活元運動は毎日やるべきか:回数よりも気の密度 気が集まることで体は変わる

質問〕活元運動は、毎日やった方がよいですか。やり過ぎることはありますか。

 だれでも、自分に適う運動しか出ません。だから二度やろうとしても出ないことがある。しかし、三度やっても、同じように出ることもあります。訓練してあれば、必要なときに、自然と動き出します。その時は終わるまでやった方がよろしい。

前に道場に来ていたイスラエルの人ですが、国へ帰って昨年のクリスマスに手紙をよこしました。先週からドライブするのに眼鏡をかけていない。自分を知っている人は不思議がっている。私自身もまだ信じられない。でも、もう眼鏡はいらなくなった、というのです。

一昨年、ここを出ていく時に、「目が悪いがどうやったらよいか」と私に訊ねたのです。私は、活元運動をした後で眼をじっと押える。そこへ気を集める。それを一年間やることを教えました。つまり、やろうと決心したこと、一年間という目標をたてたこと、それを忠実に実行したことで、眼鏡がはずせるまでになったのだと思います。

皆さんどうぞおやり下さい。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.137-138 一部太字は引用者)

だいたい1年に2、3回くらい「先生は毎日活元運動をやっているんですか?」と聞かれることがあるが、以前は申し訳ないくらい一人ではやらなかった。

せいぜい活元会を行なったときにみんなと一緒に少し行うぐらいで、あとは全くといっていいほどやらない。

この1年くらいだろうか、心身が鬱滞したときにはマメにやるような感じになってきた。

活元運動を修得する時期においては、一応の区切り、というかここまでやっておけば意義はあったというのは好転反応を全部経過したあたりである。

活元運動の好転反応に関する記事はこちら

熱が出たり、あちらこちら痛くなったり、そういう反応が終わったらもう訓練法としての活元運動はやめても構わないと思っている。

だから「活元運動は毎日やった方がいいのか」という疑問については気持ちもわかるけれども、大切なのことは義務感のような自分への押しつけを避けることである。

まずなによりも意欲とか自発性が自然と発揮される自然な心を保つことが大事。

なぜなら「その気」になったときに、はじめて自分の身体は中心からすみずみまで動くからである。

引用からもわかるように「目が悪いがどうやったらよいか」という本人の関心がもっとも高まったところですかさず、「目を押える、そこへ気を集める」ということを指導した。

そうやってほんの少し見えた自発の動きを見逃さず、意欲の方向づけをする指導をしている。

活元運動にかぎらす、人間が普段の生活のなかで自然の健康を保つためには気の集中、気が集まることを積極的にやっていくことが大切だ。これによって眠っている体力が振作される。

逆に気が集まらないことをだらだらやる習慣がついてしまうと、今これといった病気をしていなくても、もうすでに健康は損なわれているといっていい。これはなかなか根の深い問題なのだ。

ただし気の集中というのは体力にも裏打ちされている。活元運動は眠っている体力を呼び起すものでもあるから、やはりからだの怠けている人は一定期間集中して行う必要はあると思う。

それでも「毎日やる」というよりは活元会などでみんなが集まったときに質の高い活元運動を丁寧に行うことを心がけるほうがいいだろう。

丁寧さ、細やかさ、というのは整った生活を支える基盤だ。回数を多くして自分自身が粗雑になるくらいならやらむしろやらないほうがよい。

だいたい小いち年くらい淡々と取り組めばそれらしい身体(整体)にはなっていくる。好転反応というのもだいたいその頃までにはおおむね終わるだろう(出る人も、出ない人も‥)。

どちらかというと一過性の特効薬的なものではなく、一生ものと考えて欲しい。中断があってもいいから一生付き合うつもりでいた方が、人生の要所要所で助けになるのではないかと思う。お守りみたいなものだが神仏に祈っているよりは、ご利益は確実にあるはずだ。

活元運動の目標(目的):「身心脱落 脱落身心」整った体に世界は正しく映る

質問〕座禅には悟りという目標がありますが、活元運動では、どういうことが目標となりますか。

 先ず体が無くなってしまう。心も無くなってしまう。つまり、手があるとか、胃袋があるとかいう感じは、そこが鈍いからなのです。胃袋がきちんとはたらいている人は、胃袋のあることを意識しない。体があると感じるのは、まだ体が整っていない、体が調和していないときです。そういうことで、先ず体が無くなってしまう。

