七夕

今年は久しぶりに七夕の願いごとを書こうと思っている。

整体では伝統的(?)に七夕をやる。七夕さまに願ったことは必ず叶うというのだから大変なイベントである。

ただし条件があって、「自分が本当に叶えたいもの」「心の底から願っていること」を氣を集めて短冊に書くのである。

そして書いたらそのことを忘れてしまうこと。これは実質的にはむずかしいと思うけれども、日常生活の中で願いごとを忘れている時間を長く持てばいい、というくらいに考えている。

ともすればメルヘンチックな話だが、これには心理学的にある種の合理性が認められるのだ。

ただし心理学という学問自体がいくつかの「学派」に分かれているなど、そもそも心理学自体の科学性や合理性をめぐっては理論的決着がついていない。

この辺りに言及するとこのブログには荷が重いため省くが、主にクーエの催眠療法やユング心理学の理論に寄ったものとして読んでいただくとよいように思う。

クーエによれば人間の心を意識とその他、つまり潜在意識や無意識に分けた場合、その人を実際に動かしていく力は潜在意識の方にあるのだという。

同氏はこれを馬車に例え、意識は手綱、そして潜在意識を馬としている。だとすると体は荷車といったところだろうか。

これを野口晴哉の場合は意識をハンドル、潜在意識をエンジンと言い換えたが意味する内容は同じである。

具体例を示すと、ある人に「なんだか今日は顔色が悪いようだ。疲れてはいないか?」と言えば、意識では「そんなことはない」否定しても潜在意識には一点の不安が投げ込まれる。これを繰り返せば次第に体調が悪くなることが容易に想像できるのではないだろうか。

反対に、例えば拝み屋さんに「あなたの病気は必ず治る」などと意識に繰り返し念押しされても、やはり潜在意識の見えざる抵抗が働き著効はあまり期待できない。

野口によれば人は悪しき暗示はすぐに受け入れるが、良いものは入りにくいのだという。言い方を変えれば病気になる方は簡単だが、一旦弱い方に傾いた心を良きに向かわせるには一定の技術がいるのだという。

プロ(整体指導者)はその技術を取得せねば仕事にならないが、これをプロだけの専売にしていたのでは万人の指導には到底追いつかない。

そこで有効な心の使い方を多くの人に指導する方法として「七夕」を利用していたようである。

とにかく「願いは必ず叶う」という前提で、では本当に自分が叶えたい願いとは何かということを深く掘り下げていく。

ここを真面目に追及していくと、自身の本当の願いを掘り当てることの難しさが多少なりとも実感できると思う。

そして「これ」というものに定まったら、冒頭でも言ったようにそれを氣を集めて書く。そして口でも言う。

これは個人的感覚なのだが「氣を集める」といった場合は普段全身に散らばって、一定のリズムで集散を繰り返している「氣」を一つにまとめ上げるイメージである。

太陽光線を凸レンズで集めて紙を燃すように、集中した氣が筆先からほとばしり出るようにして短冊に写していく。

こういうのは観念の遊戯かも知れないが、どのようなイメージでもいいから澄んだ心で真剣に願うと、時間の長短はあれどその願いはやがて叶う。

私もちゃんと書いたことは2、3回しか思い出せないが、過去の思い出せる限りの願い事は叶ってきたからこの方法には信を置いている。

さて、ここでさらに願いを叶えるべく整体流の大切な言い回しがある。

それは「〇〇しますように、…なりますように」とは書かずに、「〇〇になる」と末尾を確信的に結ぶことである。

「しますように」というのは今はそうでないという現実認識の念押し、そして、どうもそうはならなそうだという空想を育ててしまうのだという。心も体も考えたことより空想の方に引っ張られやすいため、願いの成就は遠ざかる。

そこで文末を「〇〇をする、になる」と結ぶことで、それがそうなって当たり前、当然という向きに潜在意識が動き出す。

ここで先ほどの手綱と馬の関係を思い出して欲しい。潜在意識(馬)が歩き始めたら、そこではじめて意識(手綱)の統制力が発揮されるようになる。

つまり手練れの騎手は先ず馬の行動意欲を導き出して、それから手先でリードする。現代医療や教育現場ではこの「馬を動かす」という重要な最初のプロセスを抜きにして、静止した馬をぐいぐいひっぱって目的地へ連れていこうとしているようなパターンが散見される。

単純に考えれば馬の巨体を人間の細腕で引っ張れるわけがない。こうした意識と無意識、潜在意識の拮抗状態を「努力」という。

これはエンジンが止まってなおかつサイドブレーキまでかかっている車を、ドライバーが汗まみれになってハンドルを握りながら、押したり引いたりしているようなものである。

やっている当人は大きな手ごたえを感じるかもしれないが、流した汗に比して走行距離は貧しい。これは難病と診断された人が闘病などと称して自分の広大なこころにわずかな意識の力だけで挑んでいる構図とも同じである。

そうではなく、潜在意識内の余分な想念や、無用な観念が払しょくすること、あるいはその観念の向きを修正することが肝要なのだ。こころの内の衝突や摩擦が解消されれば、生命の自然な流れに則して物事はさらさらと流れていく。

昨今では論語の意訳として「努力は夢中に勝てない」といったフレーズが流行っているようだが、我が国の旧弊とも言える努力礼賛がここへきてようやく見直されはじめたとも言えそうである。

