、まあまあのセンセーションをもたらしたようである。そこから比べれば「野口整体ブーム」も今はやや小康状態になったとみるべきだろうか。

それにしても野口先生の存命中は「病症が身体を整えている」というだけで、かなりのトンデモ説として非難されたそうである。

考えてみれば往時の日本はペニシリンやストマイを西洋から流入したおかげでようやく死病を克服できそうだと安堵していたさ中であった。

一見して高度な合理性を示す科学的医療の威力に目がくらんで、科学を絶対的に信じている人が大半の時代だったのだ。

その時にいち早く西洋医療の限界と問題点を指摘した先見性はもっと評価されるべきだと思う。

現代はそこからまた少し科学の方が進んだので、例えば熱が出るとその熱で症状を引き起こしている病原菌が死滅するのだ、という解釈も場所によっては受け入れられるようにはなってきた。

ただ注意がいるのは「病菌さえなくなればいいのだ」という見方に引っかかると、やはりそれは善悪の二元対立の世界に留まることになってしまうことだ。そうであるうちはどうしても是非と善悪の間でうろうろしてしまう。

病菌自体の存在も地球規模というか、宇宙的視野でとらえようとすると、善も悪もない「ただそのようにある」という一大活動体の中から一部を切り出して悪しと見ているだけである。

だから苦しければ苦しい、痛ければ痛い、というそのことで終わっておけば、それも宇宙全体の健やかな動きとして自覚できる時が必ず来る。

科学を基盤とする近代的な価値基準に生きる人たちに対して、ある種のコスモロジーの転換を迫ろうとするのが野口晴哉の説いた整体法という世界である。

こういう視点はそもそも東洋では昔からあるもので、例えば禅という世界がまずそうだし、天行健を冒頭に掲げる「易」もはるか昔から同じことを言っている。

是非、善悪、上下、苦楽といった二元的な対立概念はよくみればそれを見る人が与えた評価なのである。そして同じ人でも昨日と今日ではもう変わってしまう。

そういう不確実な考え方をもとに世界を理解し、コントロールしようとあくせくするより、「ただそのようにある」実態のほうに自分のいのちをそっくり浮かべて漂うな気持ちになってみたらどうであろうか。

法然の南無阿弥陀仏とか親鸞の自然法爾というのはこれだろう。キリスト教の方では「神のみ心のままに」というきれいな言葉があるけれども、キリストの宗教者としての強さをよく表していると思う。

人間には最初から拠り所などない。

もしも「唯一絶対」というものがこの世にあるとすれば、それは今こうして展開するいのちだけである。

頭の中を虚しくポカンとさせて、今を十全に生きようというのが整体法の説いた道である。

良し悪しを思う心がやめば、病気も一つの健康の働きであり、体の自然良能であることがわかる。

健全な動きの中にある一つの状態を人間が切り出して、「良い」とか「悪い」とか言っているにすぎない。

そういう観点で『風邪の効用』にもう一度目を通していくと、整体法が事実に即した生命観であり不易のものであることが実感できる。

とりわけ巻末の「愉気について」は圧巻である。風邪やその他の病名に拘泥して、不安に駆られたままあくせく治そうとするのではなく、先ず「病気しているその心を正す」ことが肝要であると説いている。

この辺りのところが整体法の精髄といっていいのかもしれない。

ただしここからが難しいのだが、これをさらっと信じられる人と、どうにも受け入れられない人がいる。

後者のような人を「常識の豊かな人」というのだが、実のところこういう人たちのおかげで整体がこの世に生まれたと言えなくもない。

考えてみれば信仰とかドグマというのは「受け入れられない人」がいるからその存在価値もあるわけで、みんなが「そうだ」と信じていたら、今さら改めて説く必要もない。

キリスト教も仏教もいつまでもなくならないのは、その愛も慈悲も悟りもなかなか受諾されないからに他ならない。

『整体入門』も『風邪の効用』も一般書の中に紛れ込んでいるのでうっかりすると見過ごしてしまいそうだが、その内容は教育、医療、宗教を分け隔てすることなく人間を全一的に導くための示唆に富んだもので、その功徳は計り知れない。