心についても同じことが言えます。例えば「悟り」などということを意識している間は、悟りではない。無になっていない。体も心も無くなって、気だけが感じられる。生活自体が気の動きそのものになる。その気も、ただ一個人の気だけでなく、もっと大きな(宇宙的な)気と感応し合い、それと融け合いながら動くと、世界は一つになる。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.137)

活元運動は体が最短のコースを通って整う方法だ。

活元運動が上手に行われて体が整うと、引用文にあるように「整った」とか「悟り」とか、ともかくその時は「あー」も「うー」も無くなってしまう。

それどころか、肩がいつも凝っているからとか、緊張しやすいからとか、最初に悩んだり問題にしていたものも消えてしまう。

問題が解消したわけではなくって、相手にしていた自分が融けて消えてしまうのだから「悟り」と同質の体験といっていい。

「世界と一つになる」なんていう表現もあるので、いわゆる仏道の「見性」とほぼ同じものを指していると思う。

ただし「一つになる」というと、「もともと一つではない」という前提になってしまうのでこれには気をつけたい。

世界はもともと一個の一大活動体なのだから。

ただ人間は理性による「認識」でもって分別心がはたらくから、こちらは私、あちらはあなた、これはスマホ、スマホの画面、とそのカバー…etc、とかってどんどん(認識の上だけで)分化していく。

そういうふうに「分けて別にする心」が止めば、また一個があらわれる(本当は心がどう動こうが世界はお構いなしに一個なのだが)。

ただ「あ、一個になった!」といったとき、その瞬間また「私」と「世界」が分離している。一個になった世界を見ている人がいるのだから二個になっているのだ。

これが「鑑覚の病(悟った病)」といわれる悟りの矛盾である。

最初の引用にあった、「「悟り」などということを意識している間は、悟りではない。無になっていない。」というのはこのことを指して言っている。

これを坐禅の方で見てみると、鎌倉時代に道元禅師が宋に渡って修行を積んでいた折、ある坐禅の最中に「あ、いま身心脱落した(しんじんだつらく≒悟った)」と気がついてその時の師であった如浄禅師にさっそく訊ねたところ、師はそれを否定し、「身心脱落、脱落身心(いや、修業したから悟ったんじゃあなくって、最初から悟りも迷いも、何ーんにもなかったんでしょう?)」と教え諭した(正した)と言われている。

それで道元禅師もあらためて納得し、「ああ、そうですね」と言ってそれ以来、すっかり抜け切ってしまったそうである。

活元運動というのはそういう「悟り」みたいな到達点を設けないで、「身体の自然な動きに任せましょう」といって統一に向かう過程がそのままゴールになっているから「迷い」にくい。

「ポカンとすれば、もうそれでいい」という表現も、野口先生特有の国語力の高さというか、人をしてみだりに惑わせないための巧妙な表現である。

だからもしも「活元運動の目的は?」と訊ねられたら「その目的を捨てることだ」というのが当たりかもしれない。ただしそれでは納得されないので最初の引用のような表現になったのだろうと思う。

