丈夫に育てるには自分の力で(病気を)経過させる:整体は自分がやるものである

病気させないのがいいのではなくて、病気をしても、それを子供自身の力で経過させるということが正当な育児法です。病気になっても、それを自分の力で経過し、全うするのでなければ意味がない。それを、治さなくては治らないのだと決めている。怪我をしたところで、その人の自然に繋がる体の働きがあって、その働きで繋がるのでなくては治らないのです。傷口を縫っても貼っても、それは早く繋がるように仕向けることであり、それで早く治るかどうかも判らないのです。けれども縫ったり貼ったりしただけでは治ったのではないのです。自分の体の力で治った時に、治ったと言えるのです。

麻疹がうつるといっても、その体がうつる時期でなければ、一緒にいてもうつらない。そして麻疹を予防しようとすると肺炎をつくってしまう。今年も肺炎になりかけた麻疹が随分ありました。予防注射でも、その体に適った時期にきちんとすればいい。しかし体が自然と発疹するのは、ちゃんと体が時期を選んでいるのです。だから一緒にしておいてもうつらないのに、幼稚園に一日行っただけでうつって来たというようなことがざらにあります。だから体に任せて経過を乱さないで通れば、あとは丈夫になるのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.39-40 太字は引用者)

整体指導を行うということは、病気を治すとか、病気を予防するとかそういうことは本来の目的ではない。

自分の体の力で経過させて、その力を自覚させることが根本理念である。

先日の予防接種の記事の流れで、つらつら書いてきているのだが本当に今の子供は肉体的にも精神的にも薬漬けだ。

大人の薬物中毒の問題もにぎやかだが、こちらは表面化しているのだからいわば陽性の問題である。つまりその罪は重いが根は浅い。

これに対して子供たちの薬まみれは陰性化している分、根は深いのだ。予防接種は表の顔としては良いこと、善いこと、として推進されてきたものだがこの世の中に100%良いことなどありはしない。

守り、庇えば、そのときはいいかも知れないが、相手の立ち直る力を奪いとることにもなりかねない。

さらには「副作用」に関する情報はほとんど表面化していない。つまり良いことばかりに目がいって、それ以外の反応には目を光らせない。もしくは目をつぶる。だから見えないのだ。

科学の目というのは本来、客観性や平等性が必須なのだが「人間」が行なう以上は真の客観性が発揮されるということは大変に困難なのである。

大抵は個人の利害や嗜好が大いに反映されて、見たい結果だけが見えることは決して珍しくない。

もう少し咀嚼していえば、副作用らしき反応が見えてもそれを認めまいと思えば「エビデンスがない」と言い放っていくらでも潰せるのだ。

余程の公平性をそなえた人間でないかぎり、真実の追求よりも個人的利害の方が先立つのがこの世の常、人情というものである。

個人的には予防接種を打った子どもをみると、妙におとなしいと感ずる。病気にさえならなければ平和だと考えるのだから、養殖人間みたいなものが増えるのではないだろうか。

こういう態度こそ見たいように見るわたしの「主観」なのだが、これは整体特有の人間観ともいえる。科学的医療の検査と整体的観察の違いを突き詰めれば、人間をできる限り数値化して測るか、感性で捉えるかの違いなのである。

これはなにも医療を全面的に批判する話ではなく、実際に平均寿命は延びているのだから一般医療の努力とその功績は当然認められてしかるものである。

ところがわたしはその医療の仕事に従事されている方々から、その限界性についてお話を伺うことが少なくない。医療のプロの方が西洋医療のゆく先にはもう答えはないとおっしゃる。

その反面、野口整体という世界に可能性を感じておられる方もいらっしゃるということだ。

この構図を整理して表現すると、「人間を知る」というプロセスを定量化から定性化へとシフトようというのである。

西洋医療が数値化の精度を高める客観性を第一として進化してきたのに対して、整体流に感性の質を高めた上での主観性を見なおして、相補的に「生きた人間」を捉えていこうという分岐に立っているのが現代である。

その第一歩が病気の自然経過を体験し、自分の真の体力に気づくことだとわたしは思う。

これによって今まで無自覚に封殺されていた「自分の生命感覚」を目覚めさせるのだ。体が整う、整っていくというのはいつでも「自分の感じ」というものが出発点である。

現代日本人の多くは子供の頃からそうした自然経過の機会を奪われているのだから、こうした生命の感覚を取り戻すのは実は大変な作業なのである。

そのために意識を静めて、雑音を排除し、徹底して自身の身体になりきる時間が欲しい。

整体指導というのはそういう自分の生命に対する最大級の礼を具現化したものと思ったらいいだろう。

そうした心身の「沈黙の時」がいのちを養うのである。

病症の自然経過というのは野口整体の看板文句の一つともなっているが、ただぼやーっと放っておくことではない。

もう一つ積極的に静けさを養うという、真摯な態度があってはじめて可能なのだ。自分の健康は自分で保つ、丈夫になる、ということは「やってもらう」ことではない。

自分で取り組んでいる人がどうしてもわからないところ、手の届かないところを指導者が手伝うというのが本来の形である。

健康というのはまぎれもなく自身の心の生活の積み重ねなのだ。整体というのは自分がやるもの。指導者の力を活かすのも自分、活かしきれなければそれも自分の裁量なのである。