まあともかく、こころの力をどうすれば動員できるか、という角度から見ていくと昔の人はその使い方をよく心得ていたことがわかり感心する。

さてこのような理屈めいたことを並べ立てても、やはり「願ったことが叶う」などということが信じきれない人もいると思う。

こういう人を「常識の豊かな人」というべきだが、それもまた「自分の願いなど叶わない」という潜在観念が現実化していると考えられないだろうか。

ともあれこころには果たしてそういう力があるのかどうか、それは客観性だけでは図れない。自分でやってみなければわからないのである。

普段は目の前の現実と忙しく向き合い、心も体も手一杯の生活をしてるような方でも、心を静かにすると普段は気づかない自分の知らないこころに触れられると思う。

体は有限だがその体に宿るいのちとこころは悠久の過去から未来へ、無限に連なっている。

意識が閊えたら、意識を閉じて無意識に聞く。そうすれば道は自ずから拓かれるのだと野口は言う。

七夕という形式を通して人間の心の構造を教え諭し、人を良きに導こうとした先人の心に、この機に一度触れてみてはいかがだろうか。

活元会 2017.12.14:意識以前の心の育て方

12月14日の活元会では野口晴哉著『潜在意識教育』全生社 を資料に座学を行ないました。(以下資料より抜粋)

…親は子供をよりよく育てるとかで、自分の理想を托したり、自分に都合のよいようなことを上手に押しつけたりしてそれを教育だと言うが、子供の方は教育の必要を感じていないばかりか、植木や盆栽みたいに親の勝手な形に整えられることは迷惑である。それ故中には反感を抱き反対の方向へ走る要求すら持つようになる。それが実現できなければ、反抗として他のいろいろのことに逆らうことが生じ、時にその実現の衝動に駆られることさえある。だから教育熱心な親の子供ほどそういうようになることが多いのは、心の生理的現象といっても差支えないことである。お互いに選べない、選りどれないという宿命のためである。どちらの罪でもない。それ故教育の専門家でない私が教育のことを語るのである。選べない、選りどれないその宿命の中で楽しく生くる道を見つける方法として、意識以前の心の在り方や方向を教育する方法を考えようというのである。

私は四十数年に亘る指導ということの経験から、同じような教育を受けながらみな異なったことを考えたりするのは、教育を受け入れる意識以前の心の方向によるのであり、人間は意識で考えているようには行えず、咄嗟の際に本当のことがヒョッコリ出てしまうのは、意識以前の心によって為されるからであるということを知っている。そこで教育ということを、意識以前の心の在り方を方向づける方法として筋道をつけたいと思って、整体協会の本部道場に「潜在意識教育法講座」を設け、語ったことを記録したのがこの書である。同志の人を得れば幸せと思う。 昭和四十一年十二月(前掲書「序」より pp.3-4 太字は引用者)

ここでは親子関係の問題が焦点になっていますが、この『潜在意識教育』の中にはこうした家庭内での人間関係論のみならず、人が病気になったり、またその病気が自然に治っていくという動きの根本にも意識以前の心の在り方ということが密接にかかわっている、ということが綴られています。

最近ではこのような潜在意識関連の情報が少しずつ一般化しているようですが、この本が出版された昭和30年、40年といった時期に、「意識以前の教育法を講義していた」ということはかなり前衛的だったと思われます。

さて、改めて人間の体の健全さということを考えたときに、どうしてもその人の心の在り方という問題にぶつかることになります。

現在のような体になるのにどのような心の状態があったのか、そしてその心はどのような経緯で形成されたのか、ということをずっと辿っていくと必ず胎教までを含めた「成育歴」が深くかかわっている、ということがわかるのです。

ここまでは多くの臨床家が比較的早い段階で辿り着く結論ですが、そういう成育歴、平たく言えば「生まれや育ち」というものからくる現在への影響をいかにして作り変えていくか、ということになるとこれは非常にむずかしい面があります。

同じような心のクセからくる悩みでも比較的容易に解消できる問題もあれば、解消するまでに3年、5年、ときには10年以上かかるようなものもあるわけです。

そもそも人間の心というのは外部からの刺激によってたえず変性していくものですが、例えばカウンセリング(対話精神療法)ならば主に言語(話す・聴く)による刺戟を主体に治療を進めていきます。

整体法の場合はというと、一般には身体の刺戟(触覚)がメインあろうと思われがちですが、実際はやはり「言葉」も同じくらい重要なのです。

その方法はといえば意識ではなく意識以前、とか無意識などと呼ばれる沈潜化した心の領域にはたらきかけるように語りかける、と

説明するとこのようなことになりますが、これを実地で行なうとなると相当な勘と豊かな経験が要求されるわけです。

ところが家庭においては「お母さん」という立場の人ははじめから子どもたちに対する影響力がとてもつよいのです。なのにこういう心の構造などよく知らないまま「お母さん」になってしまうのだから親も子もお互いにいろいろ悩むことが出てくるのは必然だと思います。

この問題は本当にどちらが悪いということではないだけに(一見して「親が悪い」という風にみえがちですが…)、改めてこういう心と体のつながりや心の深層部の動きについて勉強する場が必要であろうと考えられた、ということですね。

ユング派の治療者などは心を勉強するにはまず何を置いても、自分の心を知ることからはじめます。そうすることで人間の「心」というものがどれくらい「わからない」ものかということがだんだんとわかります。ここがまずスタート地点です。