これを理屈だけで理解しようとすると極めて難解だが、活元運動が終わったときの場の雰囲気を知っている人ならだいたい意味するところはわかるだろう。

固い人も柔らかい人もやっていけば、やがてはみんなゆるんで整っていく。非常に安全で簡単で、人を選ばないのがいい。

体がゆるんでしまえば、生来の位置に整い意識は静まる。

この時には「わたし、と、あなた」といって分別するはたらきも休んでいるので、こちらの静寂が世界を満たす。

体は世界を映しだす鏡なのだ。

体がかたよって(鏡がゆがんで)いると、世界もゆがんで映る。

つまりかたよった体で何も見ても聞いても、あれが面白くない、これがつまらない、ということになる。

こんなとき、鏡に映った世界をいじくるのは賢い者のすることではない。

賢明な人ならば、まず鏡を直す(体を整える)ことに取り掛かるだろう。

すなわち活元運動が闊達自在に行われるとき世界は秩序を取り戻しみるみる動いていく。

この世界を取り替える必要など最初からなかったのである。

体が整うとき、世界も整う

そういうことを考えながら活元運動をやるのも本当はよくないけれども、根本はそういうことだと理解してからやる方が気持ちの面から言っても統一しやすいだろう。

たから「ポカンとして体の自然の動きに任せる、それだけでいいのです」というのは、人類全体が救われる道、世界を安んじる方法をごくごく端的あらわしていると言っていい。

活元運動は他人の力をいっさい借りずして、この自分の体だけを使って徹底的に救われる、そういう至高のものなのだ。

そういう非常に簡単なことなんだけれども、「正しい理解と実践」、この二つが揃わないと充分な恩恵は得られない。

ともかく、理屈は以上でおしまい。

あとは本当に、自分でやって、確かめてみると「ああ本当だ」と、そういう風にみんなちゃんとできていることがわかる。

それぐらい「いのち」とか「世界」っていうものは、間違いようのないくらい最初からしっかりしているのである。

誰も踏み外していないんだけど、なぜか落っこちる人がいるからそっちの方がふしぎなんだな。

やってみると、やがてはどこかで自分の体がちゃんとしていることがわかるものだ。

そういう意味で、いのちはみんな平等。それが納得いくところまでやられてみることをおすすめしているのだ。

今月の活元会 日程はこちら

活元運動のコツ「天心について」:ポカンとできない、ポカンってどういうこと?2

きのうの活元会の話のつづきになるけれど、野口整体の本には「ポカンとする」という表現がしょっちゅう出てくる。

それで最近気がついたことがあって、その「ポカン」という言葉の印象がつよいらしく、何か本当に頭が空っぽになってまったく念が浮かんでこないことを期待するひとがけっこういるのだ。

俗にいう「無心」とか「無念無想」とかいう言葉のイメージが先行して、自分がきちんと目が覚めて活動しているときでも「頭のなかに何にもでてこない」、そういうことが本当にあるように思われるらしい。

当然のことながらいくら「ポカン」といったって、そんな状態などありはしない。

あるワケがない。

少しこれに因んで仏道のほうから言葉を借りると、「目耳鼻舌身意(げん・に・び・ぜつ・しん・い)」というのがあるけれど、

これらは「六根」といっていわゆる「五官(五感)」、プラス「意」。意というのは、まあ心とかイメージのことを指している。

人間として生きて活動しているかぎり、この六つの感覚器官はつねに付随する、ということだ。

目が開いていれば必ず何かしら景色が見えるように、生きていれば頭の中にはいろいろな言葉やイメージがいつも去来しているのが正常なのである。

健全というのはこの正常さがそのまま現れていることで、それ以上のことを期待するのは誤り、というか欲ばり?

ところが「瞑想」とか「精神統一」なんて作り事をやろうとすると、この正常なはたらきであるはずの意識の活動を邪魔に感じるようになってくる。

俗にいう「雑念」とか「妄念」という取り扱いをして、とかく浮いてくるイメージをどうにかこうにか押しとどめようとするのだが、これは全くおかしなことではないか。

このあたりについて野口整体の『健康生活の原理』という本に「天心について」という見出しから始まる一文があるので、下に引用することにする。

天心ということ

活元運動も相互運動も、行うときに一番大切なことは、やり方ではありません。「天心」であること、が根本です。

天心で欲のない、相手に何ら求めることもなく、恩を着せることもなく、ただ自然の動きに動く、そういう心の状態でやらなくてはならない。

親切にしてやろうとか、やってあげる、受けているというような心があったり、自分の技術を誇るとかいう心でしてはならない。

…<中略>…

「心を空っぽにすることは難しい、無心になろうとすると、あとからあとから雑念がわいてくるのですが…」と質問した人がありました。けれども雑念があとからあとから沸いてくる時は無心なのです。

心が澄んできたから、雑念があとからあとから出ては消えるのがわかるようになったといえる。或る雑念が心から離れないで、次の雑念を生み出すようだといけないのです。

だから浮かんでは消える雑念のまま手を当てていれば動き出してくるし、動き出せばひとりでに雑念がなくなって、統一状態になります。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.124-125 太字、改行は引用者)

