〔質問〕活元運動は、毎日やった方がよいですか。やり過ぎることはありますか。
答 だれでも、自分に適う運動しか出ません。だから二度やろうとしても出ないことがある。しかし、三度やっても、同じように出ることもあります。訓練してあれば、必要なときに、自然と動き出します。その時は終わるまでやった方がよろしい。
前に道場に来ていたイスラエルの人ですが、国へ帰って昨年のクリスマスに手紙をよこしました。先週からドライブするのに眼鏡をかけていない。自分を知っている人は不思議がっている。私自身もまだ信じられない。でも、もう眼鏡はいらなくなった、というのです。
一昨年、ここを出ていく時に、「目が悪いがどうやったらよいか」と私に訊ねたのです。私は、活元運動をした後で眼をじっと押える。そこへ気を集める。それを一年間やることを教えました。つまり、やろうと決心したこと、一年間という目標をたてたこと、それを忠実に実行したことで、眼鏡がはずせるまでになったのだと思います。
皆さんどうぞおやり下さい。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.137-138 一部太字は引用者)
だいたい1年に2、3回くらい「先生は毎日活元運動をやっているんですか?」と聞かれることがあるが、以前は申し訳ないくらい一人ではやらなかった。
せいぜい活元会を行なったときにみんなと一緒に少し行うぐらいで、あとは全くといっていいほどやらない。
この1年くらいだろうか、心身が鬱滞したときにはマメにやるような感じになってきた。
活元運動を修得する時期においては、一応の区切り、というかここまでやっておけば意義はあったというのは好転反応を全部経過したあたりである。
熱が出たり、あちらこちら痛くなったり、そういう反応が終わったらもう訓練法としての活元運動はやめても構わないと思っている。
だから「活元運動は毎日やった方がいいのか」という疑問については気持ちもわかるけれども、大切なのことは義務感のような自分への押しつけを避けることである。
まずなによりも意欲とか自発性が自然と発揮される自然な心を保つことが大事。
なぜなら「その気」になったときに、はじめて自分の身体は中心からすみずみまで動くからである。
引用からもわかるように「目が悪いがどうやったらよいか」という本人の関心がもっとも高まったところですかさず、「目を押える、そこへ気を集める」ということを指導した。
そうやってほんの少し見えた自発の動きを見逃さず、意欲の方向づけをする指導をしている。
活元運動にかぎらす、人間が普段の生活のなかで自然の健康を保つためには気の集中、気が集まることを積極的にやっていくことが大切だ。これによって眠っている体力が振作される。
逆に気が集まらないことをだらだらやる習慣がついてしまうと、今これといった病気をしていなくても、もうすでに健康は損なわれているといっていい。これはなかなか根の深い問題なのだ。
ただし気の集中というのは体力にも裏打ちされている。活元運動は眠っている体力を呼び起すものでもあるから、やはりからだの怠けている人は一定期間集中して行う必要はあると思う。
それでも「毎日やる」というよりは活元会などでみんなが集まったときに質の高い活元運動を丁寧に行うことを心がけるほうがいいだろう。
丁寧さ、細やかさ、というのは整った生活を支える基盤だ。回数を多くして自分自身が粗雑になるくらいならやらむしろやらないほうがよい。
だいたい小いち年くらい淡々と取り組めばそれらしい身体(整体)にはなっていくる。好転反応というのもだいたいその頃までにはおおむね終わるだろう(出る人も、出ない人も‥)。
どちらかというと一過性の特効薬的なものではなく、一生ものと考えて欲しい。中断があってもいいから一生付き合うつもりでいた方が、人生の要所要所で助けになるのではないかと思う。お守りみたいなものだが神仏に祈っているよりは、ご利益は確実にあるはずだ。