整体生活

気がつけば「野口整体」という言葉を最近口にしなくなった。巷でもあまり聞かなくなったような気がする。

なんというか、2002年に『整体入門』がちくま文庫に入った時が第一次のピークだったように思う。

私が整体法の存在を知ったのが2005年だったので、今にして思えばインフラの波に乗っかった形なのだろう。

それから徐々に小康状態になりつつあるも、最近は「体癖」だけが整体法から遊離して一人歩きしている感がある。

さて本来の整体ということを考えていくと、つまるところそれは「生き方(=死に方)」に集約される。私の先生はそれを「心の態度」と言い表していたけれども、まあそういう面が強い。

野口先生が治療から体育指導、そして教養の付与という在り方にシフトしたことからいえば、同氏の最晩年10年間師事した私の先生が心の態度と表現したのは尤もである。

「整体」であるためには「整体を保って生きよう」という意欲がまず要求される。その結果整体生活が形成されていくのだ。

一口に整体生活といっても、それは何だろうか。この前の教室で整体生活とは何?という話しになって、ちょっと詰まってしまったので考えた。

風邪を引いたら足湯をすることだと思っている人もいるみたいだがそれは違う。足湯は一つの方法論で、これが整体だといったらそれはもう形骸化した死にものである。

薬を飲まない、ということが印象につよく刻まれる方もいるだろうがこれも違う。そもそも野口晴哉は薬を飲まないことを要求していない。

これらはみな整体生活の結果として生じてくる副産物であり、影に過ぎない。

整体生活を端的にいえば「裡の要求を活かす生活」ということになるだろうか。「全生」という言葉もあるけれども、こういう言葉は下手をすると人を観念の遊戯に陥れてしまうから注意がいる。

全生せよ、要求を活かせ、というとそれだけで何か立派なことをやっているような気がしてくる。自分が実質的に何にも変わってなくても、人が集まってお題目を唱えていると群集心理で昂揚する。

こういう類のものは目の前の憂慮から一時的に目を背けられるから中毒性がある。なかなか厄なのだが昨今は似非宗教でも自己啓発系の団体でもこういう心理構造を使って顧客を囲い込んでいるものが多い。

あるいは自分勝手な我見を振り回し、要求を垂れ流して生きることが自然でありそれが整体だと思われたらこれもとんでもない誤解である。

リベラリズムやアナーキズムと混同されることもある。整体実践者を標榜するものの態度や外見にも問題があるのかもしれない。

少なくとも上の二つには対立する別のイデオロギーがある。今まではこういう価値観や考え方だったからダメなんであって、これからはこうすべし、という行き方である。

しかしそれはもう相手の考え方に捕まっている。考え方は所詮考え方で、時代や地域が変わればいくらでも湧いて出てくる。そして決着を見ない。イデオロギーのある所には必ず対立と闘争がある。平和主義者も反平和主義者と対立し、時には戦争もする。

整体はただ一言、考え方を離れよ、という。そういう意味では禅に近い。というか同根である。つけた花の色が違うだけで、理想とする完成形は同じなのだ。

感じて、動く。そこに秩序がある。というか自ずと秩序が現れるように体を整え生活することである。体が狂っていれば要求もおかしくなる。こういうものを野放図にしてはならない。

人間を含む生命体にはもともと内的秩序がある。これを敬い、自我をその下位に置いて慎む。これは東洋的な自然観だ。文学的にいえば心を無にすれば秩序が現れる、という。それを老子は「道」といい、荘子は「遊」の中にこそ生命は輝くという。

これとは反対に西洋の機械論は「秩序は人間の智によって生み出すもの」と考えて来た。カオスは混沌と訳されるが、あれは言ってみれば滅茶苦茶という意味である。

荘子のいう渾沌は人間の手の付けられない域にいつも整然とあり続ける、絶対的秩序を意味している。

例えば「働かざる者食うべからず」というのは外からの強制であり、個人の中にある放縦を睨みつける心があるけれども、「一日為さざれば一日食わず」といったらこれは内的な自律の心である。動かなければ腹は減らないのも生理的な道理である。

誤解がないように言っておくと東洋が西洋よりも優位だなどと言うつもりは毛頭ない。西洋文明の優れている点は日本の近代史をみればいくらでも見出すことはできる。

だからといって近代以降西洋一辺倒で発展して来た我が国がその飛躍の影にいかに多くの問題を生んできたかを考えると、西洋と東洋のいずれが優位かという判定を一元的に下すことの難しさがわかるだろう。

ただ整体には整体の原理があるわけで、我々日本人がこれを理解するためには東洋的自然観及び生命観を再認識することが有効だと思うのである。

認識や分別心を極限まで鎮めた時に心の平安と体の平衡が実現する。これは工夫の上に工夫を重ねて病気を駆逐し、ようやく健康を実現させようという西洋医療の視点からは完全に死角になっている。

ではその自然の秩序を体現するにはいかにすればいいか、ということが最も重要である。整体も禅も観念の遊戯ではない。いまここで実践してはじめて現れるものである。

これはいろいろなことが言えるけれども、今の私が一言で表すならそれは「独りになる」ことである。

しかし集団生活を離れて勝手気ままな生活をする、ということではない。集団の中にあっても独りの時間を作り出しこれを大切にする、ということである。

なにも結跏趺坐を組まなくてもいいから心を虚とか空のようなイメージで、ポカンとした状態を作ってそのままそっとして置く(ただし眠ってはいけない)。そうすると自ずと考え方が止んでくる。

野口は自らの整体法を「虚の活かし方也 無の活動法也」と説いているが、ポカンとすることはその源泉ではなかろうか。

道元禅師は「心意識の運転を停め、念想観の測量を止め…」と言っているけれどもこれに非常に近いものを感じる。

そしてこんな軽微なことでもいざ実践するとなると現代はなかなか難しい。街に出れば無数の音や光が飛び交っている。家の中にいてもいろいろな刺激が飛び込んでくる。こう考えると、独りになることの難しさや価値がわかるだろうか。

「独りになる」をもう少し即物的にいえば脳の働きを切り替える、といったらわかりやすいかもしれない。

野口先生は「良い頭はみなポカンとするのです」といったそうだが、ポカンとしない頭はどんなに「優秀なこと」を考えていよう悪い頭だということになる。

最近の脳科学ではこのポカン状態の時に脳内にあるデフォルトモードネットワークなるものが活性化していることを発見した。意識と無意識を巻き込んだこころの創造的活動はこの時に行われるのだという。

ここからさらに静の状態を保ち続けるとやがて「ただ事実に触れている」というか、事実そのものになりきっている自分に「後から」気づく。

これを禅では見性とか成道(じょうどう)とかいうけれども、まあ別にそんな特殊な言葉を持ってこなくてもいいかもしれない。

ともかく現代はこういう心の状態、意識の状態を意識的に作ろうとしないことにはままならない。

これは新渡戸稲造が『修養』という本の中にも同様のことを書いているけれども、意識の働きを積極的に鎮めることが現代社会における修養、養生の急所なのである。

整体法の場合は、もう何度も言っているように活元運動がその方法である。整体生活とは取りも直さず活元生活なのである。

活元運動は決して不思議な健康法などではない。禅では「惺惺著」というけれども、あくまで合理的な自我の覚醒下に行われる高度に洗練された身体技法といって差し支えないものである。

この活元運動を行うこと、そして独りの時間を作ること、こういったことが整体生活を支える柱となるはずである。

やろうと思えば誰でも今すぐできる、やりたくなければやる必要はまったくない。大道無門の世界だが狭き門にするのも当人次第といったところだろうか。