脳幹トレーニングのことを調べていたら久しぶりに戸塚宏氏の本に突き当たった。戸塚氏は遡ること80年代に暴力による度重なる死傷事件で有名になった戸塚ヨットするクールの校長である。
もう10年以上前になるが『敵は脳幹にあり』をはじめとして同氏の著作を何冊か読んだ。児童の非行・不良化の問題から花粉症に至るまで、現代病の真因を脳幹の不活発に見い出したという戸塚氏の卓見は当時野口整体まっしぐらだった私の心を捉え、その核心的ロジックに目を見張ったのである。
そもそも野口晴哉の主張の中には近代文明の複雑化に対する警鐘と、それを生み出した人間の知の複雑化に対する憂慮であった。
こう書くとまた要らぬ誤解を招くかも知れないが、野口の主張の根底にはいつも「自然の生命に帰れ」という信念があった。つまりそれは人間の高度に複雑化した思考体系よりも原始的感覚と本能を上位に置くものである。
当時の日本が前近代から近代に向かう奔流の中にありながら野口は独り静観を保ち、早くから科学文明の利点と限界、問題点を看破してその先を見据える超近代的視点を持っていた。
これに因んだ話として「こうも頭で生きる人が多くなってしまった。」という野口の言葉を、私の先生は折に触れ繰り返し反芻していたので記憶の中に色濃く刻まれている。
くだけた言い方をすれば「難しく考えすぎるな」ということになると思うが、現代はとかく複雑に考えて答えを出そうとしたあげく正解を見失い、迷子になっているケースは少なくない。
卑近な例を挙げるなら、食養生法や栄養学を学ばなくても体に必要な食べ物は「うまい」と感じるように我々の体は最初からできている。
運動して汗をかけば塩辛いものがおいしいし、デスクワークで筋肉が疲労していなければ自然とごはんではなくお菓子に手を伸ばしている。
現代の子どもがお菓子ばかり食べて云々という批判は絶えないが、これはエネルギーの消耗度合に応じた自然の反応である。
運動欲求の塊のような子どもたちを狭い教室に押し込んだうえに、帰宅後はすぐに宿題を済ませて塾に通わせるという大脳主体の生活を強いている限り、栄養豊富で食べ応えのあるお母さんの手料理よりも、酸化したスナック菓子や有害な人工甘味料に走る子どもの数は減らないはずである。
話しがわきに逸れたが、なぜ脳幹トレーニングが現代社会に求められるかと言うと、こと教育や医療のような生命に直接貢献する物事に関しては、考えることよりも感じる方が迅く正確だからである。
よって最初に戻るが、当時戸塚氏が請け負った「非行少年」や「問題児」たちがヨットに乗りながらこれらの問題を早期に回復していったメカニズムを脳幹の活性化に集約したことは瞠目に値する。
もちろん戸塚ヨットスクールの体罰を伴った訓練によって少なからぬ死傷者が出ていることはまぎれもない事実であり、その圧巻ともいえる脳幹理論だけをもって全面的に肯定することはできない。
とはいえ実質的に青少年の更生や病気治癒に成果をあげている面もある訳で、都合のいい考え方をすれば、同氏の訓練の中から過剰な体罰や危険性だけを排除して「安全に」脳幹を刺激できればいいはずである。
ただしこれも注意が必要である。そもそも劇薬というのは強い毒性によってその効果も支えられているのである。したがって上に書いたようなことを実行すれば、ヨットスクールの強力なトレーニングも巷にあふれる毒にも薬にもならない「安全な」教育メソッドや健康法に堕してしまうことも大いに考えられる。
そもそも脳幹というのは人間の中でも生理的な生命維持に関わる機能が集中した部分であり、言わば野性の中枢とも言える部位である。
ここを活性化することは、人間が人生を逞しく生きていく力や、病症を自力で経過するための治癒力を高める上で非常に重要な意味を持っている。
そこで海上にヨットを浮かべその上で海に落ちる恐怖と闘いながら倒さないように操作することで平衡感覚を刺激し、脳幹の活性化を図るというのが戸塚氏の理論に含まれている。
実の所こうしたグラグラする不安定さの中で体勢を保つ訓練法は、成人のスポーツや健康法から子どもの遊びに至るまでいろいろな例がある。
例えばヨガやピラティスで行われる片足で立って体を支えたり、片手片足で体幹をキープしたりする訓練にも、似たような効果が期待できそうである。
それから相撲の基本である四股は百キロを超える巨体を片方の足の裏だけでバランスを取って支えるのである。これを毎日毎日繰り返すことで、やはり脳幹は一定訓練されていくと思われる。
遊びという観点からいえば、スケボーや一輪車、サーフィンなど、探していくときりがない。
私の立場からいえば活元運動を勧めるべきなのかもしれないが、なにぶん客観的データを持ち合わせていないので活元運動を脳幹トレーニング法として断言できないのは残念である。
それにしても野口整体の持つ様々な手法を見ていくと、脊髄神経及び脳幹を直に刺激することで人生を逞しく生きている力を煥発する、或いはしようとするものが多く含まれているように思われてならない。
操法のはじめに背骨から着手する点などはその端的と言えるだろう。良い指導者の導きによって良質の活元運動に導かれると自然と思考は沈静化し、ポカンとした平安の境の至ることは体験した者の多くが知るところである。
しかし世相は全般に脳幹よりも前頭葉及び大脳新皮質を刺激する方がもてはやされている。具体例を挙げれば青少年の非創造的記憶訓練所と化している受験塾などは言うに及ばず、スマホのゲームや脳トレなどと言われるものもほとんどが視覚に頼って文字や数字の情報を処理していくものが大半である。
言わば野生の否定と放棄を意味しているもので、これでは人間が亡びに向かっていると言われても致し方ない。しかし今の高度な文明社会も人間の生存欲求が生み出したもので、どこまでが自然でどこからが人工的か、などと考えはじめると必ずグレーゾーンに迷い込み明確な線引きなどはとてもできない。
しかし人間も動物であり自然の生物である以上、死の要求もあれば生存の要求もある。今さらながらどこからともなく「脳幹が大事だ」などと言い始めたのも、自然から逸脱した社会の中で生き残るための無意識の平衡要求と言えなくもない。
理性を伴った意識は客観性に偏るがゆえに、これが過剰に働くともっとも原初的な生存欲求としての「感じる」機能が退縮する。
だから大脳主体の生活では効率的にうまく生きる方法は「考え出せ」ても、如何に生きるかという根源的な問いに関しては脆くなってしまうのである。
生命力を喚起する方法は昔も今も体感的刺激を通して脳の働きを支配し、意識の判断には拠らず無意識からやってくるものに傾聴することに尽きる。
人 瞑想せよ/静かに坐して/「我あり」と
これは野口整体の根幹を表す野口晴哉の言葉だが、脳幹トレーニングという観点から新たな裏付けを感じた次第である。