七夕

今年は久しぶりに七夕の願いごとを書こうと思っている。

整体では伝統的(?)に七夕をやる。七夕さまに願ったことは必ず叶うというのだから大変なイベントである。

ただし条件があって、「自分が本当に叶えたいもの」「心の底から願っていること」を氣を集めて短冊に書くのである。

そして書いたらそのことを忘れてしまうこと。これは実質的にはむずかしいと思うけれども、日常生活の中で願いごとを忘れている時間を長く持てばいい、というくらいに考えている。

ともすればメルヘンチックな話だが、これには心理学的にある種の合理性が認められるのだ。

ただし心理学という学問自体がいくつかの「学派」に分かれているなど、そもそも心理学自体の科学性や合理性をめぐっては理論的決着がついていない。

この辺りに言及するとこのブログには荷が重いため省くが、主にクーエの催眠療法やユング心理学の理論に寄ったものとして読んでいただくとよいように思う。

クーエによれば人間の心を意識とその他、つまり潜在意識や無意識に分けた場合、その人を実際に動かしていく力は潜在意識の方にあるのだという。

同氏はこれを馬車に例え、意識は手綱、そして潜在意識を馬としている。だとすると体は荷車といったところだろうか。

これを野口晴哉の場合は意識をハンドル、潜在意識をエンジンと言い換えたが意味する内容は同じである。

具体例を示すと、ある人に「なんだか今日は顔色が悪いようだ。疲れてはいないか?」と言えば、意識では「そんなことはない」否定しても潜在意識には一点の不安が投げ込まれる。これを繰り返せば次第に体調が悪くなることが容易に想像できるのではないだろうか。

反対に、例えば拝み屋さんに「あなたの病気は必ず治る」などと意識に繰り返し念押しされても、やはり潜在意識の見えざる抵抗が働き著効はあまり期待できない。

野口によれば人は悪しき暗示はすぐに受け入れるが、良いものは入りにくいのだという。言い方を変えれば病気になる方は簡単だが、一旦弱い方に傾いた心を良きに向かわせるには一定の技術がいるのだという。

プロ(整体指導者)はその技術を取得せねば仕事にならないが、これをプロだけの専売にしていたのでは万人の指導には到底追いつかない。

そこで有効な心の使い方を多くの人に指導する方法として「七夕」を利用していたようである。

とにかく「願いは必ず叶う」という前提で、では本当に自分が叶えたい願いとは何かということを深く掘り下げていく。

ここを真面目に追及していくと、自身の本当の願いを掘り当てることの難しさが多少なりとも実感できると思う。

そして「これ」というものに定まったら、冒頭でも言ったようにそれを氣を集めて書く。そして口でも言う。

これは個人的感覚なのだが「氣を集める」といった場合は普段全身に散らばって、一定のリズムで集散を繰り返している「氣」を一つにまとめ上げるイメージである。

太陽光線を凸レンズで集めて紙を燃すように、集中した氣が筆先からほとばしり出るようにして短冊に写していく。

こういうのは観念の遊戯かも知れないが、どのようなイメージでもいいから澄んだ心で真剣に願うと、時間の長短はあれどその願いはやがて叶う。

私もちゃんと書いたことは2、3回しか思い出せないが、過去の思い出せる限りの願い事は叶ってきたからこの方法には信を置いている。

さて、ここでさらに願いを叶えるべく整体流の大切な言い回しがある。

それは「〇〇しますように、…なりますように」とは書かずに、「〇〇になる」と末尾を確信的に結ぶことである。

「しますように」というのは今はそうでないという現実認識の念押し、そして、どうもそうはならなそうだという空想を育ててしまうのだという。心も体も考えたことより空想の方に引っ張られやすいため、願いの成就は遠ざかる。

そこで文末を「〇〇をする、になる」と結ぶことで、それがそうなって当たり前、当然という向きに潜在意識が動き出す。

ここで先ほどの手綱と馬の関係を思い出して欲しい。潜在意識(馬)が歩き始めたら、そこではじめて意識(手綱)の統制力が発揮されるようになる。

つまり手練れの騎手は先ず馬の行動意欲を導き出して、それから手先でリードする。現代医療や教育現場ではこの「馬を動かす」という重要な最初のプロセスを抜きにして、静止した馬をぐいぐいひっぱって目的地へ連れていこうとしているようなパターンが散見される。

単純に考えれば馬の巨体を人間の細腕で引っ張れるわけがない。こうした意識と無意識、潜在意識の拮抗状態を「努力」という。

これはエンジンが止まってなおかつサイドブレーキまでかかっている車を、ドライバーが汗まみれになってハンドルを握りながら、押したり引いたりしているようなものである。

やっている当人は大きな手ごたえを感じるかもしれないが、流した汗に比して走行距離は貧しい。これは難病と診断された人が闘病などと称して自分の広大なこころにわずかな意識の力だけで挑んでいる構図とも同じである。

そうではなく、潜在意識内の余分な想念や、無用な観念が払しょくすること、あるいはその観念の向きを修正することが肝要なのだ。こころの内の衝突や摩擦が解消されれば、生命の自然な流れに則して物事はさらさらと流れていく。

昨今では論語の意訳として「努力は夢中に勝てない」といったフレーズが流行っているようだが、我が国の旧弊とも言える努力礼賛がここへきてようやく見直されはじめたとも言えそうである。

まあともかく、こころの力をどうすれば動員できるか、という角度から見ていくと昔の人はその使い方をよく心得ていたことがわかり感心する。

さてこのような理屈めいたことを並べ立てても、やはり「願ったことが叶う」などということが信じきれない人もいると思う。

こういう人を「常識の豊かな人」というべきだが、それもまた「自分の願いなど叶わない」という潜在観念が現実化していると考えられないだろうか。

ともあれこころには果たしてそういう力があるのかどうか、それは客観性だけでは図れない。自分でやってみなければわからないのである。

普段は目の前の現実と忙しく向き合い、心も体も手一杯の生活をしてるような方でも、心を静かにすると普段は気づかない自分の知らないこころに触れられると思う。

体は有限だがその体に宿るいのちとこころは悠久の過去から未来へ、無限に連なっている。

意識が閊えたら、意識を閉じて無意識に聞く。そうすれば道は自ずから拓かれるのだと野口は言う。

七夕という形式を通して人間の心の構造を教え諭し、人を良きに導こうとした先人の心に、この機に一度触れてみてはいかがだろうか。