バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985)

妻が「三人で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』観ようよ。」と言い出した。もうすぐ9歳になる息子も今ならそれなりに内容を共有できるのではないか、とのよし。

まあそれもあるかもしれないね、と思い三人で観始める。自分の中では「最近の映画」だと思っていたのに、いざ観てみたら1985年の話ではないか。10年ひと昔というから、まぁそれなり古い。

随分と久しぶりだったのでスピルバーグ映画のドキドキはらはら感が懐かしかった。「あぁこの、わー!って危機感が迫る感じあったよね」などと家内と懐かしんでいたのだが、やはり80年代のナウさが古かった。

その時はその時の最先端だったものが、半世紀も経たぬ間にいろいろな面で変わったな、と思う。

なかでもここが大きく変わった、と思ったのは1985年の時点ではまだまだ「未来」に期待感があったということだった。

劇中の現代(1985年)は30年前(1955年)に比べて相当に進歩してるのである。だからここからさらに30年、50年と経てば時代はますます良くなるに違いない、という楽観主義が当時の先進諸国を押し包んでいたように思われる。

例えば劇中の現代(1985年)ではタイムトラベルを可能とする次元転移装置を駆動させるためにプルトニウムを必要としていた。それが30年後の2015年にはバナナの皮のような生ごみを再利用して動力を生み出しているのである。

もちろんこれはフィクションで現実の世界ではそうはなっていないけれども、「科学がさらに進歩していったあかつきには、エネルギー問題をはじめとする現今の諸問題は魔法の様に解決する」という一般通念が、当時はどことなく漂っていたことが伺える。

実のところこれに先んじて84年には『ターミネーター』が公開されており、そこでは人間対機械という対立構造が表現されている。だから科学の進歩に対しては当時もプラスのイメージばかりではなかったことも垣間見える。

機械文明に対する漠とした危惧感といえば、1936年のチャップリンの『モダン・タイムス』まで遡ることはできるかもしれない。

こうした科学に対する「うがった見方」を抱えつつも、やはり大勢としては未来に明るい展望や希望を抱いていたように当時を記憶している。

欧米社会における「自然科学」というものに対する信頼が日本にまで伝播して上のような楽観主義を支えていたのだ。しかしながら21世紀の現在になると機械文明もある種の飽和状態になり、これ以上の「進歩」に魅力や期待感を抱く人の割合は年々減少傾向にあるのではなかろうか。

こうした流れの背景には、現実に一人の人間が生きていく場合、自然科学のパラダイムだけでは解決のつかない問題が山ほどあることが広く認知されてきたとも考えられる。

具体的にいえばそれは人間の心とか、生きる・死ぬといった問題の周辺にある事柄になる。映画の中でも過去に行った主人公のマーティが若かりし頃の自分の両親に出会ってしまいそこで三角関係に陥ってしまう、というところが物語の焦点にもなっている。

これにちなんで、かつて臨床心理学者の河合隼雄が、ある不登校の子どもを抱える父親と面談した折に「月にロケットが行くこの時代に、息子を学校に活かせるスイッチは見つかっていないのですか」という発言をしたことに驚き、この時の例を自身の著書の中で何度も引いていることを思い出した。

つまりタイムマシンによって過去に行ったり、未来に行ったりといった物質的なことはある程度意思の支配下に置くことはできても、人間がある人を好きになったり、ならなかったり、といった問題はロミオとジュリエットの以前から現代に至ってもなお容易に解決し得ない問題なのである。

またこれは、現代においてある日突然学校や会社に行けなくなってしまう人がいることと同次元の問題ではないかと私は思う。

客観科学としての心理学を専攻する人たちは上のような問題に対しても、薬や「意識的な行動」によって一定に解消できることを主張する。

感情や思考といったものを不可解な形而上的現象とみなすよりも、脳や神経系の活動やホルモンの増減といった物質現象の随伴として帰結させた方が合理的で対処しやすいうえに、時代精神にも則しているためである。

私としてはこのような態度を否定するつもりはなくその有効性も十分認めている反面、同時にこうした客観科学に基づいた心理学の抱える矛盾についても気を付けるようにしている。

それは「心」というものが個人的「感覚」や「体験」によってのみ自認できるもので、そこには客観的事実として他者と共有できるものでないことに起因する。

つまり「悲しみ」や「苦悩」といった言葉は主観的な感覚を表現したものであるため、これらは視覚をはじめとする五感によって他者と共有することができない。厳密に言えば心の問題のような主観的事実は客観性を必要条件とする科学の俎上に挙げることはできないのである。

現在はこうした人間の「心身」にまつわる諸問題について考えられるようになって久しいため、科学技術の持つ力や恩恵は誰もが認めていながらも、「それのみ」によって人間が不幸から完全に救い出されたり、深い悲しみを消失させたりすることができないことも相当にわかってきているのである。

一体いつ頃から科学に対する認識が切り替わってきたのか、と考えると地域によっても異なるだろうしエポックとしての明確な線引きは難しい。

しかし1985年から2023年という時間的距離感を前にすると、やはり隔世の感を禁じ得ないのである。

この間に近代文明の利便性の影に潜むさまざまな問題が浮き彫りになってきたにもかかわらず、科学文明圏は大きなかじ取りを行わずになんとか現代まで漕ぎ着けたといえる。

一般に時代を創るのはその時代を包んでいる気風や境遇であり、それに対して人間がどう反応したかに拠っている。

その都度再適応を繰り返していった結果が「現代」なのだから、そこに至った過程に対し現在の価値観から正解や不正解という概念を当て嵌めることはナンセンスかもしれない。

しかし科学文明圏を取り巻く矛盾や、ある種の行き詰まりについて考えると、これまでと同様のパラダイムで未来を生きていくことの難しさを思わずにはいられない。

ともかく本作が1985年に過去、未来という対比構造の中で「今」を捉えたところは今から考えると面白い。「昔の映画」といっていいかはわからないが、思わぬところから現在、そして未来を考えるきっかけになったのだった。