なぜラジオ体操をすすめないか

『ケルト巡り』に関する話の途中だが、少し気になる記事を目にしたので記憶から流れ出て行かないうちに書き留めておこうと思う。

タイトルの「なぜラジオ体操を…」は津村喬による『東洋体育の本』(別冊宝島35 1988年)からの引用である。

いつごろかは定かでないが、ここ数年ラジオ体操がブーム再燃という噂を耳にした。特に最近はコロナ禍の運動不足解消という目的と相まって主に中高年層を中心に実践される方が増えたという。

断っておくがこの記事は「私はラジオ体操をすすめない」という主張が目的ではない。職種や生活習慣にもよるけれども、現代人は概ね運動不足が問題視されて久しい。そのためラジオ体操のような画一的なリズム体操でもやらないよりはやった方がマシ、という人は少なからずいることは確かだろう。

ただ私の目を引いたのは「ラジオ体操をすすめない」といった津村氏の主張がなされたのが1988年という、かなり早い時期であった点である。

88年というと私は小学5年生、毎週月曜日に校庭でラジオ体操して校長先生の話を聞く、という生活をなんの抵抗もなく送っていた。この時に「こういう運動はそもそも…」という批判を聞いても、「変わったことを言う人がいるな」という程度でさして響かなかったのではなかろうか。

ちなみにラジオ体操が今の形に落ち着いたのは1951年まで遡る。以来その効能の是非については大きな批判はもちろん、さしたる点検もなく実施されてきた歴史が伺える。【ラジオ体操】歴史(起源~現在)を解説!最初に広めたのは誰?

津村によるラジオ体操の見解がいかなるものか、少し長くなるが以下に引用する。

日本の近代社会にあって、ラジオ体操の占めた位置は大きなものでした。それは西欧的な体育館にもとづくからだの使いかたを普及しただけでなく、ラジオを聞いてその言うとおりにからだを動かす習慣を定着させました。

ラジオ体操にも博物館に入ってもらっていいころだと思います。筋肉にはずみをつけて動かすことで、弾力性はある程度ついても、進展性、柔軟性、持久性はつきません。NHK文化の中でさえこれへの反省が進み、アメリカから来たストレッチングが大流行です。

しかし、各人のからだの個性に合わせたものを、「からだの言いぶん」にもとづいて作っていく姿勢がないので、まだ笛を吹いて号令をかけてやっています。

体育とは、個体化=個が全体性を回復していくひとつの道なのです。そこを抜きにした画一化のための体操はすべて反動的なものです。(『東洋体育の本』p.126

当時の時代性を考えれば、この津村による指摘は注目に値する。

実はこの視点は野口整体と無関係なものではない。同氏は『気で治る本』(別冊宝島220 1995年)の企画・構成にあたり、野口整体の紹介にかなりのページを割いて詳らかに解説をしている。本書によれは津村は若かりし頃に整体協会にも入会し、活元会にも出席していたことが記されている。(同書 p.116)

そもそも私のような整体法を専一に実践している者からすれば、津村氏は野口整体とは畑違いの出身でありながら整体法の真価を直感的に見抜き、擁護、普及に努めた一人であり、「恩人」的感覚を抱いている。

若くして東洋の医学や身体文化に深い造詣を示し、当時の国際情勢によってスタンダードと考えられていた欧米の文化に対して客観的な評価を下せる稀有な人材の一人だったと言えるだろう。

斯くして「個人を無視してはいけない。治療であれ養生法であれ各人の個性を理解し、個に特化した方法を都度構築しなければ、真の治療も教育(からだそだて)もできない」という主張が半世紀以上前からなされているのである。

しかしながら現代は依然として十把一絡げ式の画一的な方法が横行している。ましてや没個性の具現ともいえるラジオ体操の人気が再燃しているというのだから、この問題はなかなか根が深い。

誤解のないように繰り返しておくが「ラジオ体操が間違い」だとか、「やらない方がいい」という話ではない。それはそれで意義はあるけれども、生きた人間のからだ、個人のからだ、わたしのからだを育むためには、それだけではまかないきれない部分があることを忘れてはならないのである。

スポーツも同様である。体育やレクリエーションとして優れた面を持つ一方で、勝敗や記録に拘る余り怪我や故障といった問題が尽きない。それは客観的評価という外のものさしに合わせて動こうとするあまり、自身の内なる感覚を無視した無理な動作が繰り返し行われることが原因として考えられる。