このように、つねに何か浮いては消えていくのが生きているこころの実相といえる。

そのために、からだを静止して自分の念の動きにフォーカスしてみると、いろいろなイメージが流れていることにはじめて気がつくのだ。

ところがそういう中に、他人を悪く思ったり、欲心めいたことが浮かぶとすぐそれを「雑念だ」、という人がいる。

わたしに言わせれば、そういう風にただ浮かんできたことを追っかけて、これは良いとか悪いとかいうこと自体に不自然さがある。

むしろそういう行為こそが人間的な欲心ではないかとすら思うのだ。

例えば雑草なんていう言葉もあるけれど、もともとはこの世界に雑草という草はない。

ところが庭の手入れなんかしていて、この花はのこそう、この草はむしろう、そうやって分別心を起こすから「雑草という取り扱い」が出てくる。

別にそのこと自体、人間の生活を邪魔しているということはめったにないのだが、そこに好悪の情を持ち出すから障りになるのである。

「雑念」というものもこれと同じだ。

頭のなかに出てきたものは、別になんにも邪魔にはなっていない。

悪心といったって欲心といったって、そんなものはそれを相手にしているわずかな時間だけが問題になるのであって、一日の生活全体を見渡してみれば、風呂に入ったりお茶を飲んだりして、そのことがすっかり消えている時間もいっぱいある。もとより人畜無害のものである。

そんなものをいちいち振り払おうとしてみたり、呼吸に集中するだの、数を数えるだのいろいろやって、それでも「気がつくと考えちゃってます」なんてやっているのは、徒労以外の何ものでもない。いわんや自分の念を怯えて逃げ回っているなど滑稽の極みではないか。

もっともっと、自然の、あたりまえの在り方について目をつけるつもりでいたらいいじゃあないか。

訓練してようやくそうなるような話ではなく、普段の一日の生活のなかにだって「ポカン」としている時間はいくらでもある。

おそらくは今朝だって「無心・無念無想」で靴を履き、出かけていったひとがほどんどだろう。

そういう時にはいっさい気にならないものが、ちょいと「集中」とか「精神修養」めいたことをやろう、なんていうともうそれが気になってぐしゃぐしゃになってしまう。そんな人が存外多い。

ただ、そのまんまにしておいたらいい。

放っておけば出てきたものは即座に消えていくことに気づくはずだ。

瞑想だって活元運動だって教える人が「きちっ」としていれば、そういうこともおいおいわかってくるはずなんだけど。

むしろ一つの「雑念」を三日も四日も、ずーっと取って置こうと思ったらそっちの方が大変ではないか。

消そう、流そうなんて思わなくたって、こころに浮かんだものはいつだって自然に流れていってひとつも跡を残していない。なんだ、みんな最初っから無心だったんじゃあないか。

それに気がついたらもう作り事はやめてその最初のところに帰ればいい。いや、実際ポカンてなったら帰ることすら忘れるんだけど。ポカーン‥。

丈夫に育てるには自分の力で(病気を)経過させる:整体は自分がやるものである

病気させないのがいいのではなくて、病気をしても、それを子供自身の力で経過させるということが正当な育児法です。病気になっても、それを自分の力で経過し、全うするのでなければ意味がない。それを、治さなくては治らないのだと決めている。怪我をしたところで、その人の自然に繋がる体の働きがあって、その働きで繋がるのでなくては治らないのです。傷口を縫っても貼っても、それは早く繋がるように仕向けることであり、それで早く治るかどうかも判らないのです。けれども縫ったり貼ったりしただけでは治ったのではないのです。自分の体の力で治った時に、治ったと言えるのです。

麻疹がうつるといっても、その体がうつる時期でなければ、一緒にいてもうつらない。そして麻疹を予防しようとすると肺炎をつくってしまう。今年も肺炎になりかけた麻疹が随分ありました。予防注射でも、その体に適った時期にきちんとすればいい。しかし体が自然と発疹するのは、ちゃんと体が時期を選んでいるのです。だから一緒にしておいてもうつらないのに、幼稚園に一日行っただけでうつって来たというようなことがざらにあります。だから体に任せて経過を乱さないで通れば、あとは丈夫になるのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.39-40 太字は引用者)

整体指導を行うということは、病気を治すとか、病気を予防するとかそういうことは本来の目的ではない。

自分の体の力で経過させて、その力を自覚させることが根本理念である。

先日の予防接種の記事の流れで、つらつら書いてきているのだが本当に今の子供は肉体的にも精神的にも薬漬けだ。

大人の薬物中毒の問題もにぎやかだが、こちらは表面化しているのだからいわば陽性の問題である。つまりその罪は重いが根は浅い。

これに対して子供たちの薬まみれは陰性化している分、根は深いのだ。予防接種は表の顔としては良いこと、善いこと、として推進されてきたものだがこの世の中に100%良いことなどありはしない。

