…前回のナウシカの記事からの続き。
分解や分析によって自然界の法則を明らかにして、人間に有益な文明を作り出そうというのが今日まで科学を発展させてきた大きな動機であった。
しかし部分の解釈にこだわりすぎると全体が見えづらくなる、というのが分析知につきまとう最大の陥穽である。
我々の理性はどうしても物事を是非、善悪、優劣…といった具合に、二つに分けて理解しようとする習性がある。「分かる」とはまさに「あれ」と「これ」を頭の中で別にする、ということだ。
これは思量分別(しりょうふんべつ)とも言われる認識作用であり、この分別のために自分にとって不都合なものを見つけるとすぐにそれをコントロールし、修正したくなる。
『風の谷のナウシカ』の世界では腐海や虫が「負」のものとして捉えられている。これらが人間の生活を脅かす存在であるため、知恵と力で抑えつけようと考えるのは人間的な理性のなせる業(わざ)であろう。
しかしながら自然界はどこかに圧力が加わると即座に反動が起こる。これを大自然の平衡要求と考えていいのかもしれないが、それすらも人間の一見解にすぎない。
このように人間の理性に主体をおいて自然をコントロールしようとし過ぎると、このバランスをとるはたらきによって反動が絶えず起こる。これは歴史の証明とともに多くの人の知るところである。
かつて高度経済成長期に多発した公害などはその一例として考えられるだろう。また近年では東日本大震災における原発事故においても、自然というものが質、量ともに人間の統制下には収まらない規模の一大活動体であることを改めて痛感させられた。
さらに加えれば2020年12月現在、新型コロナウィルスの発覚に付帯して生じてきた諸問題を見逃すことはできない。
除菌、手洗い、マスク、ソーシャルディスタンス、外出自粛といった数々の対応が短期的には感染拡大を抑止したとも言えそうだが、少し冷静に視野を広げて見れば人間の打ち出した抑制行為を跳ね飛ばすかのように現在罹患者の数はうなぎ登りである。
どう足掻いても人間の視点が切り替わらない限りこの世界から「病気」という現象はなくならない。病気とはそれそのものが生命活動の一側面であり、そのものがすでに健康という全き活動の一部なのである。
この健康とは現代流の、いわゆる病気と対置された相対的な「健康」ではなく、宇宙に遍満する不滅の「健」である。『易経』の冒頭、天行健の一句であらわされた絶対の健、そのものを指す。
その健やかなるはたらきから一部を切り出して「病気」と見立てたのだから、人間の二元論で見るかぎりはこの世界から病気はなくならない。
天然痘が姿を消すと間もなく結核が増えた。結核を減らすと癌が増え、脳炎が減ると精神を病む、というように身体の平衡作用は無くならないのである。
人間の生み出す善悪や正負といった二元対立概念は、どれも固定された視座から生ずる偏見に過ぎない。
『風の谷のナウシカ』にはこれを戒めるセリフとして次のようなものがある。
「永い間の疑問でした」「世界を清浄と汚濁に分けてしまっては何も見えないのではないかと…」(『風の谷のナウシカ 7』p.130)
「その人達はなぜ気づかなかったのだろう/清浄と汚濁こそが生命だということに」「苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない/それは人間の一部だから……」(同書 p.200)
これに対して1000年前の人間が人工的浄化活動の守護者として作り上げた生命体であるヒドラは「お前は危険な闇だ/生命は光だ!!」とナウシカを恫喝する。
このヒドラは自らを古代の人々が「善意」によって生み出した「完全な」生命体であることを疑わない。そこに落とし穴がある。闇は負であり悪である、これに対して「自分は光」という片岸に立ち、自らが人間の二元論という陥穽に嵌まり込んだ片輪の生命体であることを、ヒドラは気が付かないのである。
ナウシカはこれに動じることなく「ちがう/いのちは闇の中にまたたく光だ!!」と喝破する。
言うまでもないが、ここのやり取りが本作の圧巻だろう。
「闇」とは一つの活動から「光」を切り出したために生じる概念である。仮に「昼夜」などといった場合も、「一日」という概念から「昼」、もしくは「夜」を抜き出すと、抜き出された元のほうに夜もしくは昼、という概念が残る。
我々が「夜」という概念を打ち消せば「昼」もなくなり、また元々の「一日」という概念にたち還るのである。
これと全く同じ構図で、生も死よって支えられている。生と死は「いのち」というこの世の一大活動体の中に浮かぶ二つの面である。
