病気が身体を丈夫にし、大人の身体を育てていく

体に起こるいろいろな変動も、いろいろなコースを経て抵抗力がでてきます。熱が出たり、汗が出たり、その他いろいろなコースを通って経過する。それを中断したらどうなるか。人間が病気になるという意味が解らないで、なるべく罹らないようにしようとしていますが、小さな児から大きくなるのには、いろいろな黴菌や、何かに対する抵抗力をつけて、何処ででも働ける大人になっていかなければならない。だから、病気にさえしなければいいんだといったような育児法は、温室の中に囲っておくのと同じで、子供の将来を弱くするのです。病気を途中で中断してしまえば、子供が将来、途中でバタッと倒れるような、あるいは力を発揮出来るものも出来ないような、そういう体に育ててしまうのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.38-39 太字は引用者)

整体の基礎、基本の話である。そして基本は極意である。

まずここがわからなければ、という所であると同時にここさえわかれば完成なのだ。

実際問題、野口整体の本を読んでくる人は多いが病気に対する理解とか、死生観まで共感してくる人は意外と少ないことが最近やっとわかってきた。こちらもうかつだったものだ。

予防接種のことを書いた記事のフィードバックからもわかったが、やっぱり病気を漠然と怖がっている段階から脱していないのだ。

いや病気は怖い。

それは間違いではないのだが。

処置を誤ればいのちを落とす、そういう危険性はまちがいなくある。

だから、野口先生はこれを「火」に例えたわけだ。

火は非常に怖い。

扱いを間違えば人命もうばうし、家屋でも山でもみんな燃やして灰にしてしまう。

ところがその火の性質がよく理解できてくると、寒い時には暖を取って、またいろいろなものを煮炊きすることで地球上に食材を開拓してきた。

いま世界中に人間がいるのは、そういう進化の途中で火を使えるようになったことが非常に大きい。

それは火を大きくしたり小さくしたりするための知識や技術を修めているからである。

その結果、

人間だけが火を「使える」。

病気も同じである。

「これってどういうものなの?」っていうことをまず考えなければ、といっている。性質がよくわかれば「使える」、有効利用できる可能性が生まれるのだから。

ところが世間全般に「病気をどうやったて治すか?」という角度からしかアタマを使っていない。

つまり、

スタート地点がもうずれているわけだ。

病気は悪、っていう価値観が最初にあって、その上で「さあどうしようか」と踊ってるのである。

これは人類が「火は熱い、怖い、」というところでずーっと止まっているのと一緒です。

それで、こうやったら消えます、いや、こうすればもっと楽に消せます。そもそもこうすれば出火しません(予防医学)。ってことをもうずーっとやってるのである。

整体はまず、

「そうじゃあない」

と言っている。

病気っていうのは身体がマトモに還るためのプロセスである。

とまず最初に直感した。

だからその性質をよーく理解して、上手ーく使えば身体を丈夫にすることができる、って言い始めたのである。

そういう革命的見方が最初にバキッと入らないことには始まらない世界なのだ。きれいなコペルニクス的転回である。

「何いってるんだ?」と思う人は整体やらないでいいわけで、

縁の無い人なのだ。

「常識を疑え」というのもトレンド化してるが、今さら常識がどうとかじゃなくって、もっと自分の全身を使って「考える」習慣を持とうという話でもある。

いま私はどうなってるのか?を自分で感じて判断する、「主観」が重要な世界なのだ。

病気っていうのは基本苦しいものだが、経過していく過程に快感もある。治っていく、丈夫になっていくという、秩序に向かって行く快感がある。

そういうところにピッとアンテナが反応して、そうだ!と思う人をわたしはマトモだと思う。非常に少数派ではあるが。

そして真実に気づいた少数派はたいてい苦労する。

昔からそういうものなのだ。

でも知った以上は、嘘はわかってしまう。

そういうことで、整体という生き方をしようと思ったらもっと徹底的に勉強しなきゃあならない。自分の身体、日々の些細な変化、そういうものが逐一わかるようになるまで身体感覚を研いでいかなければ、あぶなくて「自然」なんて生き方はとてもできないのである。

自分の身体で勉強するしかない。

ちょっと古めの言葉を転用すると、「自存自衛」のための身体学である。

それには「覚悟」みたいなものがいるのだ。

わたしはそういうところが「禅門」に似てると思っている。

禅で悟りたいんです、救われたいんです、といってさらっと門をくぐって入ろうとしたら大抵は和尚さんにぶっ叩かれるのだ。

わたしは誰が何と言おうと、自分で自分のいのちを見極める。

そうい気概がやっぱり必要である。

そうすると、整体はものすごく楽しい。

自分が世界の価値観を握るわけだから。

病気もおのずと消えるし、不幸も消えていく。

そういう自由性をだれもが握っているんだが、開花させるかどうかは本人次第なのだ。

まずは「理解」から。それも直感がないとはじまらないんだが。

人が整体を選ぶのか、整体が人を選ぶのか。

わからないけれども、まずは「そういう生き方をしよう」と思うことが第一関門である。

直感と理解だ。

それが縁を生む、そう考えると整体をやるには素質や資質も重要だ。