折に触れて読むといつも偏りかけた自分の心の姿勢を正される気がする。一冊の本の中に整体の技術としての潜在意識教育が盛り込まれているのだ。

うつは心の風邪か

体が風邪を引くように、心も風邪を引く。うつは「こころの風邪」みたいなもの。そういうフレーズをときどき目にする。

だいたいが「風邪」も「うつ」も定義があいまいなのだ。だからそうだといえばそうかもしれない。

おそらく「うつ」という病気が重篤なものになると相当に苦しいから、「今は苦しいけど、ちゃんと養生すれば必ず治りますから」という、心ある人からの励ましではないかと思っている。

野口整体の『風邪の効用』という本があるけれども、これによれば風邪は体の自然良能、すなわち発熱・発汗・下痢等々‥症状はいろいろあるが、その風邪を途中で止めないでしっかり経過すると身体の偏りは消失することを説いている。

もうちょっとわかりやすくいうと、自分の力で自然に体は整うってことを意味しているのだ。

ここでいう「偏り」って具体的にどういうことかと言えば、「骨格の位置」とか「重心バランス」のことである。

つまり発熱と発汗で筋肉がゆるむから骨格が正常な位置に戻るし、筋骨のバランスが整えば内臓機能も正常化し、そして最大化するのだ。

それなら、「うつ」にもそういう自然良能の力があるのか?と問われれば、それは間違いなくある。

「うつ」状態が体と心の偏りを正している、と考えて相違ない。

だいたい人間が治る時、というのは全てにおいて苦しみを伴うものなのだ。

「苦しいから治っている」といっていいだろう。

風邪もそう、そうなのだ。

「うーん…」と寝込んで唸っているときに、必ず身体のどこかが治っている。

共通しているのはうつでも風邪でも必ず、過去に何らかの「不快」を味わっているということだろう。「その時」の情動が消化しきれずに、体の内、あるいは心の中に居座っているのだ。

それを遅ればせながら、1年後でもいい、いや10年、20年後でもいいから身体上に表現して、感じ直して、苦しみ直すことで心身ともにクリアになる。

心でも体でも、きちっと病気をすることが治るためには必要なのである。

ときどき心理カウンセリングを受けた後で「具合が悪くなった」とか、「かえって気分が落ち込んだ」とかいうことが起こるのは、過去に感じ、出しそびれた不快情動が記憶の底から浮かび上がってきたからだと言える。

感じはじめたらそれから何日後か何週間後かはわからなけれども、やがては消えていくのだ。

暗がりに繁殖したカビとかキノコがお陽様にあたると消えてしまうように、心の底にも意識の光が指し込むとクリアになる。

ただまあ、人によってはそういうカビとかキノコみたいな不快な情動体験が「生きがい」とか、「生きるための燃料」みたいになっている人もいるから、心の治療というのはむずかしいのだが‥。

場合によっては、少しくらい偏りがあった方が「人間味」がある、と言えなくもない。

まあでも、せっかく心の風邪を引いたのならこれを上手く使わない手はないだろうと、わたしなら思う。

風邪をきちんと経過したあとは身体がさっぱりする。

これと同じように、うつを経過したあとで、今までとは違った創造的な自分だけの人生の道が拓けた、という例を、日々の臨床でたまさか見させてもらっている。

いずれにせよ病気は外から無理やり治すものではない。

「いのち」という全体性の中でその目的を正しく理解し、善用するべきだ。

苦しいときはその苦しさの中心を見据え、本質を見極めようとする態度を学ぶことである。

やがて必ず、その病の中に「道」が見えてくる。

平温以下の時が風邪の経過の急所

平温以下の時が経過の急所

風邪というのはたいてい自然に治るもので、風邪自体すでに治っていくはたらきですから、あまりいろいろなことをしないでいいのです。ただ大切なのは熱が出て発汗した場合で、風邪で発熱する場合にはかなり上がることがあります。三十八度の人もあれば、三十九度の人もあれば四十度を越すこともある。しかし熱が出たから慌てて冷やすなどということは滑稽である。むしろ後頭部を四十分感、温めるのがいいのです。そうすると発汗して、風邪が抜けると一緒に熱が下がります。下がり出すと三十六度五分から七分という平温の基準線より、もっと下がるのです。五度台になったり、六度になったり、五度五分になったり、一時、こういう平温以下になる時があって、それから平穏に戻るのです。

