ケルト巡り④‐ドルイドと魔女

ドルイドとはかつてケルト人が信仰していた自然崇拝を実践する宗教の司祭のことである。アイルランドではこのドルイドを復興しようという運動が起きているという。

また今のアイルランドには魔女もいるのだという。といっても古い童話やSF映画に出てくるようなおどろおどろしい「魔女」ではなく、現代にマッチする形で「witch(ウィッチ)」という看板を出し、相談料金まで掲げて開業しているというから面白い。というよりも魔女に対するおどろおどろしいイメージ、あるいは悪や負の印象が付与されたのはキリスト教伝播の影響ではないかと著者は推察している。

魔女だとちょっとピンと来ないかもしれないが、日本でいえば明治維新前までは同じ呪術を扱うものとして修験道を行じる山伏がいた。彼らは加持祈祷によって療病や厄除けを行っていた点において、ヨーロッパの魔女にも少し似ているのではなかろうか。かなり大雑把にいえば、現代でいうところの町医者と占い師と宗教家の役割を山伏が担って、近隣に住む人々の悩みを請け負っていたのである。

中にはいかがわしいものが混在していたかもしれないが、近代化以前の日本人はこうした民間信仰の力によってある程度心身の安寧を得ていたとも考えられる。

しかし幕末から明治にかけて西洋列強の勢力に抵抗するために、彼らと同質のパワーを早期に身に着けなければならなくなった。そのため欧米の文化を猿まね式に模倣していったのである。

為政者が欧米式の唯物主義、合理主義を国内に浸透させようとするときに、客観性が乏しく効果を視覚化しづらい呪術行為が市井に跋扈しているのは好ましくない。よって日本の新政府は法令によって修験道を禁止したのだ。つまり山伏たちの行う民間医療や加持祈祷が違法になったのである。この法令により当時17万人とも18万人とも言われた山伏たちが離職を余儀なくされた。これはキリスト教が広まっていく中で魔女が異端視され、排他されていった過程にも重なる。

修験に関してこれ以上の詳しい説明は省略するが、ここで伝えたかったのはキリスト教文明の持つ論理性と排他性の強さである。中世の魔女狩りがその象徴だが、〔神-人-自然〕という形で世界を峻別するキリスト教のドグマは、やがて自我を中心に他を分析的に理解していく自然科学を生み出した。科学を主要パラダイムとする民族は外界に漂う曖昧な闇を次々と知の光で切り拓いていく。そして自我の欲望を充足するために自然界の中に割り入って突き進んでいくのである。

しかしこのような態度は自然を過度に浸蝕・破壊したり、人間関係においても衝突を激化たりすることが、世界中のあちこちで引き起こされる問題によってわかってきたのである。

このような経緯を踏んで、ヨーロッパの中から上記のような問題を察知してキリスト教以前の文化であるドルイドや魔女の行いに学ぼうとする人たちが現れたことは、キリスト教を中心に描かれてきた西洋史上において大きな出来事なのである。

このドルイドと魔女を結ぶ共通項は、自然科学の及ばない分野を補完する立場にあることなのだ。

そもそも「人間が生きていく」ことに不安はつきものである。この世界はさまざまな活動が複雑に絡み合い、人間が自我を確立して生きて行こうとすると多くの障害にぶつかる。

このような時に自然科学を持たない文明であれば「自分を超える大きな存在」に頭(こうべ)を垂れて、我を慎み、多少は自分の欲求を叶えることを考えても最終的には目に見えない大いなる流れに委ねて生きようと考える。

しかしキリスト教から生じた近代科学文明は神の権威を内部から崩壊せしめ、神に代わって人間が思い通りにこの世界を操作しようとし始めた。この世界の不可解な現象について、分析を駆使して因果性を明らかにし人間の思い通りにコントロールしてきたのである。

これはある面で成功を収めているわけだが、一方で大規模な自然災害や特定の病気、そして老いと死といった事象にはその力が及ばないことも分かってきたのである。

現代はこのような諸所の問題に直面しており、我々は自然科学とは別のパラダイムで思考することが要求されている。

例えば大昔はカミナリは神の仕業だと考えられていたものが近代になると電気であることが判明した。そして我々はその電気を駆使して高度な文明生活を築き上げている。しかしその電気を生み出す原子力発電所が津波で破壊され我々の生存を脅かすとき、現代人の生活が自然からあまりにも逸脱していることに疑問を持つこともあるだろう。

