ケルト巡り②‐物語と意識

ケルト文化のエッセンスの一つとして「自然との共生」が挙げられる。我々日本人からすればすぐに「それは結構なことだ」といった感覚を持てるが、人間と自然の間に強い分離を認めているアメリやかヨーロッパの人たちからすると東洋人とは異なるセンセーションを覚えるようである。

こうした自然と人間との関係性の違いは、キリスト教以降のおはなしとケルトのおはなしにも表れていると述べている。全般にキリスト教伝播以降のヨーロッパの物語はハッピーエンドのものが多い。典型的な「おはなし」とは、「男性の主人公が様々な苦労を重ねながら、最後には女性と結婚する」ものだという。

これに対して日本の場合は「つるの恩返し」や「羽衣伝説」の様に一度結ばれた男女がまた別れてしまうものが存在する。また「浦島太郎」などは竜宮城に行って乙姫に会ったのに結婚もしないで帰ってくる。そして禁を破ったためにおじいさんになってしまう。実はこれらのおはなしに似たものがアイルランドにも残っている(本書 pp.46-48 前者は「オダウド家の子どもたち」、後者は「オシン」と共通点を持つ)。こうしたおはなしをキリスト教以降の物語を基準に解釈しようとしても不可解なことが多い。

河合はスイスのユング研究所で昔話の講義を受けた時に、西洋の英雄譚は心の中における自我の確立に呼応したものであることを学んだという。その解説にあたる部分を下に引用する。

それは「自我」が自分の「無意識」からいかに離れ、自立してゆくかという心理的過程を反映していると見る。自分の「無意識」からの自立は外的には両親からの自立でもあるので、それを象徴的に示すものとしての、心の内界における「父親殺し」「母親殺し」と解釈できるようなことも生じる。それらを達成したが、「自立」して「孤立」にならしめないためには、一度切り棄てた無意識との関係を回復しなくてはならない。あるいは両親を含めた他の人々との関係の回復が必要である。そのことが、女性との結婚という形で象徴的に示されると考える。これが典型的な、西洋近代に生まれた「自我確立」のおはなしである。(本書 p.44)

ところが先に挙げたように日本のおはなしには、上のような筋を持たないものが多数存在することに河合は気づく。このことから西洋近代の自我を中心とした在り方と日本人の心の構造の違いについて考える契機を得たという。そしてアイルランドの物語を読んだときも、日本の物語にも通じるものがあることに気づき、キリスト教の特徴とその強い影響力を知ることとなった。

キリスト教は西洋における近代合理主義精神の父である。「神‐人間‐自然」といった序列でこれらを明確に区別したことで人間は自然を対象物として研究し、後に科学を生み出した。この「科学的な」ものの見方や考え方を確立したことによって、人間はある面でハッピーになったことは否定できない。具体的にはペストや天然痘、ライ病などを克服し、人々を漠とした恐怖や不安、死から救ったことなどが挙げられるだろう。

この事例から人間が知恵と努力を重ねれば、物事は必ず好転する、といった考えが醸成されてきた。そしてこのような考え方が先述したキリスト教以降の物語の雛形となり、現代まで引き継がれている。

しかし人間がいくら努力したところで克服できない問題はこの世にいくらでも存在する。例えば東洋の釈迦は「生老病死」を人間の四苦と表したが、こうしたものの中にも科学で克服できるものと、そうでないものがあるのは自明のことである。

既存の科学で克服できない問題に直面したときでも、今までは科学的な「ものの見方(パラダイム)」の中で頑張ってきた訳だが、20世紀の後半になると、いくら頑張っても解決策が得られないものがあるように感じられてきた。

そこで「これまで完全と思われてきた自然科学のパラダイムにも、欠陥や非合理があるのではないか」という考え方が現代には要求されているのである。20世紀初頭までは欧米の人たちは自分たちのキリスト教の文化を至高に据えていたが、先述した理由からそれ以外の文化について思いをいたすうちに自分たちの足下にあるケルトに関心を寄せるようになったという(本書 p.30)。

日本の場合はこのような明確な図式を意識する人は少なそうだが「西洋医療では納得がいかないから野口整体へ」という考えを持つ人も、上と似た構図ではないだろうか。

ただ日本の場合は欧米人のような強固な合理主義を具えた自我を確立している人が少ないために、常識とは異なる不思議なものにふわっと吸い寄せられているだけの人も少なくない。「なんとなくいいから」といった感覚で整体に取り組んでいる人は、他かにも何かよさそうなものが視界に入ると同じように理性の検疫をすり抜けて流されてしまうように思われる。

日本人のこのような態度に関して、河合は西洋で盛んになりつつあったトランスパーソナル学会を日本で開催することになった際、次のような懸念の言葉を吐露している。

たとえば日本人でこのような話題にすぐに飛びついてくる人には自我の弱い人が多い。また、夢分析の場合でも、根源的なイメージに満ちたような夢を見ても、それと正面からぶつかってゆく個人としての倫理性、あるいは責任性が極めて稀薄なために、せっかくの夢を、生きることの本質と関わるものとして受けとめてゆけない人がいるのも事実である。(『河合隼雄著作集第11巻 宗教と科学』p.26)

この夢に対する態度は野口整体に置き換えても同じことがいえそうである。整体法の不思議に見える外観や、目新しさだけで取り組んでいる人はその深い理念に基づいた種々の技法を自身が生きることの本質と関わるものとして受けてとめてゆけない傾向があるように思われる。

現代において整体法をよく理解するためには、我々日本人も西洋近代の合理主義精神を理解することが大いに役立つのである。これによって両者のコントラストが際立ち、整体法の輪郭もより明確になるはずである。

これは西洋が破綻したから東洋が正しい、などという二元対立の論法ではない。西洋が近代化以降見落としてきたものが、キリスト教以前の文化には埋もれて現存している。それを我々は再認識し、両者の特性を理解して止揚させる道を開拓できれば身心はより高次の平衡状態を築くことができる、という希望的仮説といえよう。(つづく)