ドルイドや魔女に関心を持つ人たちには、イギリス・アイルランドに特別な場所があるという。それを「レイライン(Lay Line)」という。簡単にいうと地上のあるポイントに何らかのエネルギー場が存在し、それらを結んでいくと地図上に直線が浮かび上がる。古代ケルトの遺跡や聖地の多くはこのレイライン上にある。
それは東洋でいう所の地脈や龍脈といった、土地に流れるエネルギーの概念に似たものかもしれない。現代風にパワースポットと言った方がよりしっくりいくだろうか。
本書を読んで私がもっとも感銘を受けて紹介したいと思ったのは、実を言えばこのレイラインについてであった。
著者の河合はこのレイラインで面白い実験をすることになる。それは一般にダウジングの名で知られているもので、2本のL字型の銅線(ロッド)の短い方を両手に1本ずつ持ち、強く握りこまずに長い方を水平、平行になるように持ったまま探査する場所を歩く。すると特定のポイントに差し掛かったところで平行にしてあった銅線が引かれ合うようにカチッと交差する。そこがレイラインの上だという。
何故そうなるのか、既存の科学では説明がつかないようである。そのためダウジングというもの自体否定的に見る向きもあるようだ。もし磁気でもあれば鉄は吸い寄せられるが、銅線ではこの理屈も通らない。今のところは「物理的に人間が認知していないエネルギー場と引力・斥力が存在するのかもしれない」という推論に留まる。
先に述べたとおり河合はこれに挑戦することになる。その部分を少し長くなるが下に引用する。
まず、NHKのスタッフのひとりがやってみると、ふわふわとしていた銅線が、ある地点に行くとパチッときれいに交差した。私は「僕はあきまへんで」と言ってやったところ、同線は重ならなかった。他の人はうまく重なったが、私のほかにもうひとり重ならなかった人がいた。それはNHKの音声係の人、つまり理科系の人で、私はその人に「あんたもあかんだろう」と言ったら、やはりその人もダメだった。
さらにそのあと私が「今度はいきまっせ」と言って同じことをすると、銅線はサッと交差した。フラフラ風に揺れていたのが、きれいに重なったのである。
これは私にとってとても興味深い体験だった。(『ケルト巡り』p.176)
一回目と二回目で異なる結果が生じた理由について、河合は自身の意識の在り方にあると述べている。河合は日本を代表する心理学者であり心理療法家であるが、もとは数学を専門とする理系の学者であった。物理学を科学の王様とするなら、数学は女王様と呼ばれるくらい、それらは強固な論理と客観性を具えている。そのような合理的な意識を強く働かせて「こんなバカなことはない」とか「科学的に見ても重なるはずがない」というようなことを強く思っていると、銅線は動かないのだという。
ところがユング派の心理療法家としてクライエントに会う時の様に、無意識な態度に自分を切り替えてもう一度試したら今度は銅線が見事に重なったという。
これはうっかりすると聞き流してしまいそうだが、よく考えてみれば国立大学の教授がかなり大胆に自らの体験を語っている。科学の専門家が人間の心の持ちようによって物質現象が変わる(かもしれない)、と言っているのだ。
こういう話はともすれなおかしな方向に発展していきやすい。つまり人間の思ったことが現実になるのだから、念じたり拝んだりするだけで物事が上手くいく、と主張をする人などがでていくる。
しかし当然だがほとんどの場合がそうはならない。人がどんなに幸福を願っても不幸や厄災は避けられない。人類史上繰り返し疫病や自然災害に苛(さいな)まれてきたがために、ヨーロッパの先人たちによって近代科学が創造され、今日まで発展してきたのだ。
しかしこちらの記事でも繰り返し述べてきたように、近代科学では扱えないものがたくさんある。例えば人間の心や精神活動は視覚化できないため、心の病などは本来は近代科学の領分ではない。
心を客観的に科学で扱うことは不可能なのだが、それをどうにかしようとして、人間の「行動」を心の反映として間接的に心を扱う行動療法などが考案されてきたのである。
あるいは心の活動は脳内で分泌されるホルモンの分量や割合に依存する随伴現象であるとみなし、心の苦しみを訴える人に向精神薬などが処方されることもある。
しかし「心」という概念はあくまで「私」だけの主観的体験である。これは形而上的な個人的活動であり、客観的な物質現象とは別にして考えなければ社会生活がおぼつかなくなってしまう。
いっぽうで人間の想念と現実が全く分離しているかというと、全くそうだとも言い切れないような現象が我々の身の回りではよく起こる。
例えば今朝夢に出てきた人から久しぶりに手紙が届く、電話がかかってくる、といった現象などがそれである。あるいは「ケーキが食べたい」などと思っていると、家族や友達の誰かが持ってきてくれたりする。いずれも「そんなものはただの偶然だ」と一蹴することもできるが、古くから「虫の知らせ」といった言い回しが存在するように、確率論的に考えるとこうした偶然の生じる頻度は高いようにも感じられる。
果たして我々の心的活動は物質界に影響を及ぼす、あるいは物質界の現象が個人の心に入り込み同調して動くことがあるのか、ないのか。つまり主観と客観に連絡性があるか否かの判断は、非常に曖昧として判別しがたい。「レイライン」はその一つの具体例だとも言えないだろうか。