…ともかく脈なり体温なりで平温以下の時が判るが、この平温以下の時期が風邪の経過の急所なのです。この時期に暴れて冷やしたりしてしまうと二次的な異常を起こす。風邪の中でも耳下腺炎といって、耳の下が腫れるお多福風邪などは、この平温以下の間にちょっと飛んだり跳ねたりすると、女なら寝小便をするか卵巣炎を起こし、男なら脱腸、睾丸炎を起こすなど、とんでもない処に余病を起こす。まあ耳下腺炎に限らず、平温以下の時期に動くと余病を起こし、この経過のやり損いが、成長してからの発育不全とか月経異常とかに関連してくるのだから気をつけなくてはならない。また大人でも、この時期に冷やすと小便が急に出なくなるとか、急に下痢が続いて止まらなくなるとか、体の方々が痛んでくるといような第二次的病気が発生する原因になる。

…今までは皆、熱のある時だけは病気だと思って懸命にいろいろなことをやり、熱がなくなると慌てて動き出していた。それではせっかく風邪を引いても丈夫になるわけがない。丈夫になるように風邪を経過するには、平温以下の時に身心を弛めることと、その時の愉気が大切である。(野口晴哉著 『風邪の効用』 ちくま文庫 pp.67-73)

子供の通う保育園でもぼつぼつ風邪が流行ってきた。肺炎を起こした子もいたようで、斯様に風邪は処置を誤ると危ない。我が家もご多分に漏れず、息子を筆頭に順番に罹患した。息子は一旦40℃まで熱が上がったから、やはり若いということは体力の塊であることを再認識したものだ。

子供の風邪の経過がやや長引いてしまったのだが、今回はまさしく平温以下の時の過ごし方がよくなかった。治りかけの時に活発に動いてしまうと、がくんと調子が変わる。一般的には「ぶり返し」などと呼ばれる現象だろう。詳細は上に引用した通りだが、風邪の処置は熱が下がった時の対応が急所である。一般的には多くの方が油断される所ではないだろうか。

引用部を読めば一通りわかる話であるが、こういうことはいくら知識をため込んでもしょうがない。病気の対応などというのは、平素からよく感覚を磨き、その身体から滲み出てこそ価値がある。「本に書いてないからわからなかった」というのでは実人生の役には立たない。形骸化とは斯くの如しである。

しかしながら数多の治療術や健康法への依頼心を退け、自らの自然生命に信を置くにはそれなりの「裏付け」がいるはずだ。そのためには活元運動を修めることが何より親切である。一つの問題に百も千も策を労するのは愚かなことだ。一を以て万に当る。実際問題これさえ出来れば後はいらない。

整体法は40年前に既に完成を見ているのだ。以来いつ何時、誰に対しても通用する真理と供に超然としている。後は個人の資質に依拠するのみ。願わくは天上の月を貪り見て、掌中の珠を失すること勿れ。健康は常に生命と供にあるのだから。

『風邪の効用』までだいたい3年くらい

息子が風邪をひいた。だいたい一ヵ月ぶりくらいだろうか。「野口整体」といえば『風邪の効用』だが、今から11年前に自分が整体生活をはじめた頃は風邪を引くたびにこの『風邪の効用』を読んでいた。そうやっては逐一症状の経過を楽しんでいたのを思い出す。

一言でいえば「風邪は身体の自然良能」ということで、風邪をひいて熱がでると、その体温の変化によって身心がゆるむ。それによって、自身の潜在体力が煥発され自然に元気になるという話だ。だから咳をしても熱が出ても静かに経過を見守るような方法を取るのである。

ところがそこから拡大解釈が生じて、「風邪はいくらでも引けばいいのか」と思われることもあるが、そこはちょっと慎重に考えたい。

たしかに本を読めば風邪を上手に経過させる方法は沢山紹介されている。ところが発症してから手を打つようではちょっと遅いのだ。本来は常に身心の平衡が保たれていて、風邪が要らないような生活者であることが最善である。