せい氣院の活元会は座学と活元運動の実習を通じて、みなさんがそれぞれのペースで自分の身体を通じて心の在り方を探求していける場になれば、と思っています。

今年は次回12月22日(土)で最後です

7月 活元会と野口整体の勉強会のお知らせ

7月の活元運動の教室は下記の日程で行います。

また、今月は第四週日曜日(7/23)の午後に、野口整体をもう少し深く学ぶための座談会(修養会)も行います。

■日程

○7/9 (日)9:45-12:15 座学・活元会

○7/13(木)9:45-12:15 座学・活元会

○7/23(日)9:45-12:15 座学・活元会

○7/23(日)12:30-14:00 修養会(野口整体を学ぶ座談会)

○7/27(木)9:45-12:15 座学・活元会

■内容

○活元会 脊髄行気(瞑想)・座学(教材の素読・音読)・活元運動の実習

○修養会 野口先生の「潜在意識教育」と中国の古典「老荘思想」を主な題材とし、整体を実生活に応用して活かすための勉強会

■参加費

各会ごとに2,000円

※7/23の午前(活元会)と午後(修養会)の両方にご参加の場合は3,000円

■その他のご案内

服装は白系の落ち着いたものが適しています(色柄可です)。サイズはお腹を締め付けないゆったりとしたものをご用意ください。

今月は途中参加・退出可とします(事前にお申し出ください)。

■初めての方へ

いずれも「整体という生き方」を学ぶための実践の会です(初心者でも無理なく始められる内容です)。

ご参加を希望される方は前々日までにメールフォームにてお申し込みください。

※最近初心の方からのメールにおいて「記入もれ」が多くなっています。またホームページ、ブログをほとんど読まずにお申し込みされる方もいますが、当院が公開している情報は取得しているものとして進行します。限られた時間内での実習となりますので、よくよくお心得の上ご参加くださいますようお願いいたします。

鎧化する身体

アレクサンダー・ローウェンの記事を読まれた方からご質問をいただいた。鎧化した身体という表現について実際に「どのような状態なのか」とのことであった。実は以前にも同様の問い合わせがあったのだが、表現が独特なので気になられるのかもしれない。元を明かせば「アーマリング」の日本語訳である。平たく言えば慢性肩こりもその一例だ。

改めて『引き裂かれた心と体ー身体の背信』を読み返してみると、整体指導の目的と核心を同じくしていることが伺える。全文を取り上げたいくらいなのだが、心療内科の創始者 池見酉次郎氏による本書紹介文「はじめに」の項目だけでも身心が癒えるためのプロセスがよく理解できるので、抑うつ傾向などで悩まれる方にはおすすめしたい。

整体では「治癒」の本質を「敏感な身体を育てる」と表現し、ローエンのセラピーによれば「自我と切り離された身体(≒感情)を再び自我に取り込むプロセス」となる。

もう少し簡略にすると「身体感覚の再建」であり、そこからの「身心一如・自他一如の自覚」である。池見氏は他の著書において「体を通して心に至る東洋的行法」をすすめ、その精髄の一つとして禅を挙げている。禅寺で坐禅と並行して修行される「作務」などはいわゆるグラウンディングに通じるもので、肉体を善用し、積極的に現実にふれていくことで〔今〕という絶対感覚を色濃く養っていくのである。

ローウェンは「人は自分の体を感じることを、とても恐れている」ということを繰り返し強調する。多くの人は硬直した筋肉が抑圧された感情の倉庫であるということを無意識的に感じているために、その倉庫の扉が開かないように意識の光によって固く施錠しているのだ。だから心が癒えていくためには一旦意識の運転を停め、身体を徐々にゆるめつつ自分が無意識層に抑えてきた感情達と一つひとつ出会っていく作業に最終的に突き当たる。

しかしこの作業の難渋さに気づいた時点で、あまりの大変にやめてしまう例も少なくない。感情を浮かび揚がらせながら自身を癒し成長するという道を中断して、また元の硬直した身体とこれまで通りの生活に立ち返ってしまうのである。こんな風に「治る」という動きは苦しさを伴う。一般にセラピストと言う仕事はこの大変な心的エネルギーを要する仕事をクライアントと一緒に取り組んでいく役割を担うものである。

ところで心理療法のカウンセリングが対話を主体とし、またフォーカシングなども主にクライエントの内側で行われる心の作業であるのに対して、ローウェンのバイオエナジェティクスや野口整体の整体操法は身体(および気)を媒体とする所がその特徴である。これはライヒによって提唱された、「人間に対峙するには身心相即的に相対しなければならない」という原理に通じているものだ。

本来やわらかいはずの筋肉を硬直させていくのは、主に対人関係の緊張である。しかしその硬直し鎧化した身体を再び融かしていくのもまた人の心なのである。今の身心の有りようをそのまま受けとられることで、はじめてゆるむ動きが出てくるのだ。しかしこれは徐々に行われることが望ましい。凍傷の治療に似て、急激な温度差は激痛を伴うばかりが、逆に身体を壊しかねないからである。

硬化した範囲と度合によって治癒に要する期間はまちまちだが、この道程を踏まずして身心の全体性を回復することはなし得ないのではないか。畢竟自分で自分の心の深層を明らかにするということだけが真の治癒に至るための根本原理である。このことに気づき、心の準備が出来たときからはじめて治りはじめる。これはまさしく啐啄同時で、機が熟す時に何処からともなく何もしなくてもそうなってしまう。まさしく生命の「妙」である。

時に啐啄というと雛が孵るその瞬間だけに注意が集まりがちだが、それまで親鳥がじっと気を集めて待ち続けたプロセスは見逃せない。クライアントとカウンセラー、患者と治療者、どちらか一方の力で治る訳ではない。気を集め、心の全体を動員して力を尽くすことはお互いの生命に対する礼として弁えたいところでもある。