ラジオ体操のような万人向けに定められた形を忠実に行うときには、身体内で展開する主観的事実にも開かれた心を持つことが肝要なのでる。

例えば自分の脈や呼吸の快・不快といった事実は客観的にとらえることは不可能である。例えば持久走などは「苦しい」という主観的事実に理性で立ち向かい、いかに走破タイムを縮めるかが主眼となる。これを東洋的な身体観に照らせば、生活とは無関係のところでただ速く走るために走るなどという行為は不可解と考えられる。

「苦しい」というのは走るスピードを緩めよという「からだからの言いぶん」なのである。からだの要求に従うことは大自然の秩序に対し頭を垂れることであり、自然を人間と同等かそれ以上にみる東洋においては謙譲の美徳とさえ考えらえる。しかし西洋的な自然観に照らせば、「苦しいから走れない」という事実は自分よりも下位に位置する自然(肉体)に屈服することであり、人間としての意思薄弱を意味する。

身体を自然と同一視した場合、東洋では身体は自然からの賜りものであり畏怖と畏敬の対象であるが、西洋では早くから身体を意識と肉体に分け、この肉体の生理的はたらきや動作を理性でいかに統制するかを考えてきたのである。

日本は明治の開国以来この東洋的身体観と西洋的な心身分離の思想が併存する雑種的文化を形成してきたと言えよう。普段はスポーツを含め科学的な体育や医療が標準と考えらえているが、ひとたびその有効性や論理性が疑わしい場面に出くわすと、東洋的な自然観や身体観が表出してくる傾向がある。

この場合、どちらが正しいとか優れているかということよりも、主観と客観を明確に分けて理解することが肝要である。具体的にいえばラジオ体操を行う時にも「からだの言いぶん」に傾聴するように静かな意識で行なえるとよい。

そもそも人間が意識を使わずに生活するなどということ自体が不可能である。だからこそ人間にも意識以外のはたらきがあることを自覚し、これを主体的に訓練する必要性を野口整体は一貫して主張してきたのである。

安易な発想だがラジオ体操の後で偏り運動を正す意図で活元運動を行うと面白いかもしれない。あれはよいけれども、これはダメ、というのではなく互いに補償し合う関係として相乗的に活かす道を開拓することが大切である。こうした西洋・東洋に関する発想は河合隼雄のものでこれについては『ケルト巡り』よく記されている。

このような視点で観ていくかぎり近代文明上に生じる様々な問題を立体的に捉えることができる。意識以外のはたらき、潜在意識や無意識といかに付き合っていくかということが現代をよく生きるための鍵なのだ。

整体生活

気がつけば「野口整体」という言葉を最近口にしなくなった。巷でもあまり聞かなくなったような気がする。

なんというか、2002年に『整体入門』がちくま文庫に入った時が第一次のピークだったように思う。

私が整体法の存在を知ったのが2005年だったので、今にして思えばインフラの波に乗っかった形なのだろう。

それから徐々に小康状態になりつつあるも、最近は「体癖」だけが整体法から遊離して一人歩きしている感がある。

さて本来の整体ということを考えていくと、つまるところそれは「生き方(=死に方)」に集約される。私の先生はそれを「心の態度」と言い表していたけれども、まあそういう面が強い。

野口先生が治療から体育指導、そして教養の付与という在り方にシフトしたことからいえば、同氏の最晩年10年間師事した私の先生が心の態度と表現したのは尤もである。

「整体」であるためには「整体を保って生きよう」という意欲がまず要求される。その結果整体生活が形成されていくのだ。

一口に整体生活といっても、それは何だろうか。この前の教室で整体生活とは何?という話しになって、ちょっと詰まってしまったので考えた。

風邪を引いたら足湯をすることだと思っている人もいるみたいだがそれは違う。足湯は一つの方法論で、これが整体だといったらそれはもう形骸化した死にものである。

薬を飲まない、ということが印象につよく刻まれる方もいるだろうがこれも違う。そもそも野口晴哉は薬を飲まないことを要求していない。

これらはみな整体生活の結果として生じてくる副産物であり、影に過ぎない。

整体生活を端的にいえば「裡の要求を活かす生活」ということになるだろうか。「全生」という言葉もあるけれども、こういう言葉は下手をすると人を観念の遊戯に陥れてしまうから注意がいる。

全生せよ、要求を活かせ、というとそれだけで何か立派なことをやっているような気がしてくる。自分が実質的に何にも変わってなくても、人が集まってお題目を唱えていると群集心理で昂揚する。

こういう類のものは目の前の憂慮から一時的に目を背けられるから中毒性がある。なかなか厄なのだが昨今は似非宗教でも自己啓発系の団体でもこういう心理構造を使って顧客を囲い込んでいるものが多い。

