裡の自律性 躾は必要か

以下は、昨日の活元会で使用した資料です。

躾は必要か

この間広島へ講習に行った時、その講習中に若い人達の座談会が行われた。その座談会の録音テープを昨日聞いてみたら、共通してみんなの心配していることは、人間を自由に放り出しておいたら始末におえないものになってしまうのではなかろうか、人間にはどうしても躾ということが必要なのではなかろうか、第一、食事でも自分の食べたい時に食べるようにしたら家中バラバラになって困る、みんながやりたいことをやり出したら統制がとれなくなって困るだろうというようなことから、子供を叱らなかったら悪いところだけ伸びてゆくというような心配まで出ていた。出席者の中には学校の先生も大分おられ、家庭のお母さん方ならそういう考え方をしてもしようがないが、人の子供を預かって心を導こうとする人達がそれくらい人間の心に無理解な態度を示すということは、私は考えてもいなかった。

私達は別に誰に習わなくても、心臓は一分間に七十八の脈を打ち、体温は三十六度五分を保っている。そういう自然の規律を、体は意識しないうちに守っている。大脳の細胞の並び方から、食べるとそれを消化して体が必要とする部分に栄養を運ぶことに至るまでそうである。栄養をたくさんにとれば、それがみんな栄養として吸収されるかというと、体は余分なものは捨ててしまう。そうして自然のバランスを保とうとする。

体は非常に緻密で、繊細な統制のもとに行われているが、その体のはたらきの現れとして心があるということを忘れているのではなかろうか。煙だって気流に対し気圧に対して一定の動きがあって、それ以外に乱れるということはない。風に逆らって風上に流れてゆくことがないように、自然律の現れである以上、心にも統制があり宇宙全体としての調和を保っているのである。人間自体、そういう調和を保つための自律的な統制の上に息をしているのである。

人間の心というものは本来自由なもので、圧迫すればそれに対してどうかして自由であろうとする余分な反発が起こるが、やはり自由な本来の方向に向かって進んでゆく。川水を堰止めれば安全だと、ダムなどをつくって安心していると洪水になることがあるように、余分な堰止めをしなければ水は自然に流れてゆく。心も同じで、堰止めたとしても流れてゆく、あらゆる隙間から流れてゆく。だから心が自由に流れるという裏には、そういう規律正しい体の動きがあるということで、その反映として心が動くものである以上、そこに自然の規律、自然の統制が常に行われていることを見逃せない。

だから食べたい時に食べたとしても、みんなのお腹の空く時間はそうは違わない。もし何時に食べたければならないと決めておくことがなかったならば、その日の温度、湿度、気圧に従がって、みんなのお腹の空く時間ははなはだしくは違わない。自然に統制されてゆく。食べたものがご馳走だったかそうでなかったとか、みんなで非常に忙しい思いをしたかどうかどか、頭の疲れ具合とかで自然に調整されて、食べたくなる時間はそう違わない。食べ遅れた人は、人の食べているのを見ると途端にお腹が空いてくる。そういう規律から外れるということは非常に少ない。ところが何時に食べなくてはならないと決めておくために、自由に食べるということはわざわざその時間を外すことなんだと、まず考える。そう考えることが体に実現してくるだけで、はじめから何時に食べなくてはならないということがなかったならば、そういう何時に食べるということに対する反抗が、自由という名を借りて現れる理由がない。やはり同じにお腹がすく。だから空腹になったら食べるということが、何か非常の生活の混乱を増すように考えられているが、おそらくそういうことはない。あるとすれば、何時に食べなくてはならないという、“ならない”という規則に対する反抗である。水の流れは堰止めると、その時は従がっても、その勢いがだんだん増していって、それを乗り越え、隙間からでも溢れてゆく。堰止めることさえしなければ、水はその流れに従って淀みなく流れる流れる。だからもし心が反動を持ち、反抗を持ち、人に迷惑をかけ、自分の体を壊すようなことがあったとしたら、それはこうしなければならないという規則をつくった、或いは何とか抑えようとした、そういうことに対する反動であって、本来は人間は自由のものである。

私は新潟県に疎開していた時に、日本が敗けたというニュースを聞いた。そうして特高警察が解体になった。これはアメリカに敗けたからなんだと頭では思いながら、何か体の中が軽くなった。どこかでホッとしている。話し合ってみると、ホッとした感じがみんな共通している。人間の体と心の中には、そういったように自由を欲する分子が本来ある。それを抑えれば反動が生ずる。その反動は何だろうかというと、それが放縦というものである。人の迷惑なんか考えないで何でもやる。子供がお隣の柿が美味しそうだったから取って食べた。これは統制をしないからだというように考えるが、統制をしないからではない。統制したために、それに対する反抗の表現として、抑えられた反動がやりたいところに溢れただけで、川は堰止めさえしなければ、川筋以外のところを外れないように流れ、放縦に走ることはない。堰止めたために横に流れてゆく。洪水が出たのは堰止めるものがあったからである。叱言を言い、いろいろの行為を抑制して、躾たと思っていると、それは洪水を招くことになりかねない。(野口晴哉著『潜在意識教育』全生社 pp.55-58)

人間の心の構造、中でも反発や反抗心について触れられています。ここにありますように、人の潜在意識は「右に行くな、左に行け」と言われると、途端に「右に行きたくなる」というような習性があります。ところが自分から「左に行きたい」と空想するように導いておいて、最後に「実は左に行くとちょっと困るんだけどね・・」と僅かに抵抗をかけると、そちらにざーっと動いていってしまう。おしるこを甘くしておいて、最後にちょっと塩を聞かせるようなことをするのと同じです。整体「指導」と言った場合にはこういう技術が自在に使えないと技としては生きません。

ときどき「自分は生まれつき体が弱い」と思っているような人もいますが、人間も含めて動物は弱いのは生まれてこないのです。受胎して、尚且つお腹の中で成熟して生まれてきた、ということはそういう生き物としての丈夫さがあるのですけれど、人間の場合は生まれてからうっかり「弱いと思い込む」ようなこともあるのですね。最初に無かったものを、どこかでそう思わされたのです。そういう人に、「あなたは強いんですよ」といくらいっても自分が弱いせいで励まされたような気がするだけで、はじめに「弱い」と思たことは打ち消せない。それよりも、自分から「自分は丈夫だ」と空想してしまうような方向で刺戟を与えると、心も体も同時にすっと変わってきます。

最初にこれさえ出来てしまえば、不整脈でも、胃弱でも、逆子でも、何でも正常な方へ動いていってしまう。精緻な心の誘導ということです。誘導が正確に行われるためには、その構造を先ず知らなければなりません。ですけれども、そういう人間を方向付けることが仕事の中心である「親」とか「教育者」において、その出発点として人間の感受性や心の構造を知らないから問題が尽きないのではないでしょうか。身体の生理的働きを起点として、そこから生まれる精神の動きを観察しなければ、真に丈夫な人間は育てられないでしょう。こういうところが本当に見直される必要性を感じます。少なくとも「教育=知識の詰め込み」と考えられている間は、掛け違えた最後のボタンは止められません。

どこから間違えたのかわかりませんが、少なくとも理屈と強制では動かせないというごく基本的なことが、先ずもって多くの方に理解されるべきでしょう。知識を増やすだけの教育や、心のみを切り出して扱う心理学ではなく、身体の生理的働きの理解を含めた潜在識教育の必要性をもっと知っていただきたいと思っています。