裡の自律性 躾は必要か

以下は、昨日の活元会で使用した資料です。

躾は必要か

この間広島へ講習に行った時、その講習中に若い人達の座談会が行われた。その座談会の録音テープを昨日聞いてみたら、共通してみんなの心配していることは、人間を自由に放り出しておいたら始末におえないものになってしまうのではなかろうか、人間にはどうしても躾ということが必要なのではなかろうか、第一、食事でも自分の食べたい時に食べるようにしたら家中バラバラになって困る、みんながやりたいことをやり出したら統制がとれなくなって困るだろうというようなことから、子供を叱らなかったら悪いところだけ伸びてゆくというような心配まで出ていた。出席者の中には学校の先生も大分おられ、家庭のお母さん方ならそういう考え方をしてもしようがないが、人の子供を預かって心を導こうとする人達がそれくらい人間の心に無理解な態度を示すということは、私は考えてもいなかった。

私達は別に誰に習わなくても、心臓は一分間に七十八の脈を打ち、体温は三十六度五分を保っている。そういう自然の規律を、体は意識しないうちに守っている。大脳の細胞の並び方から、食べるとそれを消化して体が必要とする部分に栄養を運ぶことに至るまでそうである。栄養をたくさんにとれば、それがみんな栄養として吸収されるかというと、体は余分なものは捨ててしまう。そうして自然のバランスを保とうとする。

体は非常に緻密で、繊細な統制のもとに行われているが、その体のはたらきの現れとして心があるということを忘れているのではなかろうか。煙だって気流に対し気圧に対して一定の動きがあって、それ以外に乱れるということはない。風に逆らって風上に流れてゆくことがないように、自然律の現れである以上、心にも統制があり宇宙全体としての調和を保っているのである。人間自体、そういう調和を保つための自律的な統制の上に息をしているのである。

人間の心というものは本来自由なもので、圧迫すればそれに対してどうかして自由であろうとする余分な反発が起こるが、やはり自由な本来の方向に向かって進んでゆく。川水を堰止めれば安全だと、ダムなどをつくって安心していると洪水になることがあるように、余分な堰止めをしなければ水は自然に流れてゆく。心も同じで、堰止めたとしても流れてゆく、あらゆる隙間から流れてゆく。だから心が自由に流れるという裏には、そういう規律正しい体の動きがあるということで、その反映として心が動くものである以上、そこに自然の規律、自然の統制が常に行われていることを見逃せない。

だから食べたい時に食べたとしても、みんなのお腹の空く時間はそうは違わない。もし何時に食べたければならないと決めておくことがなかったならば、その日の温度、湿度、気圧に従がって、みんなのお腹の空く時間ははなはだしくは違わない。自然に統制されてゆく。食べたものがご馳走だったかそうでなかったとか、みんなで非常に忙しい思いをしたかどうかどか、頭の疲れ具合とかで自然に調整されて、食べたくなる時間はそう違わない。食べ遅れた人は、人の食べているのを見ると途端にお腹が空いてくる。そういう規律から外れるということは非常に少ない。ところが何時に食べなくてはならないと決めておくために、自由に食べるということはわざわざその時間を外すことなんだと、まず考える。そう考えることが体に実現してくるだけで、はじめから何時に食べなくてはならないということがなかったならば、そういう何時に食べるということに対する反抗が、自由という名を借りて現れる理由がない。やはり同じにお腹がすく。だから空腹になったら食べるということが、何か非常の生活の混乱を増すように考えられているが、おそらくそういうことはない。あるとすれば、何時に食べなくてはならないという、“ならない”という規則に対する反抗である。水の流れは堰止めると、その時は従がっても、その勢いがだんだん増していって、それを乗り越え、隙間からでも溢れてゆく。堰止めることさえしなければ、水はその流れに従って淀みなく流れる流れる。だからもし心が反動を持ち、反抗を持ち、人に迷惑をかけ、自分の体を壊すようなことがあったとしたら、それはこうしなければならないという規則をつくった、或いは何とか抑えようとした、そういうことに対する反動であって、本来は人間は自由のものである。

私は新潟県に疎開していた時に、日本が敗けたというニュースを聞いた。そうして特高警察が解体になった。これはアメリカに敗けたからなんだと頭では思いながら、何か体の中が軽くなった。どこかでホッとしている。話し合ってみると、ホッとした感じがみんな共通している。人間の体と心の中には、そういったように自由を欲する分子が本来ある。それを抑えれば反動が生ずる。その反動は何だろうかというと、それが放縦というものである。人の迷惑なんか考えないで何でもやる。子供がお隣の柿が美味しそうだったから取って食べた。これは統制をしないからだというように考えるが、統制をしないからではない。統制したために、それに対する反抗の表現として、抑えられた反動がやりたいところに溢れただけで、川は堰止めさえしなければ、川筋以外のところを外れないように流れ、放縦に走ることはない。堰止めたために横に流れてゆく。洪水が出たのは堰止めるものがあったからである。叱言を言い、いろいろの行為を抑制して、躾たと思っていると、それは洪水を招くことになりかねない。(野口晴哉著『潜在意識教育』全生社 pp.55-58)

人間の心の構造、中でも反発や反抗心について触れられています。ここにありますように、人の潜在意識は「右に行くな、左に行け」と言われると、途端に「右に行きたくなる」というような習性があります。ところが自分から「左に行きたい」と空想するように導いておいて、最後に「実は左に行くとちょっと困るんだけどね・・」と僅かに抵抗をかけると、そちらにざーっと動いていってしまう。おしるこを甘くしておいて、最後にちょっと塩を聞かせるようなことをするのと同じです。整体「指導」と言った場合にはこういう技術が自在に使えないと技としては生きません。