これについては河合は本書の中で次のように述べている。
レイラインは人間の主観と客観の交差する微妙なところにある、と考えるのが妥当ではないかと思われる。頭ごなしに否定してしまうのは面白みがないし、かといって「事実」として客観的な存在と同定するのは危険だろう。(前掲書 p.170)
実は整体法(野口整体)もこの「主観と客観の交差する微妙なところ」に存在している。どこだったかは失念したが野口晴哉が昔の講義録の中で「整体操法は対人関係の技術である」と述べていたことを記憶している。つまり同じ技術でも「誰が」「誰に」施すかで、結果が異なるのである。
また整体指導者が人に触れるための訓練として合掌行気(がっしょうぎょうき)という瞑想的修練を行う。これは正座合掌という形もさることながら、触れる人の精神状態を重んじる態度であり、先ほどのレイラインの話にも似ていると思えないだろうか。
さらに整体法には「処(ところ)」という、東洋医学でいうツボとか経絡のような概念がある。これもレイラインの話と同次元のものだと私は思うのだ。
つまり解剖学(物理)的には処や経絡には何も存在しないのである。例えば手の三里(整体でいう上肢第四調律点)という処は消化器とつながるツボとされる。ところが、なぜここを刺激すると胃や腸に感応するのかは客観的に実証できる材料は存在しない。つまり物質的な線、目に見えるコードのようなつながりはどこにも存在しないのである。
さらにツボとか処という場所はここがそれだ、という意識で触れないとわからない。またある程度訓練して意識や手の感覚がそのように育っていないと捉えることができないのも特徴である。つまり「こんなものがあるわけない」と思って暮らしている人には一生見つからないものである。
つまり「ある」という人にはあるし、「ない」と思っている人にはなくなってしまう。主観と客観が微妙に交ざり合ったところに存在するのが「処」であり「ツボ」なのだ。
こうしたことからも人間を観る時にはその人の精神状態を含めた「主観」が大きな意味を持つことがお分かりいただけるだろうか。
近年では健康診断で客観的に「問題ない」と言われた人が急に衰弱したり、死んだりすることがある。物理的に「見える」世界ではどこも損傷していなくても、物質現象以前の何かはもう壊れる方向へ動いていた、と考えることもできる。
このような見えざるものを観ようとすればやはり主観を磨くより他ないのである。しかし主観だけに頼れば、悪くすると独断や偏見にも流れやすく、これも危険である。
近代文明は客観的事実を重んじることによって急激な発展を遂げてきた訳だが、現代に至ってまた主観の価値を見直す必要に迫られているのだ。
中世以降、自然と人間を分離して対象化しコントロールすることだけを考えてきた人間が、近代に入りその切り離した自然との不調和に苦しめられるようになって来た。
このとき特に問題になるのは、この分断した「自然」というカテゴリーの中に自分自身の身体や無意識も含まれていることである。
現代医学は人体の研究には余念がないが、ある特定の個人のからだ、生きた心を持って絶えず変化する身体の複雑な動きの前では、科学的医療はしばしばその力を失う。
レントゲンや血液検査などによる「分析」を行えば行うほど、目の前の患者は客観的データの集積に変換され、生きた人間を見失うことになる。こうして医学は人間不在の物理的な実験の場へと変わっていったのである。
また「人間には無意識がある」という見方も、科学的には仮説の域を出ない。心の中で意識化できない領域を無意識とする以上は、そのようなものがあると仮定して理論を構築しているのが精神分析の世界なのである。
無論このような方法には客観性が犠牲になる。心理療法の「誰が、誰に行うか」によって異なる結果が生じるという属人性の高さは、レイラインの実験にも通じるものがある。実験者の精神状態によって結果が変わる、などということは科学を尊重する人たちからすると現実認識を歪める偏見や先入観に過ぎない。
しかし事実は事実として受けとめることが、本来の科学的態度というべきであろう。我々の意識状態によってこの世界が異なる解答を示す、ということが可能性として考えられる以上、心や精神といったものに対してもっと開かれた態度で検討する必要があるはずだ。
人間が自然や無意識と切れた状態で生き続けることが難しくなってきたとき、これらとの「関係性の中で生きている私」というものを考えることが大切なのである。
科学的には人間の存在価値や自分が生きる意味なども存在しなくなる。人間はそのような無価値観の中ではどっしりと、力強く生きていくことができない。物質的には豊かになったのに自殺者が増え続けている現実は、そのことを裏付けている。
自分の身体を拡大、延長したものとしての世界、そして自分の心を包み込む宇宙としての無意識、こうした自分を超える大きなものとの見えざるつながりを感受することが心の安定につながってくる。これらとのつながりを保ちながら、客観性を駆使して目の前の現実に対処していく能力が現代に求められているように思うのである。(つづく)