簡単に言えば「心・体」の両方にしこりがなくていつでも柔らかい状態を目指したい。それには平素における身体感覚の練磨が要求される。整体は「身体の感受性を高度にする」ことが真の目標なのだ。

もう一つ、子供は大人よりも体力があり丈夫だ、・・けれどもそれでいて脆い。風邪の経過でも処置を誤ると、本当に命が危険にさらされる。そういう観点から、安易に「野口整体のやり方で・・」とやろうとすると、無自覚なリスクにさらされることがある。これは誰しもやってみると追々わかる・・。

病症経過を的確に促すには、「身体が読める」ということが大前提で、何事も生兵法はこわいものだ。整体という生き方を実現するには、まず頭の理解に3年、身体ができるのにも、(個人指導や活元運動を続けながら)どんなに早くても3年くらいは見積もった方がいいだろう。

努力してやっとできるようになる、というよりも好きなら自然と続くものだ。好きこそものの上手なれで、やってみたい人はやっぱり先ずは本から入るのがやさしい。何回読んでも記憶から内容が漏れていたり、実体験に照らし合わせてみて「ああそうか」とようやく解ることも出てくる。

ともかく風邪を一度もひかずに死ぬ人などまずいないのだから、誰の手元にも置いておきたい珍書であり、良書だ。実際好みの問題が大きいのだが、一読して損はない一冊だろう。

病症が身心を治している

今日は2才の息子が保育園から早退してきた。昼食、お昼寝のあとで蕁麻疹が出たと連絡があったのだ。保育士さんからは「お昼に食べた物(が原因)ですかね?」と聞かれたけど、どうもそういう感じでもない。念のため脈をみる・・、とやっぱり中庸、というか普通だ。

もしかしたら一昨日、散歩でかなり歩いたからその疲れが出たのかもしれないし、原因は今のところちょっと判らない。ただ一息四脈ならそれでいいではないか。こういう時にはいつも「整体」の見方と一般の方が見た時との「病気観の違い」を痛感するものだ。

野口先生が整体を勧めていくのに取り分け苦心された、というか難儀したと言われているのが「常識」という壁だったと言われている。「常識」というのはそれだけ手ごわいのだ。

多くの場合は病症が出たときだけが「病気」と考えられて、その時を「異常」と診る。ところが整体をやっていくと、そうは観えなくなって来る。「病症が出た時にはもう治った時」と、こういう風に感じる。治り始めの僅かな動きを察知して、その時に「調子が悪い」と感じ、その後症状が出た時にはもうほとんど経過は終わったのだと、こういうことになる。

「その前」に必ず何か調子を乱すショックがあったのだ。それが身体を緊張させて病気の必要性を生んだ。病気のほとんどはそうした未消化のショックやストレス体験を処理するための弛み現象である。病気そのものが治る働きといわれる所以だ。

極論を言えば、何を正常と見て何を異常と見るかという、「正常・異常のライン」をどこにひっぱるかの違いなのかもしれない。

常識的には「病気がなくなることが健康だ」、こういうことになっているが本当に病気をしない人間などいたら薄気味わるいのだ。そもそも風邪だって黴菌が入ったからそれをやっつけるために熱が出るのだから。でもその一方で、「解熱剤」という薬があることを考えると、薬は黴菌に加勢していることになる。そうすると「薬」というのは「毒」ではないか。

こういう風に考えていくと、病気を治そうとしていろいろと手を加えていることの意義自体が疑わしくなってくると思うのだが。ここまで理詰めて考えても「そうは思わない」という人はごくごく「常識的」なのだ。そういう人はそのまま常識というお守り札を持って生きていけばいい。

ところがそういうお守り自体、もともとは人間が作ったものであって、それを握って安心を得ようというのは本来可笑しなことである。

%e5%a4%a9%e5%8b%95%e8%aa%ac「常識」というものは一日でひっくり返ることがある。これに対して真理は不変なものだ。真理と供にあることを選ぶ人は、何もしないで身体の感覚に委ねて生きはじめる。そうやって世の中を見渡してみると、いろいろなところに遍満する「常識の矛盾」に気がつくはずなのだが。

常識は人間が考え造りだしたもの。真理はその人間を生み出したもの。どちらでも選べる自由性を誰にも等しく与えられているのだ。どう生きればいいかなど最初から分かっている、自分の身体感覚に訊ねればそれでいい。