あるいは自分勝手な我見を振り回し、要求を垂れ流して生きることが自然でありそれが整体だと思われたらこれもとんでもない誤解である。

リベラリズムやアナーキズムと混同されることもある。整体実践者を標榜するものの態度や外見にも問題があるのかもしれない。

少なくとも上の二つには対立する別のイデオロギーがある。今まではこういう価値観や考え方だったからダメなんであって、これからはこうすべし、という行き方である。

しかしそれはもう相手の考え方に捕まっている。考え方は所詮考え方で、時代や地域が変わればいくらでも湧いて出てくる。そして決着を見ない。イデオロギーのある所には必ず対立と闘争がある。平和主義者も反平和主義者と対立し、時には戦争もする。

整体はただ一言、考え方を離れよ、という。そういう意味では禅に近い。というか同根である。つけた花の色が違うだけで、理想とする完成形は同じなのだ。

感じて、動く。そこに秩序がある。というか自ずと秩序が現れるように体を整え生活することである。体が狂っていれば要求もおかしくなる。こういうものを野放図にしてはならない。

人間を含む生命体にはもともと内的秩序がある。これを敬い、自我をその下位に置いて慎む。これは東洋的な自然観だ。文学的にいえば心を無にすれば秩序が現れる、という。それを老子は「道」といい、荘子は「遊」の中にこそ生命は輝くという。

これとは反対に西洋の機械論は「秩序は人間の智によって生み出すもの」と考えて来た。カオスは混沌と訳されるが、あれは言ってみれば滅茶苦茶という意味である。

荘子のいう渾沌は人間の手の付けられない域にいつも整然とあり続ける、絶対的秩序を意味している。

例えば「働かざる者食うべからず」というのは外からの強制であり、個人の中にある放縦を睨みつける心があるけれども、「一日為さざれば一日食わず」といったらこれは内的な自律の心である。動かなければ腹は減らないのも生理的な道理である。

誤解がないように言っておくと東洋が西洋よりも優位だなどと言うつもりは毛頭ない。西洋文明の優れている点は日本の近代史をみればいくらでも見出すことはできる。

だからといって近代以降西洋一辺倒で発展して来た我が国がその飛躍の影にいかに多くの問題を生んできたかを考えると、西洋と東洋のいずれが優位かという判定を一元的に下すことの難しさがわかるだろう。

ただ整体には整体の原理があるわけで、我々日本人がこれを理解するためには東洋的自然観及び生命観を再認識することが有効だと思うのである。

認識や分別心を極限まで鎮めた時に心の平安と体の平衡が実現する。これは工夫の上に工夫を重ねて病気を駆逐し、ようやく健康を実現させようという西洋医療の視点からは完全に死角になっている。

ではその自然の秩序を体現するにはいかにすればいいか、ということが最も重要である。整体も禅も観念の遊戯ではない。いまここで実践してはじめて現れるものである。

これはいろいろなことが言えるけれども、今の私が一言で表すならそれは「独りになる」ことである。

しかし集団生活を離れて勝手気ままな生活をする、ということではない。集団の中にあっても独りの時間を作り出しこれを大切にする、ということである。

なにも結跏趺坐を組まなくてもいいから心を虚とか空のようなイメージで、ポカンとした状態を作ってそのままそっとして置く(ただし眠ってはいけない)。そうすると自ずと考え方が止んでくる。

野口は自らの整体法を「虚の活かし方也 無の活動法也」と説いているが、ポカンとすることはその源泉ではなかろうか。

道元禅師は「心意識の運転を停め、念想観の測量を止め…」と言っているけれどもこれに非常に近いものを感じる。

そしてこんな軽微なことでもいざ実践するとなると現代はなかなか難しい。街に出れば無数の音や光が飛び交っている。家の中にいてもいろいろな刺激が飛び込んでくる。こう考えると、独りになることの難しさや価値がわかるだろうか。

「独りになる」をもう少し即物的にいえば脳の働きを切り替える、といったらわかりやすいかもしれない。

野口先生は「良い頭はみなポカンとするのです」といったそうだが、ポカンとしない頭はどんなに「優秀なこと」を考えていよう悪い頭だということになる。

最近の脳科学ではこのポカン状態の時に脳内にあるデフォルトモードネットワークなるものが活性化していることを発見した。意識と無意識を巻き込んだこころの創造的活動はこの時に行われるのだという。