守り、庇えば、そのときはいいかも知れないが、相手の立ち直る力を奪いとることにもなりかねない。

さらには「副作用」に関する情報はほとんど表面化していない。つまり良いことばかりに目がいって、それ以外の反応には目を光らせない。もしくは目をつぶる。だから見えないのだ。

科学の目というのは本来、客観性や平等性が必須なのだが「人間」が行なう以上は真の客観性が発揮されるということは大変に困難なのである。

大抵は個人の利害や嗜好が大いに反映されて、見たい結果だけが見えることは決して珍しくない。

もう少し咀嚼していえば、副作用らしき反応が見えてもそれを認めまいと思えば「エビデンスがない」と言い放っていくらでも潰せるのだ。

余程の公平性をそなえた人間でないかぎり、真実の追求よりも個人的利害の方が先立つのがこの世の常、人情というものである。

個人的には予防接種を打った子どもをみると、妙におとなしいと感ずる。病気にさえならなければ平和だと考えるのだから、養殖人間みたいなものが増えるのではないだろうか。

こういう態度こそ見たいように見るわたしの「主観」なのだが、これは整体特有の人間観ともいえる。科学的医療の検査と整体的観察の違いを突き詰めれば、人間をできる限り数値化して測るか、感性で捉えるかの違いなのである。

これはなにも医療を全面的に批判する話ではなく、実際に平均寿命は延びているのだから一般医療の努力とその功績は当然認められてしかるものである。

ところがわたしはその医療の仕事に従事されている方々から、その限界性についてお話を伺うことが少なくない。医療のプロの方が西洋医療のゆく先にはもう答えはないとおっしゃる。

その反面、野口整体という世界に可能性を感じておられる方もいらっしゃるということだ。

この構図を整理して表現すると、「人間を知る」というプロセスを定量化から定性化へとシフトようというのである。

西洋医療が数値化の精度を高める客観性を第一として進化してきたのに対して、整体流に感性の質を高めた上での主観性を見なおして、相補的に「生きた人間」を捉えていこうという分岐に立っているのが現代である。

その第一歩が病気の自然経過を体験し、自分の真の体力に気づくことだとわたしは思う。

これによって今まで無自覚に封殺されていた「自分の生命感覚」を目覚めさせるのだ。体が整う、整っていくというのはいつでも「自分の感じ」というものが出発点である。

現代日本人の多くは子供の頃からそうした自然経過の機会を奪われているのだから、こうした生命の感覚を取り戻すのは実は大変な作業なのである。

そのために意識を静めて、雑音を排除し、徹底して自身の身体になりきる時間が欲しい。

整体指導というのはそういう自分の生命に対する最大級の礼を具現化したものと思ったらいいだろう。

そうした心身の「沈黙の時」がいのちを養うのである。

病症の自然経過というのは野口整体の看板文句の一つともなっているが、ただぼやーっと放っておくことではない。

もう一つ積極的に静けさを養うという、真摯な態度があってはじめて可能なのだ。自分の健康は自分で保つ、丈夫になる、ということは「やってもらう」ことではない。

自分で取り組んでいる人がどうしてもわからないところ、手の届かないところを指導者が手伝うというのが本来の形である。

健康というのはまぎれもなく自身の心の生活の積み重ねなのだ。整体というのは自分がやるもの。指導者の力を活かすのも自分、活かしきれなければそれも自分の裁量なのである。

病気が身体を丈夫にし、大人の身体を育てていく

体に起こるいろいろな変動も、いろいろなコースを経て抵抗力がでてきます。熱が出たり、汗が出たり、その他いろいろなコースを通って経過する。それを中断したらどうなるか。人間が病気になるという意味が解らないで、なるべく罹らないようにしようとしていますが、小さな児から大きくなるのには、いろいろな黴菌や、何かに対する抵抗力をつけて、何処ででも働ける大人になっていかなければならない。だから、病気にさえしなければいいんだといったような育児法は、温室の中に囲っておくのと同じで、子供の将来を弱くするのです。病気を途中で中断してしまえば、子供が将来、途中でバタッと倒れるような、あるいは力を発揮出来るものも出来ないような、そういう体に育ててしまうのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.38-39 太字は引用者)