治ると治すの違い

治ると治すの違い

だから治すということは病気を治すのではなくて、病気の経過を邪魔しないように、スムーズに経過できるように、体の要処要処の異常を調整し、体を整えて経過を待つというのが順序です。

最近の病気に対する考え方は、病気の恐いことだけ考えて、病気でさえあれば何でも治してしまわなくてはならない、しかも早く治してしまわなければならないと考えられ、人間が生きて行く上での体全体の動き、或は体の自然というものを無視している。仕事のために早く治す、何々をするために急いで下痢を止めるというようなことばかりやっているので、体の自然のバランスというものがだんだん失われ、風邪をスムーズに経過し難い人が多くなってきました。しかし愉気法をやって何回か風邪を経過すると、その都度に非常に早く経過するようになり、簡単な変化で風邪を引き、風邪を引くと同時に、或る場所を愉気してもらいたい要求が出てきて、そこを愉気すると皆早く抜ける。だんだんに風邪の宵越しをしなくなるようになっていくわけですが、愉気法以外の方法では、風邪を治した治したとい言う度に、だんだん風邪の経過に鈍くなり、風邪を引いた後も疲れが抜けないのです。愉気法をやると疲れが抜けて体がサッパリし、方々の弾力性が恢復するのに、それが起こってこない。だから同じ経過をしたといっても、自然に治ったというのと、治したというのではかなり違うようです。従って早く治せばいいという考えだけで病気に処することは、別の考え方からいえば、寿命を削る行為ともいえると思うのです。

早く治すというのがよいのではない。遅く治るというのがよいのでもない。その体にとって自然の経過を通ることが望ましい、できれば、早く経過できるような敏感な体の状態を保つことが望ましいのであって、体の弾力性というものから人間の体を考えていきますと、風邪は弾力性を恢復させる機会になります。不意に偶然に重い病気になるというようなのは、体が鈍って弾力性を欠いた結果に他ならない。体を丁寧に見ていると、風邪は決して恐くないのです。(野口晴哉著 『風邪の効用』 ちくま文庫 pp.40-42)

手を当てて(愉気によって)子供の風邪が治ったというとやはり巷ではおどろかれる。一般の方の価値観(常識)というのは、定期的に自分の立ち位置の特殊性を教えてくれるものだ。自分の場合は28歳から整体をやり始めてちょうど十年だが、以来、目薬を差したことがあったが(それも半強制的に)、その他は薬を使ったためしがない。こんなものは自慢でもなければ誇るような話でもない。ただただ天然自然の妙に敬服するばかりである。

しかしながら、愉気(手当て)で治ったということになると、今度は「薬」から「手」の方に信が移りやすい。いわゆる超能力崇拝とか聖人信仰の軽度のものだ。ところが手を当てて治るようなものは、実は手を当てなくても治るのである。それどころか、生きているものはみんな治ってしまう。ただし手の施し方によって、治り方がちがう。プロセス・イコール、結果なのだ。

もとより自然というのは至高のものである。ところが「人間に於ける自然とは何か」と考えると、ただ与えられたままの自然では力にならない。人為の中に無為の自然が現れるように訓練するのである。端的に言えばそれは活元運動だが、日常の中でいつでもどこでも活元運動が発動している人が愉気をする資格を有する人だ。実際にそこまではむずかしいので、手を当てる時くらいは自然に対する信頼の心が現れるようにしたい。それには体験を通じて、自らの自然生命に目覚める以外にない。

もとより身体上の現象にこれから治すようなものは一つもないのだ。痛いといった時にはもう治り始めている。病気と治癒は一つの現象の2つの側面なのである。これが解らないうちは本当の愉気はできない。それでもできないなりにやっていると、或る時にぱっと愉気になっていることがある。「やっている」ものが消えると、人間的な作為や造作がなくなる。その時すべてが上手くいく。雑念で見えなくなっていた秩序がふいに現れるのだ。これを古人は「妄息めば、寂生ず(もうやめば、じゃくしょうず)」と示された。治そうというものが消えたとき、すでに治っているものが出てくる。生命とは須らく任運自在の境に浮かんでいるものなのだ。