あるいは、少しでも死を遠ざけようとして進歩してきた医療処置が積み重なり、最終的に体中チューブだらけになって「延命させられている」患者を前にしたとき、我々は「医学の進歩」に疑念を抱かずにはいられないはずである。

つまり自然とは何か、人間が生きるとは、幸福とは何か、といった人が生きる上での根源的な問いに対して自然科学は思索する術を持たないのである。これらは自然を人間の下位に置き人間が統制すべし、というキリスト教の世界観の延長に生じた自然科学の視座から死角になり続けてきた事象なのだ。

ドルイドの復興活動に勤しむ人や魔女に相談を依頼する人は、人間と自然界との間に生じる軋轢や、人生上に次々と起こる不条理な問題に対して科学とは別の系から導き出される「答え」を求めているといってよいだろう。

こうした態度は日本で野口整体を求める人の中にも見ることができる。ただし日本の場合は自然と人間の対立構造が欧米のそれと比べるとそれほど堅固でないために、整体の在り方にも始めから親近感を覚えやすい。

これは一見するといいようだが弊害もある。例えば「何となくいいから」という感じで整体法に近づき、その論理性や合理的なパラダイムを深く理解することのないまま実践している人が少なくないことが挙げられる。

自然と親しみ、共生するという在り方は東洋文化において古来より行われてきた態度であり、その点で日本は欧米よりも先駆的立場にある。しかし我々日本人がヨーロッパやアメリカの人たちに対して強い説得力をもってその有益性を示せるかと言えば、そのようなことは決してないのである。

我々は明治以降、自国の文化の特徴を論理的に理解することのないままに、欧米文化の上澄みに生じた自然科学だけを流用してきたにすぎない。その恩恵については多くの人の知るところだが一方で自国の利点を見失い、また新たに取り入れた西洋近代文明の精髄である科学を駆使するうえでもそれにふさわしい精神的支柱を持ち合わせていないのである。そのため一民族としては大変不安定な状態にあることを認識すべきだろう。

本書の中で河合は「日本人は両方やらなければならない」と述べている。つまり西洋人のような論理的な近代自我を強化しつも、日本人なりの無意識とのつながりを保持するように努力すべきだと強調しているのだ(p.192)。私はそれに加えて、かつての日本人が具えていた身体性も復興させるべきだと付け加えたい。

ヨーロッパやアメリカの人たちが自国の文明の限界を察知してキリスト教以前の文化から学ぼうとしているときに、我々日本人は現状の豊かさや利便性に甘んじてあまりにも安閑としているように思われるのである。

日本人が整体法を深く理解するためには我々が現在浸っている自然科学のパラダイムを今一度突き放して客観的に理解するプロセスが不可欠なのだ。もしそうでなければ、少し前に流行った「スピリチュアル」のように軽薄な観念の遊戯に堕ちてしまいかねないのである。スピリチュアルを否定はしないのだが、西洋人のような強固な自我や合理性を持たない日本人は目の前の現実から観念が遊離しやすいため、そのようなものに取り組む時にはよほどの注意が必要なのである。

本書の終盤には「広い世界観」の項の中には「近代西洋が生み出した自然科学だけでは、もはやダメなのである。それを超える世界観、人生観を持っていないと、人は幸せにならない。(p.211)」と記されている。

ここで大切なことは筆者は何も自然科学がダメだとは言っていないことである。先にも述べたが両方必要であり、相乗的に活かす道を開拓するのが今後の課題とも言えそうである。

科学がダメだから未科学の分野に回帰する、というのはやはり人類史としては退行である。科学を超えたものの見方、というものを我々は開拓する必要があるのだ。

野口整体もともすれば退行と混同されやすい。が、こちらも科学を否定はしていない。目の前の生きた人間を見極めようとすると、どうしても科学の及ばない超科学的領域が自然界にはあることを無視できないし、また科学的視座によってかえって目がふさがれてしまうことがあることを示唆しているのである。

野口整体に上のような誤解を持たれる方は、『ケルト巡り』を読まれると正しい理解を助けになるのではないかと思う。(つづく)