愉気って何だという質問だが、人間の気力を対象に集注する方法だ、と考えたら良かろう。人間の精神集注は、その密度が濃くなると、いろいろと、意識では妙だと思われることが実現する。穏やかな太陽の光でも、集注すると物を焼く。光はレンズで捉えられるのだが、気は精神集注によってちからとなる。それ故、愉気するには高度な精神集注の行えること、恨みや嫉妬で思いつめるような心ではない、雲のない空のような天心が必要である。(野口晴哉著『健康の自然法』より)
ときどき愉気はレイキヒーリングとどのように違うのですか?と訊ねられるが、そもそもレイキのことをよく知らない
と思ったら、よく考えると愉気が何だかもわかっていないではないか
しかしもう一つ踏み込んで考えてみると人間が生きていること自体が、何がどうなって生きているのか解ってやっている人などいないのだ
特にこういう生命原理に近いようなものは、探ったり追っかけたりしているうちはそれらしい理屈に掴まるだけで実態そのものに突き当たることは無い
ただ、手を当てると何かが起こるのであって、それに名前を付けたのは人間である
そしてどう使うかを決めるのも人間なのだ
流派や方法論、名称は気になるところだが核心はそこにはない
人間の位(くらい)というのがちからの根源であり、その上で精神の平衡を保つことが全て
名前はどうでもいい
健康の自然法とは流石言い得て妙である