子供の発熱の処置

…そういう教育は、繰り返し行われると、潜在意識の中に滲み込んでしまって、滲み込むとすぐ体を支配するのです。例えば、“四十度の熱が出たらもう駄目だ”などと思うと、すぐ元気がなくなり食欲もなくなる。けれども整体に来ている人達には、熱が出て食欲がなくなるなどという人は極めて少ない。「三十八度しか出ない」「まだ九度なんです」ときまり悪そうに言う。「なんだ、あなたの体力はそんなものですか」と言われそうで、四十度を越さないと幅が効かない。事実、四十度を越しますと、親から貰った梅毒のようなものでもなくなってしまうのです。だから子供の病気に高熱が伴ない易いということは、一面、親から遺伝してきたものに対する消毒の意味があると思うのです。だから私は、子供が高い熱を出すと、“これで安心だ”と思うのです。それがなくて大人になってから早発性痴呆になったり、脱疽になったりしたのではたまらない。ところが近頃では、熱のでることまで予防するようになってきました。ひょっとすると、もう二、三十年の内には、二十歳位になって突然気が狂うような早発性痴呆の人達が多くなるのではないか、その他にも、まだいろいろ抱えている病気の消毒が済まないまま成人していくのではないかと、その点では大変怖いと思うのです。(野口晴哉著 『整体法の基礎』 全生社 pp.22-23)

今日は“まくら”の引用文が重厚になってしまった。太郎丸の風邪の経過記事が途中になっていたので、まとめることにした。

結果から言えば発熱はおとといがピークで39.5℃まで上がった。40℃の大台も予期したが、今回はそこまで至らず、しかもデジタル体温計だったので実際はもう少し低めだったかもしれない。

野口先生の時代には「発熱は怖くない、活用すべし」と言ったら方々から非難を受けたそうな。ところが現在は西洋医療でも熱は下げない方がいい(下げるなキケン)ということが、ほぼ明らかになっているみたいだ。ただこれまで発信し続けた「常識」の手前、明言できずにお茶を濁しているというのが実情ではないだろうか。

「真理」は絶対無二だが、「常識」というのは流動的で薄弱なものだ。だがそれと同時に常識は頑迷でもある。常識に抗して地動説を唱えたガリレオはそのために処罰された。常識が覆ってからも、彼が死んでからも刑は解かれず、罪を許されたのはなんと20世紀に入ってからである。権力というのは凄まじい。今だったら天動説が非常識ということになるのだろうが、本当は天も地もはじめから動いてなどいない。発熱に対する「解釈」も似たようなものだろう。熱はただ熱として出ているだけである。

何にせよ現代に至って、それだけ野口整体と一般常識との落差が減ったのは、やりやすい反面やりがいも減じた気がする。カウンター・カルチャーが徐々にサブ・カルチャーになり、メイン・カルチャーとなった時にはその存在意義も消えてしまう。これはこれで寂しい。

少し熱の処置のセオリーを書いておくと、整体では発熱のピークに差し掛かったところで後頭部に蒸しタオルを当てることがある。本来、体力充分であるはずの1歳児ならこんなことをする必要もないのだが、今回は緊張がゆるみきらないので少し熱刺戟を使うことにした。ここからリズムが順になって、経過が良好になったうようだ。

注意したいのは、「子供が熱を出したら後頭部を温める」と覚え込むと、いま実際に、目の前で活動している〔身体〕を見失う。いわゆる自然界には「同じことは二度起こらない」という一大法則がある。その一回性の出会いに対して適合する方法は、過去の知識の堆積から見つけることは不可能だ。

〔今〕を知りたければ、〔今〕から学ぶ意外にない。整体操法とは元来、即興力の連続で構成されているのだ。そのヒントは過去の事例の中にもあるが、過去の中には答えそのものはない。記憶の蔵を漁るのをやめて、いま目の前で燃えている命の色を観ることだ。さすれば今何をすべきかは自分の命で感じ、自分の身体でわかるように出来ている。これがわからないようでは、鈍っているのだ。

