〔質問〕座禅には悟りという目標がありますが、活元運動では、どういうことが目標となりますか。
答 先ず体が無くなってしまう。心も無くなってしまう。つまり、手があるとか、胃袋があるとかいう感じは、そこが鈍いからなのです。胃袋がきちんとはたらいている人は、胃袋のあることを意識しない。体があると感じるのは、まだ体が整っていない、体が調和していないときです。そういうことで、先ず体が無くなってしまう。
心についても同じことが言えます。例えば「悟り」などということを意識している間は、悟りではない。無になっていない。体も心も無くなって、気だけが感じられる。生活自体が気の動きそのものになる。その気も、ただ一個人の気だけでなく、もっと大きな(宇宙的な)気と感応し合い、それと融け合いながら動くと、世界は一つになる。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.137)
活元運動は体が最短のコースを通って整う方法だ。
活元運動が上手に行われて体が整うと、引用文にあるように「整った」とか「悟り」とか、ともかくその時は「あー」も「うー」も無くなってしまう。
それどころか、肩がいつも凝っているからとか、緊張しやすいからとか、最初に悩んだり問題にしていたものも消えてしまう。
問題が解消したわけではなくって、相手にしていた自分が融けて消えてしまうのだから「悟り」と同質の体験といっていい。
「世界と一つになる」なんていう表現もあるので、いわゆる仏道の「見性」とほぼ同じものを指していると思う。
ただし「一つになる」というと、「もともと一つではない」という前提になってしまうのでこれには気をつけたい。
世界はもともと一個の一大活動体なのだから。
ただ人間は理性による「認識」でもって分別心がはたらくから、こちらは私、あちらはあなた、これはスマホ、スマホの画面、とそのカバー…etc、とかってどんどん(認識の上だけで)分化していく。
そういうふうに「分けて別にする心」が止めば、また一個があらわれる(本当は心がどう動こうが世界はお構いなしに一個なのだが)。
ただ「あ、一個になった!」といったとき、その瞬間また「私」と「世界」が分離している。一個になった世界を見ている人がいるのだから二個になっているのだ。
これが「鑑覚の病(悟った病)」といわれる悟りの矛盾である。
最初の引用にあった、「「悟り」などということを意識している間は、悟りではない。無になっていない。」というのはこのことを指して言っている。
これを坐禅の方で見てみると、鎌倉時代に道元禅師が宋に渡って修行を積んでいた折、ある坐禅の最中に「あ、いま身心脱落した(しんじんだつらく≒悟った)」と気がついてその時の師であった如浄禅師にさっそく訊ねたところ、師はそれを否定し、「身心脱落、脱落身心(いや、修業したから悟ったんじゃあなくって、最初から悟りも迷いも、何ーんにもなかったんでしょう?)」と教え諭した(正した)と言われている。
それで道元禅師もあらためて納得し、「ああ、そうですね」と言ってそれ以来、すっかり抜け切ってしまったそうである。
活元運動というのはそういう「悟り」みたいな到達点を設けないで、「身体の自然な動きに任せましょう」といって統一に向かう過程がそのままゴールになっているから「迷い」にくい。
「ポカンとすれば、もうそれでいい」という表現も、野口先生特有の国語力の高さというか、人をしてみだりに惑わせないための巧妙な表現である。
だからもしも「活元運動の目的は?」と訊ねられたら「その目的を捨てることだ」というのが当たりかもしれない。ただしそれでは納得されないので最初の引用のような表現になったのだろうと思う。
これを理屈だけで理解しようとすると極めて難解だが、活元運動が終わったときの場の雰囲気を知っている人ならだいたい意味するところはわかるだろう。
固い人も柔らかい人もやっていけば、やがてはみんなゆるんで整っていく。非常に安全で簡単で、人を選ばないのがいい。
体がゆるんでしまえば、生来の位置に整い意識は静まる。
この時には「わたし、と、あなた」といって分別するはたらきも休んでいるので、こちらの静寂が世界を満たす。
体は世界を映しだす鏡なのだ。
体がかたよって(鏡がゆがんで)いると、世界もゆがんで映る。
つまりかたよった体で何も見ても聞いても、あれが面白くない、これがつまらない、ということになる。
こんなとき、鏡に映った世界をいじくるのは賢い者のすることではない。
賢明な人ならば、まず鏡を直す(体を整える)ことに取り掛かるだろう。
すなわち活元運動が闊達自在に行われるとき世界は秩序を取り戻しみるみる動いていく。
この世界を取り替える必要など最初からなかったのである。
体が整うとき、世界も整う
そういうことを考えながら活元運動をやるのも本当はよくないけれども、根本はそういうことだと理解してからやる方が気持ちの面から言っても統一しやすいだろう。
たから「ポカンとして体の自然の動きに任せる、それだけでいいのです」というのは、人類全体が救われる道、世界を安んじる方法をごくごく端的あらわしていると言っていい。
活元運動は他人の力をいっさい借りずして、この自分の体だけを使って徹底的に救われる、そういう至高のものなのだ。
そういう非常に簡単なことなんだけれども、「正しい理解と実践」、この二つが揃わないと充分な恩恵は得られない。
ともかく、理屈は以上でおしまい。
あとは本当に、自分でやって、確かめてみると「ああ本当だ」と、そういう風にみんなちゃんとできていることがわかる。
それぐらい「いのち」とか「世界」っていうものは、間違いようのないくらい最初からしっかりしているのである。
誰も踏み外していないんだけど、なぜか落っこちる人がいるからそっちの方がふしぎなんだな。
やってみると、やがてはどこかで自分の体がちゃんとしていることがわかるものだ。
そういう意味で、いのちはみんな平等。それが納得いくところまでやられてみることをおすすめしているのだ。