ここからさらに静の状態を保ち続けるとやがて「ただ事実に触れている」というか、事実そのものになりきっている自分に「後から」気づく。

これを禅では見性とか成道(じょうどう)とかいうけれども、まあ別にそんな特殊な言葉を持ってこなくてもいいかもしれない。

ともかく現代はこういう心の状態、意識の状態を意識的に作ろうとしないことにはままならない。

これは新渡戸稲造が『修養』という本の中にも同様のことを書いているけれども、意識の働きを積極的に鎮めることが現代社会における修養、養生の急所なのである。

整体法の場合は、もう何度も言っているように活元運動がその方法である。整体生活とは取りも直さず活元生活なのである。

活元運動は決して不思議な健康法などではない。禅では「惺惺著」というけれども、あくまで合理的な自我の覚醒下に行われる高度に洗練された身体技法といって差し支えないものである。

この活元運動を行うこと、そして独りの時間を作ること、こういったことが整体生活を支える柱となるはずである。

やろうと思えば誰でも今すぐできる、やりたくなければやる必要はまったくない。大道無門の世界だが狭き門にするのも当人次第といったところだろうか。

脳幹トレーニング

脳幹トレーニングのことを調べていたら久しぶりに戸塚宏氏の本に突き当たった。戸塚氏は遡ること80年代に暴力による度重なる死傷事件で有名になった戸塚ヨットするクールの校長である。

もう10年以上前になるが『敵は脳幹にあり』をはじめとして同氏の著作を何冊か読んだ。児童の非行・不良化の問題から花粉症に至るまで、現代病の真因を脳幹の不活発に見い出したという戸塚氏の卓見は当時野口整体まっしぐらだった私の心を捉え、その核心的ロジックに目を見張ったのである。

そもそも野口晴哉の主張の中には近代文明の複雑化に対する警鐘と、それを生み出した人間の知の複雑化に対する憂慮であった。

こう書くとまた要らぬ誤解を招くかも知れないが、野口の主張の根底にはいつも「自然の生命に帰れ」という信念があった。つまりそれは人間の高度に複雑化した思考体系よりも原始的感覚と本能を上位に置くものである。

当時の日本が前近代から近代に向かう奔流の中にありながら野口は独り静観を保ち、早くから科学文明の利点と限界、問題点を看破してその先を見据える超近代的視点を持っていた。

これに因んだ話として「こうも頭で生きる人が多くなってしまった。」という野口の言葉を、私の先生は折に触れ繰り返し反芻していたので記憶の中に色濃く刻まれている。

くだけた言い方をすれば「難しく考えすぎるな」ということになると思うが、現代はとかく複雑に考えて答えを出そうとしたあげく正解を見失い、迷子になっているケースは少なくない。

卑近な例を挙げるなら、食養生法や栄養学を学ばなくても体に必要な食べ物は「うまい」と感じるように我々の体は最初からできている。

運動して汗をかけば塩辛いものがおいしいし、デスクワークで筋肉が疲労していなければ自然とごはんではなくお菓子に手を伸ばしている。

現代の子どもがお菓子ばかり食べて云々という批判は絶えないが、これはエネルギーの消耗度合に応じた自然の反応である。

運動欲求の塊のような子どもたちを狭い教室に押し込んだうえに、帰宅後はすぐに宿題を済ませて塾に通わせるという大脳主体の生活を強いている限り、栄養豊富で食べ応えのあるお母さんの手料理よりも、酸化したスナック菓子や有害な人工甘味料に走る子どもの数は減らないはずである。

話しがわきに逸れたが、なぜ脳幹トレーニングが現代社会に求められるかと言うと、こと教育や医療のような生命に直接貢献する物事に関しては、考えることよりも感じる方が迅く正確だからである。

よって最初に戻るが、当時戸塚氏が請け負った「非行少年」や「問題児」たちがヨットに乗りながらこれらの問題を早期に回復していったメカニズムを脳幹の活性化に集約したことは瞠目に値する。

もちろん戸塚ヨットスクールの体罰を伴った訓練によって少なからぬ死傷者が出ていることはまぎれもない事実であり、その圧巻ともいえる脳幹理論だけをもって全面的に肯定することはできない。

とはいえ実質的に青少年の更生や病気治癒に成果をあげている面もある訳で、都合のいい考え方をすれば、同氏の訓練の中から過剰な体罰や危険性だけを排除して「安全に」脳幹を刺激できればいいはずである。

ただしこれも注意が必要である。そもそも劇薬というのは強い毒性によってその効果も支えられているのである。したがって上に書いたようなことを実行すれば、ヨットスクールの強力なトレーニングも巷にあふれる毒にも薬にもならない「安全な」教育メソッドや健康法に堕してしまうことも大いに考えられる。