他人の自然に立ち入る前に、自分の自然を守ることだ。自分の自然が表出すると、「あちら」と「こちら」の垣根は消える。それは看病、整体操法における基本であると同時に、充分条件でもある。方法論は何処まで行っても方法であり、手段でしかない。手段の奥にある理合いを感じ、そこを出発点として感じ、考える頭が欲しい。そしてその頭が消えさえすれば、愉気は無量の光となる。

春から初夏にかけての「汗」の処置

先週のことだったが太郎丸が汗を冷やして風邪を引いた。とても暑い日で保育園で外遊びの後に汗を冷やしたらしい。

こんな風に一度出た汗をそのままにして、風にあたると、冷えて内攻する。整体では晩春とか秋口になると汗の処置をよく指導するのだ。

一般的には汗が身体に及ぼす影響はほとんど知られていないけれど、「汗の内攻」は風邪や肺炎のもとになるから軽視してはいけない。とくに月齢が浅いと重篤な状態にもなりかねないので、特にこれからは窓からの風やクーラーには注意が要る。

予防策としては、汗をかいたらすぐに拭くことだ。そして肌着も替えること。あたり前すぎで有難味がないんだけれど、実生活の場で本当に役立つ知恵はこういうものだったりする。

すでに調子を崩してしまった場合には、お風呂で身体を温めれてやればいい。そうやって引っ込んだ汗がまた出てしまえばいいのだが、知らないと割とめんどうな体調不良に発展しやすい。

とりわけ子供の風邪を扱う上で、こういう「汗の処置」を知っているかいないかで経過がだいぶ違う。たったこれだけのものでも、嗜みとして覚えておくといい。

インフルエンザに関する一考察

野口整体には『風邪の効用』という名著がある。実際にこの一冊から整体に関心を持たれたという方は多い。著者の「風邪が体の掃除になり、安全弁としてのはたらきをもっている」という見解は、実際にそういう角度から自身の身体を見て風邪を数回経過することで、だんだんと自身に肯えるようになる話だ。知識が確信に昇華するまでには一定の年月を要するが、整体(活元運動)を専一にやっていけばやがてはそこに落ち切る。

ただ、仕事をしていると「インフルエンザのワクチンは打っていいんですか?」という質問を年に2、3回はいただく。現代に至ってインフルエンザワクチンが効く、効かないという論争は枚挙にいとまがない。病気は悪いものとしか聞いていなければ、「予防接種は打った方がいいに決まっている」となるのだが、もう一方で「病気は身体の自然良能(病症そのものが身心のバランス作用)である」という見方を知ると、迷いが生じるのも判らないでもない。

ワクチンの是非ということで言えば、実際は効果が無いばかりかワクチンを打った人の方がかえって罹患しているという話もある。これはうわさレベルの情報だが、自分の経験ではタミフルを飲んで「治した」人が、間を空けずにまたインフルエンザに罹った例を見たことがある。身体が固いとそうなり易い。

生きた身体を観ている立場から言えば、風邪でもインフルエンザでも、「自然に」経過した身体はうしろ姿がやわらかい。一方、薬で経過を中断させたものはそういう有機的な「流れ」がないのだ。バツン!と打ち切られたような感じだから、症状と一緒に身体から美が失せる。プロセスを無視して結果だけを求めると、造り事のような身体になってくるのだ。例えはよくないけれども、生け花と造花のような違いといったら判り易いだろうか。

結論を言えばインフルエンザでも風邪でも身体に弾力があれば罹らない。生きた身体は偏り疲労があると身心のバランス回復機能が働き、あらゆるものの力を借りて「生命の全体性」を回復しようとする。病気はそのもっとも手近な秩序回復機能なのだ。

だから最初のような質問をされるという事は、事の真偽以前に生命に対する態度が露呈する。西洋医療は信用できない、では東洋医学だ、いや代替医療だと、色々な知識に踊らされている人は、自分の「息」に気がつかない。騒がしい意識の運転を停め、身体の感覚が良い意味でむき出しになることで初めて命の力に「信」が生ずる。仏道には「妙法一乗」という教えがあるが、「一つ」に乗り切れないものはいつも危うい。自身の命以外に一体どんな乗り物があるのか、あれば聞いてみたいと思う。