整体の基礎、基本の話である。そして基本は極意である。

まずここがわからなければ、という所であると同時にここさえわかれば完成なのだ。

実際問題、野口整体の本を読んでくる人は多いが病気に対する理解とか、死生観まで共感してくる人は意外と少ないことが最近やっとわかってきた。こちらもうかつだったものだ。

予防接種のことを書いた記事のフィードバックからもわかったが、やっぱり病気を漠然と怖がっている段階から脱していないのだ。

いや病気は怖い。

それは間違いではないのだが。

処置を誤ればいのちを落とす、そういう危険性はまちがいなくある。

だから、野口先生はこれを「火」に例えたわけだ。

火は非常に怖い。

扱いを間違えば人命もうばうし、家屋でも山でもみんな燃やして灰にしてしまう。

ところがその火の性質がよく理解できてくると、寒い時には暖を取って、またいろいろなものを煮炊きすることで地球上に食材を開拓してきた。

いま世界中に人間がいるのは、そういう進化の途中で火を使えるようになったことが非常に大きい。

それは火を大きくしたり小さくしたりするための知識や技術を修めているからである。

その結果、

人間だけが火を「使える」。

病気も同じである。

「これってどういうものなの?」っていうことをまず考えなければ、といっている。性質がよくわかれば「使える」、有効利用できる可能性が生まれるのだから。

ところが世間全般に「病気をどうやったて治すか?」という角度からしかアタマを使っていない。

つまり、

スタート地点がもうずれているわけだ。

病気は悪、っていう価値観が最初にあって、その上で「さあどうしようか」と踊ってるのである。

これは人類が「火は熱い、怖い、」というところでずーっと止まっているのと一緒です。

それで、こうやったら消えます、いや、こうすればもっと楽に消せます。そもそもこうすれば出火しません(予防医学)。ってことをもうずーっとやってるのである。

整体はまず、

「そうじゃあない」

と言っている。

病気っていうのは身体がマトモに還るためのプロセスである。

とまず最初に直感した。

だからその性質をよーく理解して、上手ーく使えば身体を丈夫にすることができる、って言い始めたのである。

そういう革命的見方が最初にバキッと入らないことには始まらない世界なのだ。きれいなコペルニクス的転回である。

「何いってるんだ?」と思う人は整体やらないでいいわけで、

縁の無い人なのだ。

「常識を疑え」というのもトレンド化してるが、今さら常識がどうとかじゃなくって、もっと自分の全身を使って「考える」習慣を持とうという話でもある。

いま私はどうなってるのか?を自分で感じて判断する、「主観」が重要な世界なのだ。

病気っていうのは基本苦しいものだが、経過していく過程に快感もある。治っていく、丈夫になっていくという、秩序に向かって行く快感がある。

そういうところにピッとアンテナが反応して、そうだ!と思う人をわたしはマトモだと思う。非常に少数派ではあるが。

そして真実に気づいた少数派はたいてい苦労する。

昔からそういうものなのだ。

でも知った以上は、嘘はわかってしまう。

そういうことで、整体という生き方をしようと思ったらもっと徹底的に勉強しなきゃあならない。自分の身体、日々の些細な変化、そういうものが逐一わかるようになるまで身体感覚を研いでいかなければ、あぶなくて「自然」なんて生き方はとてもできないのである。