そもそも脳幹というのは人間の中でも生理的な生命維持に関わる機能が集中した部分であり、言わば野性の中枢とも言える部位である。

ここを活性化することは、人間が人生を逞しく生きていく力や、病症を自力で経過するための治癒力を高める上で非常に重要な意味を持っている。

そこで海上にヨットを浮かべその上で海に落ちる恐怖と闘いながら倒さないように操作することで平衡感覚を刺激し、脳幹の活性化を図るというのが戸塚氏の理論に含まれている。

実の所こうしたグラグラする不安定さの中で体勢を保つ訓練法は、成人のスポーツや健康法から子どもの遊びに至るまでいろいろな例がある。

例えばヨガやピラティスで行われる片足で立って体を支えたり、片手片足で体幹をキープしたりする訓練にも、似たような効果が期待できそうである。

それから相撲の基本である四股は百キロを超える巨体を片方の足の裏だけでバランスを取って支えるのである。これを毎日毎日繰り返すことで、やはり脳幹は一定訓練されていくと思われる。

遊びという観点からいえば、スケボーや一輪車、サーフィンなど、探していくときりがない。

私の立場からいえば活元運動を勧めるべきなのかもしれないが、なにぶん客観的データを持ち合わせていないので活元運動を脳幹トレーニング法として断言できないのは残念である。

それにしても野口整体の持つ様々な手法を見ていくと、脊髄神経及び脳幹を直に刺激することで人生を逞しく生きている力を煥発する、或いはしようとするものが多く含まれているように思われてならない。

操法のはじめに背骨から着手する点などはその端的と言えるだろう。良い指導者の導きによって良質の活元運動に導かれると自然と思考は沈静化し、ポカンとした平安の境の至ることは体験した者の多くが知るところである。

しかし世相は全般に脳幹よりも前頭葉及び大脳新皮質を刺激する方がもてはやされている。具体例を挙げれば青少年の非創造的記憶訓練所と化している受験塾などは言うに及ばず、スマホのゲームや脳トレなどと言われるものもほとんどが視覚に頼って文字や数字の情報を処理していくものが大半である。

言わば野生の否定と放棄を意味しているもので、これでは人間が亡びに向かっていると言われても致し方ない。しかし今の高度な文明社会も人間の生存欲求が生み出したもので、どこまでが自然でどこからが人工的か、などと考えはじめると必ずグレーゾーンに迷い込み明確な線引きなどはとてもできない。

しかし人間も動物であり自然の生物である以上、死の要求もあれば生存の要求もある。今さらながらどこからともなく「脳幹が大事だ」などと言い始めたのも、自然から逸脱した社会の中で生き残るための無意識の平衡要求と言えなくもない。

理性を伴った意識は客観性に偏るがゆえに、これが過剰に働くともっとも原初的な生存欲求としての「感じる」機能が退縮する。

だから大脳主体の生活では効率的にうまく生きる方法は「考え出せ」ても、如何に生きるかという根源的な問いに関しては脆くなってしまうのである。

生命力を喚起する方法は昔も今も体感的刺激を通して脳の働きを支配し、意識の判断には拠らず無意識からやってくるものに傾聴することに尽きる。

人 瞑想せよ/静かに坐して/「我あり」と

これは野口整体の根幹を表す野口晴哉の言葉だが、脳幹トレーニングという観点から新たな裏付けを感じた次第である。

体得

体得という行為が世の中から失われつつある。

体得は体を通じて自認されるべき知識や技術であって、スポーツとか芸事、あるいは職業的な技能などは当然ながらこの体験によって会得するというプロセスが重んじられる。

しかし上に述べたような事柄以外、いまは大半のものが「調べる、分かる」ということでカタが付いてしまう。

学校の勉強、あるいは試験勉強などがその典型といえる。これはインターネットの普及と切っても切れない問題だろうけれども、この「調べる、分かる」というプロセスが体得に代わって現代の価値観を席巻してしまった。

非対面であらかじめ作られたプログラムを受動するeラーニングなどが現時点の最終形態といってもよさそうだが、ひとことで言えば「知る」という行為が過剰に幅を利かせてしまったのだ。

これはこれで便利な側面もあることは認めるけれども、体、体験というものが忘れ去られてしまったことの損失は前者の利点のみで補いきれるものではない。

私の立場からいうと教育と医療というこの二つの分野において、経験よりも情報の授受が先立っていることが気にかかる。

学校ではとにかく「覚えさせる」という、記憶に重点を置いた教育になってから、かれこれ一世紀が経とうとしている。

物事に直面した時に記憶に頼らなければならないのは当人の創造性の欠如に他ならない。

したがって子どものうちから記憶することを繰り返し訓練することは、既存の知識群のインプット・アウトプットに頼ることであり、創造性という観点から見れば頭を良くするどころか却って悪くする行為となりかねない。