一乗

病気は怖いモノ

半年から一年くらい指導に通うと、「風邪を引きました」、「下痢をしました」といっても平然としている人が増えてくる。さらに少々の病気にはビクつかなくなる。それはそれである面進歩と言えるが、このくらいになると今度は逆の注意がいる。例えば「風邪の経過」一つとっても、それを理解し善用しようとすると、病気の複雑性がよく解るのだ。

実際は風邪くらい厄介なものはない。また操法しだして一番難しい病気は何かというと風邪です。今でも風邪というと体中を丁寧に調べて、それだけでは足りなくて、今度は過去の記録から何から全部調べて、それからこの風邪はどう経過するかということになるのです。それが判ってピタッと考えている通りに行くと、やっとその人の体に得心ができる。風邪で見間違えるようなうちは、まだその人の体を理解していない。
風邪を引くとたいてい体が整うのです。そうかといって高を括っていると悪くなる。けれども体をよく知っていくと、この風邪はこれこれこういうコースでここへ残るとか、ここに残ったものはこれを処理すれば治るとか、これこれこういうコースで体のこういう場所が良くなるというように予想して、ピッタリと間違いない。それもここ十年くらいのことで、それまではやはり掴まえ難かった。(野口晴哉著 『風邪の効用』 ちくま文庫 p.17-18)

一般に病気は怖い、また悪いものという固定観念でみているのが「常識」である。ところが「そうではない」、というのが野口整体の見識で、大抵はその独自の切り口に驚きと感銘を抱くところが整体の入り口だろう。そして最初は半信半疑のものも、しばらくして病気を自然経過した時の爽快感や体調の良さを味わうと、「なるほど」と思うのだ。野口晴哉の言った事は本当であると自身に確証を得る。

ところが先の引用のように「高を括っている」とやはり悪くなる面がある。初心の罠というか、ここを見落としやすい。下痢でも熱でもそうなのだが、時として体を整える働きとみなすが、その本質はやはり「処置を誤れば生命に関わる」破壊性を秘めているのだ。斯様に生兵法はおそろしい。

畢竟、病気は「怖さ」を内在しており、そしてその怖い中にも「有用性がある」と言うべきであろう。だからその病気という働きが「どうなっているのか?」と観つづけることで、その活かしようも見えてくるという話だ。「怖い」という見方も偏見なら、「怖くないのだ」というのもまた執らわれなのだ。野口整体は一切の依りかかりを奪い、本来の自由性の発現を促す。その依りかかるものが「思想」や「観念」であっても、それをお守り札として持っている以上は縛られ、自由性が減じる。

もとより「生命活動」とは無色・無臭、人間的な「はからい」から見たら何も意味などないのだ。ただ、そのことが、そのことして、ただその通りに働いている。それだけである。時に「精妙だ」などというのも一種の「見解」で、もともと息にも脈にも精妙など付いていない。本当に「何もない」のだ。野口整体では「その純粋な生命活動をそのまま味わう」という態度で身体感覚の発揚を謳う。「妄想を除かず真を求めず」で、求めなければまるごとそのままの自分である。病気だけを切り離して、「こちら」から「あちら」を見ている内は、怖い、怖くない、とっては絶えず自分に騙されるのだ。

実際「自分がどうなっているのか」。その見極めがつけば、病気がそのまま治癒である。〔今〕を見破ることだけが救いとなる。ただすごいのは、「病気は良いモノ、悪いモノ」などと何を考えていようがいのちはお構いなしなのだ。人類創生以来病気は病気として、生を全うさせ、消滅さることを繰り返してきた。もとより生命とは底が抜けているのだ。「人間的な」はからいで汲みつくせるようなものではない。だが頭の良い人はその知によって愚に陥り、「どうにかしよう」といっては、どうにもならない自身の命を右へやり、左へやっては喜んでいる。真に聡明な人はまさしく「任運自在」の境で、自身の生命に悠然とまたがり、ただ息をし、飯をくい、大小便をして、眠るのだ。

整体はこれから学ぶものでも、知るものでもない。自身の身心をもって、命の完全無欠を実証するのみである。ただの一度でいいから、「確かにそうだ、間違いない」ということを肯えれば、もう迷いの世界には戻れない。その瞬間から大安心の生活者であり、絶学無為の閑道人である。

水面の木