ときどき「自分は生まれつき体が弱い」と思っているような人もいますが、人間も含めて動物は弱いのは生まれてこないのです。受胎して、尚且つお腹の中で成熟して生まれてきた、ということはそういう生き物としての丈夫さがあるのですけれど、人間の場合は生まれてからうっかり「弱いと思い込む」ようなこともあるのですね。最初に無かったものを、どこかでそう思わされたのです。そういう人に、「あなたは強いんですよ」といくらいっても自分が弱いせいで励まされたような気がするだけで、はじめに「弱い」と思たことは打ち消せない。それよりも、自分から「自分は丈夫だ」と空想してしまうような方向で刺戟を与えると、心も体も同時にすっと変わってきます。

最初にこれさえ出来てしまえば、不整脈でも、胃弱でも、逆子でも、何でも正常な方へ動いていってしまう。精緻な心の誘導ということです。誘導が正確に行われるためには、その構造を先ず知らなければなりません。ですけれども、そういう人間を方向付けることが仕事の中心である「親」とか「教育者」において、その出発点として人間の感受性や心の構造を知らないから問題が尽きないのではないでしょうか。身体の生理的働きを起点として、そこから生まれる精神の動きを観察しなければ、真に丈夫な人間は育てられないでしょう。こういうところが本当に見直される必要性を感じます。少なくとも「教育=知識の詰め込み」と考えられている間は、掛け違えた最後のボタンは止められません。

どこから間違えたのかわかりませんが、少なくとも理屈と強制では動かせないというごく基本的なことが、先ずもって多くの方に理解されるべきでしょう。知識を増やすだけの教育や、心のみを切り出して扱う心理学ではなく、身体の生理的働きの理解を含めた潜在識教育の必要性をもっと知っていただきたいと思っています。

学ぶ力 要求する力

野口 人間が生きているというのは、自分の裡の力で生きているんです。健康を保つのも自分の力、人に治して貰っているように見えても自分の力、だからその一番最終に、丈夫に生きたい要求がなければ丈夫にならないんです。自分の感じた要求を実現しようとしている時は、体の中に力が入っているんです。

中川 そう、そういう風にして僕なんかも勉強してきましたね。僕はもう、教わったということないんです。学校に行って教わったり、先生について教わったことがないんです。教わるということは、目を塞がれちゃうんですよ、下手な教わり方したら。自分の要求でもって、人から取ることがあれば取ればいい。人から与えられていたんじゃ駄目なんです。こっちから取ればいいんです。そういう考えでやってきたのはよかったと思うんです。(『月刊全生 増刊号』 中川一政×野口晴哉 対談より)

いま一歳半の子供の活動をみながら、人間の「学び」に因んでつらつら書いています。昔から「まねる」、「まねぶ」、「まなぶ」と言い替えたりします。だから学びの根本は「模倣」なんですね。だから、最初に自分が「どうありたいか」という方向性のもとに、「必要なモノ」だけを身に付けて行けばいいと思うのです。要らないものまで、「あれもいるかもしれない」、「これもあったほうがいい」、とやっていくとだんだん「自分」が重たくなってくる。それは不安から出発して持ち物を増やしているだけで、無駄な重量でしょうから。また、他人の老婆心でいろいろ教えられることも多いから、「これは何のためにやっているのか」、「どこで役に立つのか」、という感受性がくもらないように気を付けなければならないでしょうね。

それこそ現代型の教育で「目を塞がれて」しまって、それからから学ぼうとするとどうしても与えられたものを鵜呑みにしてしまったり、今現実に困っているのに誰かが教えてくれるまで待ってしまったり、そういう受け身の学びになってしまう。最初に自発性を削がれてしまうと、やっぱり自然の力として伸びていく「勢い」を失ってしまうのかもしれない。

そうすると、学びや教育の「要」というのは如何に潜在的な自発性を煥発できるか、ということになるのでしょうか。人間ですから、誰でも最初に要求があるんです。必ず。それが良いとか悪いとかって言うのは、その後の持っていきようでどうにでもなるんです。また、「要求」そのものは教われません。ただし自然に要求が現れる「身体性」を育てていくのは、ある面で他動的にやれなくもない。整体指導というのは本来、個人の要求の発動、実現のためだけに行うもの、といっていいのでしょう。

やはり整体の仕事をしていてやりずらいなと思うのは、「何に向かって全力発揮したらいいのかがわからない人」です。だから要求が現れる身体というのをまず考える必要があるのでしょうね。脱力して、頭もゆるめば、「狭い合理性」から自由になったその人本来の感受性が出て来ますから。そちらの方がしっかりしてくれば「元気」とか、「体力」というのは、もうどうにでもなるとも言えなくもない。だからそちらの方をもっと研鑚していく必要があるのでしょう。こうやって考えていくと、ますます「治療」なんていらないんじゃないかと思うんですね。

良寛さんにみる潜在意識教育

今日は潜在意識教育に因んで、良寛和尚の逸話から考えてみようと思います。その前に「良寛さんて誰?」ということもあると思いますので、そちらの説明を先に少し。

良寛和尚は江戸時代後期のお坊さんです。もともとは庄屋の跡取りになる予定だったのですがこれを辞して、厳しい僧侶の道に入って修行をされたそうです。晩年はやさしい和尚さんとしてとくに子供たちに慕われ、日が暮れるまでかくれんぼをしたり手まりで遊ぶこともあったと言われています。