その証拠に記憶することが達者な子どもほど難関大学を出て国家の中枢を動かしているものだから、現今の日本の行政は未曾有の出来事に直面したときの応用力や瞬発力というものが著しく乏しい。

医療にしても同様である。科学によって標準医療と言うものが一律に定められているために、今では現場の医師が個人的体験を基に主観を働かせる余地は異常に狭くなっている。

予め決められた判定基準に基づいて患者を診断し、診断の結果が出たら同様に定められた処置をする。これなら医療者が人間である必要はないではないかと思っていたら、個人的にもっとも危惧していたオンラインクリニックなるものまで出来上がってしまった。

未熟な主観に頼るのは勿論よくないが、客観的事実の集積によって総体を理解し得るという考え方は旧世代から引き継いだ悪癖である。

当面はまだ人間の介入が必要だろうが、早晩システムの管理職を除いて、現場から生きた人間の体温は徐々に失われていくことになるだろう。

なんというか「時代の流れ」というひとことでは受容しきれない異臭を日々嗅がされている気分である。

こういう世相なものだから自分のような者にも仕事があると言えばその通りなのだが、どうにもならない潮流の中でどうにかしようと足掻くことがライフワークとなりつつある。

体得から焦点がずれてしまったけれども、総じて体というものが忘れられたことによって、歳月をかけて「体で学ぶ」という文化は今後さらに希少的価値を帯びてくるだろう。

そこで何を体得するかは重要である。それが西洋発祥の随意筋を主体とした競技スポーツ、あるいはそれに付随する体操や運動ではないというのがもっぱらの自論である。

スポーツは体育としてなかなか優秀な面も合わせ持ってはいるのだが、いかんせん「競わせる」という意識が強すぎるために個人の運動能力を無視して肉体に過度なストレスがかかりやすい。

体育を目的としたスポーツをやりながら怪我や故障が頻発するというのはパラドックスなのだが、こうした矛盾が看過されたまま青少年の健全な育成にまで適用されているのは問題だろう。

弾力のある丈夫な体を育むためには随意と不随意、意識と無意識といった身心の陰陽を同量に刺激するものでなければ片手落ちである。

現代は学業でもスポーツでも常に競争にさらされ、子どもたちは意識過剰の環境の中で日々苦闘をしいられているのだ。だからこそ感情や意識以前の心と一体となって動く不随意筋群と錐体外路系を主とした体育こそがいま暗に求められているのだ。

その具体的方法としてさしあたり活元運動と禅はどんな人にも一様に勧められる優れた方法なのである。

ここに至って、無意識的思考、無意識的動作の訓練に重きを置いて来た日本文化の奇特さを再考することが、近代文明の今後を考える上で大きな意味を持つ。

「意識が閊えたら意識を閉じて無意識に聞けばいい」といった野口晴哉の言葉は時代や地域性を超えた普遍性を有しているのだ。

いのちの力を解放する鍵は体なのである。体を畏れ、体を敬い、幽かな慎みをもって今日を生きてきた旧来の日本的霊性を一日も早く取り戻し、その上にもう一度近代文明を据えることができたらそれが私にとっての丘の上の町であり、一つの理想郷だとも考えている。そこに至る道はやはり体得より他にないであろう。

迎春

昔の思い出になるが私の実家に父が彫った寅年用の木版画があった。おそらく48年前のものだろう。

細密な虎の画のわきに「迎春」と彫られていたのが記憶に鮮明である。この寒いのに、花も付かないのに、どうして春なのか、とうのが子ども心に疑問だったのだ。

それから幾ばくかの歳月が過ぎた。すると迎春とか新春、あるいは頌春などと、年が切り替わる一月一日に春を見出した昔人の感性に親しみと敬意を覚えるようになってきた。

自然との共生が要であった往時の人々は、田んぼの水引きでも収穫でも、気候や天気と一体になって動かなければならなかったのだ。

自然から切り離された近代的な自我で、「我がまま」に生きるということは許されない。具体的事情をいえば我を通せばそれだけ生存率が下がるのである。

そして自然と共生するためには、先に起こることが予感、直感されなければならない。オーケストラの指揮者のように、演奏者の次なる調子を引き出すためには先を知っていたうえで半歩リードするという技術がいる。遅ければ無論だめだし、早過ぎても意味がない。