自分の身体で勉強するしかない。

ちょっと古めの言葉を転用すると、「自存自衛」のための身体学である。

それには「覚悟」みたいなものがいるのだ。

わたしはそういうところが「禅門」に似てると思っている。

禅で悟りたいんです、救われたいんです、といってさらっと門をくぐって入ろうとしたら大抵は和尚さんにぶっ叩かれるのだ。

わたしは誰が何と言おうと、自分で自分のいのちを見極める。

そうい気概がやっぱり必要である。

そうすると、整体はものすごく楽しい。

自分が世界の価値観を握るわけだから。

病気もおのずと消えるし、不幸も消えていく。

そういう自由性をだれもが握っているんだが、開花させるかどうかは本人次第なのだ。

まずは「理解」から。それも直感がないとはじまらないんだが。

人が整体を選ぶのか、整体が人を選ぶのか。

わからないけれども、まずは「そういう生き方をしよう」と思うことが第一関門である。

直感と理解だ。

それが縁を生む、そう考えると整体をやるには素質や資質も重要だ。

神仏の正体

私がお話するのは、いままでの学問的な考え方だけでは考えきれない体の問題なのであります。私たちの胸の中に肺臓と心臓があるということはどなたもご存じですが、それを動かしているある働きがあることには気がつかないでいる。例えば、恋愛をすれば食事がおいしくなるし、好きな人に出会えば心臓が高鳴ってくるが、借金をしていると食事もまずいし、顔色も悪くなってくる。このように恋愛とか借金とかいうものによって生じてくるある働きと、肺臓とか心臓とかいうものが関係ないとはいえない。ところが胸の中を解剖してみても、レントゲンでいくら探してみても、そういうものは出てこない。だから人間の生活の中には解剖してしまったら判らない、また胃袋とか心臓とかいうように分けてしまったら判らないものがある。電報一本で、途端に酒の酔いが醒めてしまうこともありますが、どういうわけで醒めるのか判らない。その判らないもののほうが、却って人間が健康に生きて行くということに大きな働きを持っているのです。(野口晴哉著 『健康生活の原理』全生社 pp.3-4)

生き物を生かす不思議な力

サムシング・グレートとは、具体的なかたちを提示して、断言できるような存在ではありません。大自然の偉大な力ともいえますが、神といってもいいし、仏といってもいいような存在です。とらえ方は自由なのですが、ただ、私たち生命体の大本には何か不思議な力が働いていて、それが私たちを生かしている、私たちはそれによって生かされている、という気持ちを忘れてはいけないと思います。(村上和雄著 『スイッチ・オンの生き方』 致知出版社 p.90)

活元運動を指導し始めて6年余りになるけれども、「活元運動をやると、何がどうなるのですか?」という直接的な質問を受けたことは一度もない。

何だかわからないけれども、お集まりいただいて、手を当て合って、活元運動をして来た。

ところがこの「何だかわからない」というものの中に、生命の働きが内包されている。人の頭でわかるようなものは精々その程度なのだと思ってしまう。

人間が生まれる、ということ一つとってもその活動の実体はほとんどわからない。

一個の生殖細胞がおなかの中で数十兆に膨れ上がり、「その時」になると陣痛がはじまって外界に現れる。

何故そうなるのか、それがわからない。わからないまま、人類創生以来、ひとつも困ることなく命を継いできた。

文明生活はそのわからないものを暴こうとして、生命を捏ね繰り回し、難解にし、調和に抵抗してきた。

調和させよう、させよう、という絶え間ない知的探求が、自然の精妙な均衡を脅かしてきたのだ。

それならば、その「わからないもの」をわからないまま、煥発して、ぐんぐん生きて行く方が都合がいいのではなかろうか。そういう考えが沸いてくるのも自然であろう。

元来、祭りや舞踊、歌にはそういうちからがある。

ただそれには、文化や風土、宗教観、時代性、地域性、いろいろなものが付随してくっついてくる。それらは、相互に対立や矛盾を生む可能性も孕んでいる。

人の「考え方」というものには、対立が付きまとうのだ。

そういういっさいの付属物を剥がし、純粋な生理機能に濾過したものが活元運動であると言っていい。

生き物は、生まれた瞬間から、絶えず「そういう風に」動いている。

何故かはわからない。

わからないけれども、わからないことで一つも困らない。

不自由もしない。

知ろうとすれば、わからなくなる。真を求ればたちまち真に背く。

わからないままでいい、というと全てがわかるようにできている。

むずかしいことは一つもない。

五官に任せれば、全てが一度に手に入るではないか。

感じて動く。

生命体とは、感じて動く感動体なのだ。

認識には誤りがある。

感じ方に間違いはない。

神も仏も、みんな、はじめから生命に宿っている。

その光が、そのまま現れるようにすればいい。

そのためにどうすればいいかも、自分のいのちで感ずればわかるようになっている。

分けてしまったら判らないもの

健康生活の原理と言っても、栄養をどう摂れとか、睡眠は何時間とれとか、ということではありません。体と体の使い方の問題だけであります。体の問題と言っても、胃袋がどうなるとか、肺がどうなるとか、心臓がどう脈をうつとか、というようなことではありません。そういうような医学的な面での体のことは、皆さんの方がよくご存知だと思うからであります。