その良寛さんが、あるとき弟の長男(甥)の放蕩を正して欲しいと頼まれた際に、本当に「自然」な方法でそれを行ったというエピソードがありますので、この話を引いてみましょう。

佐渡を望む出雲崎の生家は弟の由之が継いでいましたが、その長男(良寛の甥)の馬之助は大変な放蕩息子で、思い余った由之の妻、安子は、良寛さんに「馬之助に厳しいお諭しを」と頼み込みました。

安子の願いを引き受けた良寛さん、久しぶりに生家を訪れました。その夜、和尚を交えて久々の家族団欒となりました。次の日も次の日も馬之助も伯父(良寛)と酒を酌み交わし托鉢や子供達の話に花が咲きましたが、弟夫婦が期待していた肝心のご意見は一言もありません。

四日目の朝「やっかいになったな、それではおいとましますわ」

呆気にとられている由之夫婦を尻目に、玄関の上り段に足をおろし、「すまんがこの紐を結んでくれんかのう」老僧が腰を屈めるのに難渋している姿を見ていた馬之助は、「ハイ」と一言のもとにとび降り、良寛さんの足元にかがみ込み、良寛さんの細い足首に草鞋の紐を結び終えようとする時、馬之助は首筋に熱いものを感じました。驚いて顔を上げると、良寛さんの目に涙が一杯たまっています。

「ありがとう」ひとこと礼を言って、良寛さんは生家の玄関を出て行きました。不思議なことに馬之助の放蕩は、その日を限りぷっつりと止んだそうです。(『井上義衍提唱語録 併般若心経講説』より)

はい、心情的にはよく解る話ですね。ですけれどもこんなことが本当にあるのかというと、あり得るけれどむずかしいだろうなとも思う。やっぱり修行というのはこういう力を生むのかな、とも思います。

昨日まで、「人間は変われるのか」を書いてきましたが、河合隼雄さんの見解もお借りして、「とにかくガラ!っとは変わらないけど、でもやっぱり変わっていく。」そんな話でした。

今日の話はそれとは真逆のような逸話です。

あることをきっかけに心象がぐーっと変わってしまう。人間にはこういうこともやっぱりありますね。多くの場合は「偶発的」に起こるけれど、整体指導ということになるとこれを「必然的」に引き起こすのが職能的な「技」ということになると思います。おそらくこれに近い職業として「コーチング」などが少し共通しているかもしれませんけど。それでも整体ではこれが百発百中であることが求められるんですね。感情の基本的な性質や方向性がわかれば、ある程度の所まではできると思いますが・・。

野口先生の言葉には「心の角度をフッと変えると、人間はその全部が変わってくる」というものがあります。さらに、「相手に押しつけてはならない、相手自身が自発的に、自分の考えで行動するようにしむけることだ」と、こういう風に説かれています。一般に躾や努力で矯正的にやっていることは、どうしても反対の要求や空想を生むようになっていますから。強く押さえれば押さえるほど、圧縮されたエネルギーは噴出の場を探すようになってしまう。噴出されないものは、自分を中から「壊す」働き(病気)に変性するものもあります。

ですから、そういった方向ではなく相手の「中身」がさっと変わってしまう方が、お互いに心理的な負担がないのですね。教育や躾の現場ではありがちですが、最初に「悪い」ところを掴まえたうえで「良くしよう」とすると相手は自分の根本に「悪い」があると空想してしまう。元々人間の中には善も悪もないのですけれど、「ちゃんとしようね」という言葉を聞くと、やはり自分の中にだらしのないものを連想してしまう。

良寛さんの例では、相手の悪態を対象にしなかったことが一番の功徳になったということになるのでしょうか。「善悪を思わず、是非をかんすることなかれ」という禅的な態度は、人に最初に具わっている「天心」という心、生命の無為的な「秩序」へと向かわせるのかもしれない。これはまた「相手に対する無条件の肯定的関心」を説いたカール・ロジャースの来談者中心主義も彷彿とさせます。

ただしこれが、いわゆる指導する側の「テクニック」のようなものでないことは明らかです。人を良きに導くということは、自分自身の潜在意識が簡潔になっていないと、他者の中に清浄な力があることが信じられない、という事がここで出てくるわけですね。実は良寛さん自身が出家をされる前は、名家の跡取りとして教育を受けるかたわら遊蕩にふけったこともあったと言われています。ですからそういう所を自分自身で越えてきた力が、無暗に人を処罰しないような寛容さをもたらすのかもしれません。

ですからとにかく丁寧に自分の心に取り組んだということが、結果的に人を癒す力を生んだと言っていいと思うのです。宗教家の仕事としてよく「世界平和」を求められる節がありますが、最終的には自分を修め、後に他者も治め、ということに落ち着くのかもしれません。整体を行っていると、つい「相手の問題」に取り組む方へ流れやすいのですが、「潜在意識教育」といったときに一体「誰が、誰を」教育するのか、という所はよく考える必要があるのですね。それでは今日はこの辺で。

人は変われる(続き)

今日も河合隼雄さんの『心理療法序説』の続きです。

ただ、ここで注意を要することは、成長の過程ということを、一直線の段階的進歩のイメージのみで把握してはならない、ということである。成長を一直線の過程として見ることはわかりやすい。自分はどこまできていて、それに比して誰はどのあたりであるのか、などと考える。それはともすると到達点の設定ということまで考えることになり、「到達した人」に対する限りない尊敬心を誘発したりする。時には「自己実現した」人などという表現に接して、驚いてしまう。ユングが個性化の過程として、過程であることを強調するのは、そこに「完了」ということはあり得ないと考えるからではなかろうか。

