躾の時期

人間の自律性を信頼せよ

…もっと子供を信頼し、もっと子供の中にある心を尊重しても良いのではなかろうか。意識による知識が余りに多くなると、本当の心の要求というものは判らなくなってくる。子供の要求だけでなく自分の心の要求すら判らなくなってくる。そういうときは、意識を閉じて、無意識に自分の進む方向を訊くということが必要である。

…子供達が親の不安と警戒の為に、反動から反動へと、心を動かして生きるようになったら不幸である。子供達の乱暴な行為の奥にある、その本来の心の動きを感じられるような心で導いてゆかなければならない。…誰だって見栄を張ったり、お化粧をしたくなる時期がある。それを判っていながら、そのようなことを抑えるだけで、方法を教えないでいる。誰かがその心をリードしなくてはいけない。ところがそれを逆に抑えようとばかりして、却って反動を生みだしている。

…やはり、もっと広く人間の心の構造というものが理解されなくてはならない。みんなが人間の心の構造というものをよく知って、それに添って生活を営むことを考えなくてはならない。(野口晴哉著 『躾の時期』 全生社 pp.57-60)

この数日ニュースを見ていたら、「しつけ」について改めて考えさせられた。基本的には「良いことをして、悪いことをしない」、というのを自律的に行えるようにする教育の総称を言うのだろうか。

個人的には、最近1歳から5歳くらいまでの子供にふれる機会が増えた。そのくらいの子供の世界を見ていると、当然イザコザもあるし物の取りあいもある。だけれども、泣いている子供を気遣う心などは既に見える。そういうものが先天的なものなのか、あとから育ったものなのかは判然としない。だけれども、弱って泣いているような子供をさらにいじめるようなモノはない。何か心配して観ている。やっぱり人間というのは、自分や他人の快感を大事にしようという心がはじめから備わっているのではないだろうか。

それなのに、もう少し大きくなって来ると、いじめの問題なんかが出てくる。それから物を盗るのでも、もっともらしい理屈をつけたりして巧妙になってくる。そういうものが、世の中の問題をややこしくしていることは少なくない。個人の身体の中でも、ごちゃらごちゃら言っているモノの根本が見栄だったり、お化粧だったり、さらにその因は、最初に感じた恐怖や不安だったり、劣等感だったり、というシンプルな不快感である。

もう一つ加えるなら、感情エネルギーの鬱滞がある。子供は動きたい要求の固まりなのだが、小学校などに上がると、まず「ジッとしていなさい」という「教育」が始まる。そうすると抑えられたエネルギーはケンカをするか、物をこわすか、イタズラを空想して実行するか、という反発や破壊的な方向に使われやすい。

やがて、ふっとした出来事から「この子は悪い」という「見方」が出てきてしまう。そういうレッテルを大人が貼ったうえから更生しようということになると、潜在的な心は最初に貼られた「悪い」というレッテルの方へざーっと進んでいく。「俺は不良だ」などといって悪く生まれてくる子供はいないのだから、悪いのは悪くない子供を悪くした大人のアタマの方なのだ。大人の世界の問題もこれらが少し複雑に発育したものが相互に絡まり合っているだけで、根本の感情の動きにはさしたる違いはない。

こうした感情エネルギーの健全な鬱散方法としてスポーツなどがよく採用されるが、実際のところ一面的には有効なのだ。その一方で、ゲームに勝つことに拘り過ぎたことによる、無意味なシゴキや、大怪我の問題なども考えなければいけなくなってくる。さらにスポーツは年をとった人やケガをしている最中はできないものもある。

だからそういう方法ばかりに頼らないで、もっと根本にある心の動きが広く理解されないと、しつけにまつわる諸問題はこれからもずっと消えない。求められるのは「人間」に対する精妙な理解ということなのだが、その一番身近な研究材料は自分の心の動きだったりする。だれにでも良いにつけ悪いにつけ、「ついやってしまう」という心の動きがある。その人の人格の根本はその「つい」の中にある。それは表面的な理性の奥にある潜在的な心なのだが、その人を丸ごと動かす力があるのも、その「つい」の方なのだ。

無理なしつけを強いられた子供も「かわいそうに」と言われている内に、やがては大人になる。まずは心と体の弾力を失わないことは基本だ。自分の心の動きが感じられるための身体の教育と指導者がやっぱり必要なのだ。こういうものはマニュアル化して広く普及しずらいのが最大のネックなのだが、やはり人間の感受性に関する理解は一部の分野では着実に進んでいる気はしている。

これに正確な身体的実践が伴えば、これからの100年でさらに良く変わっていくことも期待できるのではなかろうか。公算は半々くらいの気持ちなのだが、自分の職業的立場から言えば活元運動と正しい動作の実践になる。どこをどう押しても、自分の身体以上の指導力は出て来ないのだから、人のことや先々のことを考えるよりも、今の一挙手一投足に目を付けるのが仕事の根本だろう。

やはり最上のしつけは、自分を治めることだ。一人が一人を治めればいいのだから話は簡単なのだが、これこそが人類発生以来の一大問題である。いつの時代も本当の宗教は必要なのだ。その一方で本来のソレは普及も組織化もできないものでもある。自分の心と体を学ぶには、身体を生理的な側面から理解するのが一番の近道であり、唯一の道なのだ。整体はそのため教科書になる。自分の身体にくっついて動く心が読めないうちは、他人のしつけなどはこわくてとてもできない。いや、自分に言い聞かせているのだがやっぱり「つい」やってしまう。人生にはいろんな邪魔者が現れるが、自分のラスボスはやはり自分だ。