『ナウシカ』の世界の人々は我々の現実と同じように病を恐れ、自然を恐れ、死を恐れ、これを回避せんがためにあらゆる手段を講じる。その結果科学技術の発展は言うに及ばず、強大な軍事力を背景に闘争と搾取に奔走する者もいるかと思えば、土俗的な信仰裡に自我を埋没させて仏教的空見に逃避せんとする者、または政治権力の濁流の中で浮き沈み、喘ぐ者たち、などを次々と生み出した。
ヒドラはこうした人間存在から切り離すことのできない宿業の数々を「光」によって断ち切り、永遠の救いと安楽への道を切り開く目的で作られた人工の生命体だったのである。
しかし先ほども述べたように、この企てがすでに古代の人間の作為から出発していることを見逃してはならない。いかに高尚な思想を持ってきても人間的な考え方や計らいをもってこの世界を完全に救い切ることはできないのである。思想でも行為でも、人為的に何かを成せばそこには必ずほころびや対立が生じる。
ところがこの世界の真相は、人間的な活動、思想、価値観、評価とは一切関係せずして、最初からみな一人残らず救われているのである。
「いのち」とは、いま目の前に展開している純粋無垢な活動体のことである。しかし、誰もがこの事実に気が付かない。いやすでに覚知はなされているのに、人間はこれを疑い、あるいは知らずに自らの足元で真理をぐしゃぐしゃに踏み散らかして歩いていく。
仮に気が付いたとしても、うっかりすれば今度は「悟り」に捉われて身動きが取れなくなる。
人間の見解というものはいつでも人間から自由を奪い、時に死に至るまで苦悩せしめる。人を救わんと思えば、その見解が生ずる前の「今」に目を向けるより他はない。
古来から多くの宗教家が骨を折ったのも、最終的にはここである。一言でいえば「真理に目覚める」ということであり、次いでこの妙薬をどうやって人々に飲んでいただくか、ということだ。
劇中の神聖皇帝なる人物は、この世界の仕組みを解き明かして生命を救おうと東奔西走するナウシカに向かって、罵りとも嘲りともつかない次のような次の言葉を浴びせかける。
「巨神兵をくれてやろう/ヒドラもお供につけてやる」「みんな清浄の地とへやらに連れていくがいい」「腐った土鬼(ドルク)の地も土民共もみんなくれてやる」「全部しょって/はいずりまわって世界を救ってみせろ!!」(『風の谷のナウシカ 6』p.154)
「救い」、また「救う」ということを煎じ詰めると、ついには自らを生死のぎりぎりのところに投じ、苦しみの真っ只中にありながら活き活きと躍動する自己に一切を委ねる行為に至る。
地獄の業火の中にありながら、その苦しみの中に自己を滅却し、ひたすら隣人に手を差し伸べる、言わば大乗の精神である。
人間におけるこの至難の業(わざ)を一人の「風使いの少女」に任せた、という本作の設定がまさに神がかりなのである。
ナウシカは先の神聖皇帝の言葉に呼応するかのように、最後のセリフをこう結んでいる。
「さあみんな/出発しましょう/どんなに苦しくとも」「生きねば………/………」(『風の谷のナウシカ 7』p.223)
ここに至って「救い」というものなどこの世にはないのだ、という諦めと希望を包括したようなナウシカの一句が吐き出された。
これは追い詰められた人間の最後の手段としての、「それでも生きていく」という全身全霊をかけた決断のようにも聞こえる。
たとえ二元対立を超越した活動に目覚めたとしても、それで「苦しみが消える」ことなどないのである。ナウシカの旅の執着地点はついに元々居た所、解決など望めない、原初の混沌へと帰ってきた。脚踏実地そのままに、人間が苦しみ、のたうち回って生きる元の世界に回帰したのである。
しかしながらその苦しみの真っ只中に居ながらにして、生きる歓喜を見い出せる強さを身に着け、彼女は虚無の深淵から生還した。この全身心をなげうって行われた大いなる旅路がここに至ってようやく終焉を匂わせる。
そして「語り残したことは多いがひとまずここで、物語を終わることにする。…」という末文へと繋がっていく。
今さら言うまでもないが、この物語は決して古くはならない。人間存在の矛盾と苦悩の生ずるメカニズム、そして厳粛であるべき救済の在り方が随所に余すことなく暗示されているからだ。
コロナ禍と言われた本年、私はいろいろなことを考えさせられたが期せずして『ナウシカ』を再読し、多くの示唆に富むこの物語からいろいろなことを考えさせられた。この無限の物語『ナウシカ』をもってすれば、ここから先いくらでも駄弁を弄することもできそうだが一応は今回で結びとしたい。
とか言いつつも、自分のブログは一貫性がないという点で終始一貫してきたのでまたふいに続きを書くかもしれない。その際は読者諸兄のご寛恕を請う次第である。