 私がお話するのは、いままでの学問的な考え方だけでは考えきれない体の問題なのであります。私たちの胸の中に肺臓と心臓があるということはどなたもご存じですが、それを動かしているある働きがあることには気がつかないでいる。例えば、恋愛をすれば食事がおいしくなるし、好きな人に出会えば心臓が高鳴ってくるが、借金をしていると食事もまずいし、顔色も悪くなってくる。このように恋愛とか借金とかいうものによって生じてくるある働きと、肺臓とか心臓とかいうものが関係ないとはいえない。ところが胸の中を解剖してみても、レントゲンでいくら探してみても、そういうものは出てこない。だから人間の生活の中には解剖してしまったら判らない、また胃袋とか心臓とかいうように分けてしまったら判らないものがある。電報一本で、途端に酒の酔いが醒めてしまうこともありますが、どういうわけで醒めるのか判らない。その判らないもののほうが、却って人間が健康に生きて行くということに大きな働きを持っているのです。(野口晴哉著 『健康生活の原理』全生社 pp.3-4)

これは野口先生が最後に出されたご本、『健康生活の原理 活元運動のすすめ』の冒頭です。

かつて心理学者の河合隼雄さんは欧米人に「魂とは何ですか?」と問われた時に、「本来分けられないものを無理やり分けた時に消えてしまうもの」と答えたそうなのだ。ああ、成る程なと思う。そう言う風に、分けてしまったら判らないものが確かに実在して、それが絶えず命を保っている。そしてどんなに発達した治療技術でも、その「ある働き」という大前提の上に成り立っているのだ。具体的に言うと、血が出れば、その血が固まって止血する。その下に皮膚ができると、あとは何もしなくてもぽろぽろ落ちる。また、水をかぶれば、体温が上がる。暑ければ汗が出る。一体「何」がそうしているのか判らないけれども、生命にはそうやって平衡を保つ力が絶えず働いている。そしてこの力は生きている限り働き続けて、また誰にも止められないものだ。

現代の多くの治療法や健康法の中には、この平衡の力を無視したものが含まれている。健康法という言葉の影には「不健康」という健康の失われた状態を匂わせているのだ。ところがよく見ると、その不健康とか病気とか言われる状態の中にもその「ある働き」は厳然として失われていない。野口先生が徹頭徹尾説いたのは、その「ある働き」の自覚と発揚であった。先覚者とは斯くいうものである。時にそれを「気」と言い、またある時は「錐体外路系」とも言い、また「命」と言ったり、「天行健」と言ったりと言葉にして切り出すと、日本語だけでも複数ある。ただそういう言葉で掴まえるずっと以前から、人間もその他の生命もこのある働きに依拠して活動してきた。「不変を以て万変に応ず」という言葉もあるが、物の世界がどんなに移り変わっても、この生命の平衡要求というのは変わらないのだ。

さて、ではこのある働きの自覚と言うにはどうすればいいのか。経験的にこれを人に感得していただくことの難しさを味わってきた。いわゆる多勢に無勢で、健康や病気と言うものに対する情報量が圧倒的に違うのだ。ほとんどのものは外から補ったり、付け足したり、庇ったり、鍛えたりするものばかりで、最初から命に対する不信を育てることに余念がない。スタートにもう「一線」が引かれているものだから、どうしてもその線を跨いで、「現在地から目的地に向かう」という気配が抜けきらないのだ。そういう人は「今」と「健康」の間に必ず距離がある。これが多い。だけれども、一人一人を丁寧に見ると、誰一人そんな風にはなっていない。本人が何をどう考えていようと、生きているものは命を保つ方向だけに働いている。保つということが順に行われれば、やがて自然に死に至るのだ。本来なら「そのまま」とか「あたりまえ」ということには、苦を伴わないものである。

その「あたりまえ」の王様みたいなのは、「生きているものが死ぬ」ということだろう。その生老病死ということが肯えないことから、自然に背こうとし、その背くことが「治療」としてまかり通る。そしてその結果無益な煩労は増すばかりだ。野口整体をやると言った時には、先ず最初にこの着眼を正さなければならないのだ。愉気法、活元運動、整体操法と、形として整体であっても、内容を見るとまったく整体になっていないということが沢山ある。何ごとも「初心」、あるいは「着手」というものは後々の結果を決定づける大切なものである。「自分のいのちは今どうなっているのか?」、この近過ぎて見えない「健康生活の原理」を示すのが、こちらの最初の仕事であると同時に最後の目的とも言える。偏界曽て蔵さず。

2016桜