もちろん、成長の過程を、一直線のイメージで描くことは可能であり、それはある程度必要ではある。しかし、それがすべてと思うと、とんでもない誤りを犯すことになる。人間の成長は考える際に、直線のイメージだけではなく、円のイメージで把握することも大切だ。すべてははじめから、全体としてあり、成長するということは、その全き円をめぐることで、言うなれば同じことの繰り返しであったり、、どこまでゆくやらわからなかったり、しかし、全き円の「様相」はそのときどきに変化してゆく。それは成長というより成熟という言葉で考える方がぴったりかも知れない過程である。

一直線の成長イメージで人を見るとき、人間は直線状に配列され、上・下関係が明らかになる。治療者はクライエントよりも高い到達点にいて、後からくる人を指導する。果たしてそうだろうか。遊戯療法の過程で、われわれは子どもから教えられることがある。子どもの知恵がこちらよりはるかにまさっていることを実感することもある。心理療法家というのは、相手から学ぶことによって、相手の成長に貢献していることがよくある。このことは、単純な直線の成長モデルによっては理解し難い現象である。そして、そのような、ことに心が開かれていることが、心理療法家には必要なのである。(『心理療法序説』 岩波書店 pp.283-284)

さて、「人間は果たして、変われるのか、成長できるのか?」という命題を考えています。例えば「適応障害」といわれる疾患(心の病)があります。これを解消するには、「適応」するのが難しい「環境」の方を変えるか、適応できない現在の「自我意識」が変わるのか、といういずれかの対応になると思います(投薬などを除けば)。そして後者の方法からは、「成長しよう」という心の方向性が見えてきます。

では「成長」って何?というと、ここが大事な所で「こうなったら良いのだ」という雛型がないのが心の問題の多様性に繋がっていると思うのです。明らかな「スタート地点」があって、そこから「ゴール」に近づいて行くだけなら比較的カンタンなのです。それは迷いようがない「直線的」な世界ですから。あっちにいけばいい、という。。ところが生きている人間の実相というのはそんな風にはなっていないですね。いつだって〔今〕の自分は完成している。完成しているんだけど、次の瞬間にはもう、あれ程完璧だった自我意識はもう変わってしまう。

例えば小学生の頃の時の自我というのは、確かにあったと言えます。だけど現在同じものを出すことはできない。では何時消えたのかというと、「あの時」という境目がない訳です。過去・現在・未来がずっとつづき通しの〔今〕に生きている。〔今〕は完璧なんだけど、それが絶えず変化している。「完成」と「過程」という、2つ並べると矛盾するようなものが、一つの矛盾もなく併置されているのが〔今〕の心です。

ここで、禅の『臨済録』に出てくる公案、「途中に在って家舎を離れず」というところを思い浮かべます。〔今〕というのはみんな行の途中なんです。途中なんだけれども、一つも「家」から離れない。スタートもない、ゴールもない、向かって行くような目的地がない。ところがそれが次々と相を変えて、一つも後を残さない(無相の相)。邪魔にもならない。そういう切り離された自在性がずっと今の心、ということですね。

そのように考えると引用文の、「人間の成長は考える際に、直線のイメージだけではなく、円のイメージで把握することも大切だ。…」から始まるところが、すらすらと肯えると思います。「変わって、変わらず」、そして「教えていることで、教えられる」という。心の中には、白とか黒とか、そんなはっきりとした「一線」はないんですね。だからそこがいいと言えばいい。整体指導も心理療法もそういう心の自由性と不安定さの間で仕事をしているという気もします。

引用の最後に、「心理療法家というのは、相手から学ぶことによって、相手の成長に貢献していることがよくある。このことは、単純な直線の成長モデルによっては理解し難い現象である。そして、そのような、ことに心が開かれていることが、心理療法家には必要なのである。」と、書かれています。だから単純に、上位の立場にたって、相手を「こちらからあちらに導けばいい」という、二元的な方向性で行なう訳ではないということです。一つ言えることは、とにかく心には「良い方へ、良い方へ」という「向き」はあると思って良いのでしょう。整体指導でも、それがあるからお互いに大変だなと思いながらも「手伝って」いけると思うんです。理論的な落とし所が見つかったので、また実践に戻ろう。河合さんの『心理療法序説』はもうちょっと続くかもしれません。今日はこの辺で。

人は変われる

昨日さらっと取り扱ってしまったけど、「人間は変われるのか」という話は心理療法の急所だった。整体の潜在意識教育でも、「人格の変容・成長」はその人が本当の意味で「治るか治らないか」をわける分岐になる所でもある。今日はまずいろいろしゃべる前に、河合隼雄さんの『心理療法序説』から引用してみます。

4 心理療法家の成長

心理療法を行なう上で、もっとも重要なのは「人間」としての治療者である。従がって、治療者は常に自分の成長ということを心に留めておかねばならないし、またそのようなことを考えざるを得ないように、クライエントがし向けてくれる、と言っていいだろう。クライエントは心理療法家にとっての教師である。

治療者の人間としての在り方といっても、いわゆる「人格高潔」などという理想像を掲げるつもりはない。しかし、ユングの言っている「個性化の過程」ということは参考になるだろう。まず、この世に生きてゆくために必要な強さをもつ自我をつくりあげ、その自我が自分の無意識に対して開かれており、自我と無意識との対決と相互作用を通じて、自分の意識を拡大・強化してゆく。無意識の創造性に身をゆだねつつ生きることは、相当な苦しみを伴うものであるが、それを回避せずに生きるのである。このことをクライエントに期待するのなら、治療者自身がその道を歩んでいなくては話にならない。(『心理療法序説』 岩波書店 p.282)

