野口整体と予防接種:子供を丈夫に育てる知恵と覚悟

太郎丸がもうすぐ3歳だ。そんなわけで存在すら知らなかったのだが3歳児健診の案内状が来た。

たしか1歳児検診?かなんかの時だったと思うが、現地に行くとあっちからもこっちからも子供の悲痛な叫び声が聞こえて、「こりゃあなんのための集まりだ‥?」と妙に疲れて帰ってきたことを覚えている。

「身長を測ります」とかいって子供のかかとをギューギュー引っ張ったりするのがちょっと見るに堪えなかった。医は仁術じゃなかったのか。このくらいの時期なら大きいか小さいかくらい抱っこすればわかるじゃあないか。

人間はモノではない。そういう当たり前のところをスルーして、ものも言えない子どもを捕まえて、呼吸もタイミングもなくガサガサやらるのは残酷である。健康診断で親子ともに精神衛生を乱されるというアイロニー。

加えてうちは予防接種を打っていないので、そこをかならず突っ込まれる。

整体の仕事をしていると年に1、2回くらいは「子供に予防接種を打っていいんでしょうか?」といったたぐいの質問をいただく。大事な子供のためなのだ。いくらでも情報は収集して、自分で考えて決断すべきである。

参考までに一つ書いておくと、水野肇著『誰も書かなかった日本医師会』か『誰も書かなかった厚生省』という本のどちらかにBCG(結核の予防を目的としたワクチン)についての記述があったと思う。

これによるとBCGの普及率の増加と結核の罹患率の減少については数字上はなんの関連性もない、という調査結果が表されている。わかりやすくいうと「BCGを打ったら結核にかからない」という数値上の証拠は取れていないのである。

全く「無関係」ではないかもしれないが、だからといって何がなんだかわからないものを盲信して体内に注入するという神経がわからない。

まるっきり効果がないならまだいいが、何かしら作用はしているんだろう?人間の身体というのは研究して解っているのはほんの一部、99%はブラックボックスなのだ。それでなくてもワクチン関連の被害報告は枚挙にいとまがない。

そうかといって「野口整体」をちょっとかじったくらいでいきなり薬も飲みません、病院の検査は一切受けません、という盲信から盲信への枝渡りも困ったものである。

整体という生き方はなにも「西洋医療と対立する」という位置で固定されたものではない。「自分のカラダで感じ、自分のアタマで考えて行動し、その結果に自分自身が全責任を負う」という自立の態度なのだ。そもそも自立とか自由というのはそういうものだろう。

自分の健康は自分で保つ。

こう聞くと耳触りの良さも手伝って「アライイワネエ」といわれるが、わるいけど整体はそんな甘っちょろいものではない。

つまり他人の弁(客観)に頼らずに主観を軸に生きていくわけだから、その主観が狂ったら全てご破算なのである。

整体生活を志すならそういう基本的な思想理解からはじまって、身体がまあまあでき上がってくるのに3~5年くらいはかかると思って欲しい。取って付けたように整体やったって整体にはならない。生兵法はケガのもとで、いのちが掛かっていることを忘れてはならない。

くり返すが「自分の考えで行動して、その結果に全責任を負う」。自然界ならあたり前のことなんだが、人間の場合はこの大事なことを他人に丸投げしたまま生きている人が大勢いる。

いわゆる指示待ち人間、責任転嫁型の人間を脱却しないかぎり、自立した健康も、自由も独立もないのである。

弱ければ、強くなるより他ない。

どんなことに出会っても息を乱さず生活できるようになるまで、人知れず静かに鍛えることである。そういう覚悟がないなら最初から整体なんぞやらないでいい。

論点が予防接種からずれてしまったが、医術というものはたとえその行為がどんな些細なことに見えても、自分の、あるいは肉親のいのちに関わる一大事であることを忘れないでもらいたい。

世相全般にもっと真剣になってもらいたい。もっともっと、生きること死ぬことを深く悩んでもらいたい、というのが正直な思いなのだ。