翌年の夏が冷夏になると予見して、米ではなくヒエを植えて難を逃れた二宮尊徳の話は有名である。

だから夜が明ければ朝になることは当然としても、その時に雨が降っているのか風が吹くのか、また月が出ているのかわからなければならない。

そして冬が明ければ当然春である。今日が寒いからと言って今日に適応するだけの動きでは次の波に間に合わない。考えて動くものは一つ遅れる。そしてその間に生命の機は去っていくのだ。

ここで「なるほど、昔の人はそれだけ優れていたのだ」といってしまうと、現代人としての学びも創造性もなくなってしまう。

実際的には現代を生きる我々の中にも「先を知る力」は常に働いているのだ。わかりやすい例をあげれば、受胎した人の体は10ヶ月後に何が起こるかを知っている。

たとえ当人がそのことを無自覚であったとしても、また解剖学など何も知らなくても、乳房は将来の赤ん坊のために発達し、腰椎や骨盤も来るべき出産に備えて日々なだらかに可動性が増していく。

また自分の体内だけでなく、外界との感応、外気や気候のようなものとの相関性もある。

例えば日本なら夏末にはもう筋骨が引き締まり、寒さに備え始めているし、そうかと思えば初夏を前にもう皮膚はゆるんでくる。つまりは地球の自転や公転、すなわち太陽系の動きと一つのリズムになって動いている自分というものが最初からあるのだ。

無意識の、こうした絶え間ない働きによって、平素から我々の無事は保たれているのである。

この無意識と親しむ時間が、現代を生きる我々からだいぶ縁遠くなってきている。文学的にはアダムがリンゴをかじった瞬間に「意識」という分別心が生じ、自分が世界から孤立したことになっている。

だからその「自分以外」のものの象徴として神様とか阿弥陀様とかいろいろな名前をつけて、もう一度親しみを取り戻そうとする動きが宗教の行為の中には沢山にある。

しかし意識化されたらそれはもう無意識ではない。多くの人はそれを神様とか仏様とか言っているけれども、客観的に示した人はやはりいない。いのちの真相は私から最も遠くて近い存在なのだ。

この無意識に最も近い認識作用が「感覚」なのである。

最初に感覚されるものがあって、のちに意識の窓を通り理性の検閲を受け、ようやく行動化されるというのが人間の特徴である。

この「感覚する(させられている)」という、生きるうえで重要な工程がだんだんと思考や文字の世界に圧迫され、一路萎縮の道をたどっているのが近代人の特徴といってよいだろう。簡単に言うと生の感覚が鈍っているのである。これによってどうなるかというと、思考が現実から遊離するのだ。「机上の空論」などという言葉は、思考の産物である科学の陥穽を簡潔に言い得た言葉である。

生活に則したところで考えると、天気予報や災害警報のインフラ拡充はこうした鈍麻に拍車をかける要因の一つではないか。いや鈍っているからこそ、そこに需要と供給が生じたのかもしれないし、これは鶏と卵の理論でどちらが先かはわからない。うるさいことをいえば、折りたたみ傘などというのも雨の予知ができなくなった人間には重宝な装備である。

実際、一度ふいの雨に打たれた経験のある人がいつでも傘を持って歩くことがある。羹に懲りてなますを吹くという言葉の通り、頭が記憶に占拠されて、今の現実認識がくもるのである。

その点で感覚という作用は原始的な生き物の方がむき出しに近い。我々は遠い海の海溝で起こった噴火をずいぶん後のなってから他人の作ったニュースで知る訳だが、海亀ならば津波のある年には海浜からずっと上がったところに卵を産むという。また樹木なども干ばつの起こる年はあらかじめ幹の中に水分を余分に蓄えている、という話も聞いたことがある。原始生命に近い両生類のカメや木々にはあたりまえの所作でも、大脳の発達した人間にはなかなか難しい芸当である。

東日本大震災の折には荒れる海をスマホで撮影していた子供がそのまま津波に吞まれてしまったという報道があった。

高度に発達した近代文明の象徴とも言える小型化されたコンピューターを握って水没する人間の姿に、私は人類の末期的症状を見ることを禁じ得ない。それが本来敏感であるはずの子どもであったという事実も傷ましい。

人間の子どもは一人でに大きくなるということはない訳で、高度な感受性を具えて生まれて来る子どもを鈍麻させる環境にこそ本当の災いがある、と思う。一方でその環境を配備した大人は大人の知恵で難を免れているというのだから、古きものが生き残り新しきが死んでいくという構図に、私は種としての未来を感じないのである。