この先にいくと、心の成長や自己実現の実際について書かれています。長くなるのでそれはまた明日以降に引くことにして、この文脈から言えることはまず「人間は変わる(成長する)」可能性を内在させているということですね。「何をもって成長か」と考えると一言では括るのがむずかしいけれども、この場合は「自我と無意識との対決と相互作用を通じて、自分の意識を拡大・強化してゆく」過程を指す訳です。まちょっとむずかしいので分解してみます。

「自我」というのは生まれてから(あるいは受胎前から)〔今〕までに作られた、かつての環境に適合する意識のことを指します。「無意識」というのはそういう表層的な意識ではなくずっと奥に隠れたようになっていて、全き人格へと向かう要求を備えているものですね。簡単に言うと「成長したい」、とか「もっと良い人格になって存分に生きたい」という意欲の水源みたいなものでしょうか。

ただ考えてみると、人間の活動を広く見渡した時に、成長欲求とか、自己実現の要求を伴っていないものはないと思います。と言うことは、人格の変化というのは「整体指導」とか、「心理療法」とかいう限られた場所だけで行われる「特殊」なものではなくて、多くの方に日々展開されている「日常」の中で絶えず微量に繰り返されていると言っていいのかもしれません。

では「整体指導の役割って何?」というと、その「成長」を、他力を伴ってより積極的に主体性をもって行うということ、と言えるでしょう。整体のとっかかりとしては「病気」、というのが鍵になることが多いのだけど、この病気というのを西洋医療では「命を脅かす可能性をもった活動であり、人体上から速やかに排除すべきもの」としか見ない訳です(大まかに言えば)。ところが野口先生という方は「これは生命の全体性から見れば、むしろ積極的に平衡を保とうとする大切な働きである」と看破した。「病気が生命維持に貢献している」という、いわゆる「コペルニクス的転回」みたいなものですね。それも子供の直観的に、生命活動の真相を徹見した訳です。

そしてこれと同じ見方をユングもしていた。それもほぼ同時代のことです。河合さんは別の著書で「人が治るということは、本来しんどいことなんです。」と言っていますけど、つまりそれは病的な痛みとか、不快感にも広げてみることが出来る考え方です。痛いから、〔今〕治っている、ということですね。さらさらさらと横滑りで話の焦点がずれてしまったが、とにかく「人は変われる」、あるいは良くも悪くも「変わっていってしまう」、ずーっと同じなどとということはありえない、と。こういうところで一応の昨日の疑念に対する着地点までは来た気がする。ここから面白い話になるのだけど、今日は早めにパソコン閉じて休みます。つづきはまた明日。^^

変われるのか 変われないのか

最近の研究テーマというか「人間というのは結局変われるのか、変われないのか」ということを深く考えていた。野口整体の根幹は「潜在意識教育」で、これが抜けてしまうといくら技術で身体を整えてもまた戻ってしまうのだ。だから基本的には自我意識の変容、成長ということが伴わないと、仮に「治った」としてもまた元に戻ってしまう。

それではどの辺まで変わるのか?ということなのだが、当然自分自身の変化の幅でしか他者はリード出来ない。一般に言う「性分」とか「性格」、「気質」など表現は諸々あるとして、自分が整体指導を受けてきた経験からも言えるのだが、「自分で自分をこうだ」と無意識に思っていることはなかなか変わらない。逆に言えば自我がしょっちゅうコロッコロッと変わってしまうようでは、自他ともに社会生活全体がままならなくなるだろう。昨日まで知っていたAさんが、今日になったら全く違うAさんになっていた、というような事が横行したら個人にも公にもさまざまな支障が出る。だから自我というのは生来強固な造りになっていると言えばそうなのだろう。

だからといって、「変わらないのか」と諦めてしまえば心理療法も整体指導も成り立たない。そう言う観点から、「変わる」も「変わらい」もなく続けていると、やはり何かが違ってくるのも事実だろう。実はこの辺りの所は河合隼雄さんの著作からヒントを得ながら、ある時期から熱心に取り組んでいるのだが・・。「人間が少しでも変わるというのは大変な事なのです。」という氏の弁は、実体験から出てきた重みのある言葉だ。

人間は「変わらない」ということと「変わる」ということが両方矛盾なくあるというのが実態かもしれない。臨床ではそう思って見ていくとお互いにとって一番負担がないし、長期にわたって同じ人に粘り強く取り組める心構えにもなる。具体的な方法としては「待つ」という技術になる。治療の方法論で「何かする」ということは沢山あっても、ただ「一緒にいる」ということはなかなかやれない。実際のところ「何もしない」ということが、生命の成長要求を一番シンプルに発現させる方法という気もする。天心で行う愉気というのがその象徴かも知れない。

治療者が相手の「自我」というのを掴んでいるうちは、そこに執らわれてどうにもならないということがやっぱり出てくる。だからその「どうにかしよう」ということがなくなれば、元来自然の相というのは次々を変わっていくものだから、その力をそのまま使えるようになるのではなかろうか。そう言えばこの辺りのことは河合さんの『心理療法序説』という本の中に、「自然モデル」という表現で著されていた。また復習してみようかな。いつもながら書いていると、どこからともなく答えが出てくるから不思議だ。誰だか知らないけど、「無意識」はありがたい。