年明け早々暗い話に傾いてきたが、ここからようやく整体愛好者の我田引水がはじまる。

こうして鈍りの一途をたどろうとする人間の生の感覚に活を入れ、再生せよというのが整体法の主張なのである。

無意識、そして錐体外路系のはたらきというのは宇宙の運行と機を一つにするものである。たとえ人間という種が姿を消しても、この世界から平衡運動が消滅することはない。つまり易経の天行健である。

どんなに鈍った鈍ったといっても、体温が10度以下で動いている人もいなければ、43度という熱を出す人もいない(もはや「人工的」には起こりうるかもしれないが)。アナログ体温計のメモリが42度までしないということがこの生命の秩序を黙して語る。

そして一分間の呼吸が18ならば、脈は72である。この一息四脈というリズムは整った体を象徴する数値であり、速くとも遅くとも、この比率からズレると元へ帰ろうとする動きが即座に起こる。熱や発疹などはこの平衡作用の代表的なものの一つである。

だから問題の核心は、この働いている秩序を害悪とみなして矯正または排除に奔走するのか、逆に善なるはたらきとみなして共感と活用へ向かうのかという分岐にある。

換言すると、病症のはたらきを生命を傷つけ死に至らしめる破壊作用としか認めないのか、あるいは破壊の中にある再建という生命の適応作用を観るのかという違いである。

後者であれば自らの病症経過の苦痛の中にも、自然整体作用の快感を見出すことも不可能ではない。

しかし現実は、病気は悪であり無病が善であるという二元論、そして病気の原因をウィルスや菌という外因にしか認ようとしない特定病因説が大勢を占めている。この事実からも近代科学のもたらした偏狭な視点がグローバル化の波と一体となって地球を席巻していることは明らかである。

その要因の一つが現代人の近視眼的視野狭窄があり、そのまた奥の要因として息の浅さ、そして不整体があるというのが整体愛好者による我田引水的視野狭窄である。

繰り返すが天行は健である。天地自然、この世界の全ての運行は最初から健やかさを失わない。この健の見えざるは近代自我の過剰亢進と似非科学の盲信によるものである。

人間の世の中が如何に変わっても、自分を離れていのちは存在しない。だから私は活元運動を通していのちの真相を自覚する人を、今年も一人でも多く増やしたい。それこそが人間の進歩だと考えているからだ。

ここに至って「たとえ、百年かかっても、二百年かかってもよい。一人一人が、整体の考えを実現するよう行動してゆけばよい」という野口晴哉が生前発した言葉に、自らが宇宙の息と一つになって全うした生の荘厳さと息の深さ、そこから生じる視野の遠大さを感じるのである。

真理というものは、世の中が乱れれば乱れるほど、対比の構造によって一層明瞭になっていく。だとすれば、今ほど整体の価値が光る時代もないだろう。晴哉の見い出したいのちの世界に理解と共感を覚える人を増やしながら、着実に歩を進めていきたいと意を新たにする次第である。

教室のお知らせ

2022年1月 の教室を下記の日程で行います。

13日(木)10:00-12:00 活元指導
13日(木)13:00-16:00 愉気の会
29日(土)10:00-12:00 活元指導
29日(土)13:00-16:00 愉気の会

参加希望者は前々日までにお申し出ください。

今月の教室

12月の教室は下記の通りです。

9日(木)活元 10:00-12:00
9日(木)愉気 13:00-16:00
10日(金)座学 10:00-12:00
25日(土)活元 10:00-12:00
25日(土)愉気 13:00-16:00
26日(日)座学 10:00-12:00

参加希望者は前々日までにお申し込みください。

11月の活元会

11月活元指導の日程は下記の通りです。

2021年11月
4日(木)14:00-16:00
13日(土)14:00-16:00
18日(木)10:00-12:00
27日(土)10:00-12:00

参加希望者は各開催日の前々日までにお申し込みください。

10月の活元会

下記の日程で活元会を実施します。

2021年
10/14(木)10:00-12:00
10/23(土)14:00-16:00
10/31(日)10:00-12:00

今月は第4週(土)が午後の時間となっていますお気を付けください。

また第5週は日曜日に行います。普段はご参加いただけない方もご検討ください。

活元指導

活元指導教室の告知をしばらくブログで行なっていませんでしたので、こちらにご案内いたします。

現在は原則月の第二木曜日、第四土曜日に活元運動の指導を行っています(臨時変更有)。

本家サイトでは教室の日程を随時更新していますので、今後はそちらを中心にご確認ください。

参加につきましては、原則的にせい氣院の整体個人指導を継続的に受けられている方に限ります。

整体法に対する理解の浅い方、体験目的の方はご遠慮ください。

自分で自分の身体を管理し、健康保持とその生き方責任を持とうという意志のある方はその旨をお書きのうえご応募ください。