パラダイムシフト

病気を全うする

すべて調和というのは、一つ違っても調和ではないのです。そういうことは体が知っている。

私は、初めは病気を治すつもりで治療ということをやっておりました。そのうちに、人間が病気になるということは全く無駄なことだろうか、と思うようになりました。そう思って観ると、病気をする人は、病気しないといけない状態になっている。そして病気して経過すると、今までの疲れが抜ける。眠っている力が出てくる。ひょっとしたら、病気はそういう居眠りしている力を喚び起すためになるのではないだろうか。

…前屈みの人は、ある状態以上に屈んでくると風邪を引く。それを通ると腰が伸びてシャンとしてくる。そこで、風邪や下痢は体を調整するための働きではないか、それなら人間が病気になるということは、無意味なことではないと思いました。とすれば病気を治すよりは、病気の経過を全うした方がいい。そう思って観ていますと、大部分の人は病気のあと元気になります。けれども、その経過の中でちょっと気が乱れたり、不安な気があったり、臆病な気があったりすると、病気になって却って体が弱る。それは焦るからなのです。

病気を全うするということを考え出したのは、病気を自分の体力で経過した人が、その後みんな元気になるということをみたからです。顔色を見てもスーッと透き通って、濁りがなくなっているのです。

…それを経過の途中で止めたり、抑えたりした人は、病気をやっていよいよ弱くなってくるし、病気をやったあとも濁った顔になっている。そしてまた病気をするのです。本当は病気をやっているうちは蒼くとも、経過し終えたならばスッキリと透き通って、綺麗になってこなくてはならない。働いても疲れない体になっていなくてはならない。それがそうならないというのは、経過を全うさせなかったからです。(野口晴哉著『愉気法 1』全生社 pp.36-38)

以前は慢性病・難病系統の方が一定の割合で来られていたが、最近の方をみていると姿勢の問題や肩・背中・腰周辺の痛みや違和感などを訴えられる方が多い。いわゆる「整体院」の領分という感じを受ける。ホームページの内容が少しずつ変わっているのでその影響だろうか。

身体が硬張って姿勢が偏っているような方は、いわゆる風邪など何年も引いていないということがめずらしくない。手を当てていても、はじめの内は気が通るまで何十分もかかる。ところが数回通ううちに下痢をしたり、熱を出すようになると、そこを境に姿勢が変わってくる。まるで熱で身体のこりが解けていくように、正しい位置に戻っていく。

風邪に限らず病気というのは身体の平衡を保つための調整役を担っている。その病気を「わるいもの」として駆逐していけば、身体は知らないうちに鈍り、老朽化してくる。

何年か前に、すい臓がんの治療中の人を観たら操法の数日後に肺炎を起こして入院してしまった。愉気によって潜在体力が煥発したものと思ったが、その方はそれっきり来なくなってしまったので予後についてはわからない。

西洋医療とは身体の見方、持って行き方、理想形がほぼ真逆なのだ。我々と共有できない部分がない訳ではないが、整体によって丈夫な身体を保つ、育てると言った場合には、どこかでパラダイムシフトを要求される。

うちの整体に関して言えば、30、40代で始められる方が圧倒的に多い。このぐらいが考え方の転換期としてちょうどよいのかも知れない。物事には「その人の、その時」というのがあるのは間違いないが、整体をやるには早いに越したことはない。これはまぎれもない事実なのだ。

ただ歳をとっても頭の柔軟な人は、腰もやわらかい。逆に整体の必要な人ほど身体も考え方も固く、新たな価値観が受け入れにくい。こんな時ほど指導者の力が問われるわけだが、論より証拠で自ら元気な姿を見せることが何よりだろう。

愉気の領分

以前書いた「内外一如」のつづき。

…けれども、愉気をする場合に、そういう外から見えない心の内側のことを頭において手を当てるのと、見える処だけに手を当てて治そうとするのでは大分違ってくる。例えば、相手のいっている言葉じりだけをつかまえて議論したら、その議論に勝ったところで相手は負けていない。くだらないことで上げ足をとられたと思っているだけです。そういうように、見えるところだけで話し合うには、人間にはもっと奥があるんです。だから、その奥にある人間に手を当てることによって、こちらの奥にあるものと交流するのか、それともこちらの手と相手の体とが接触してそこで感応するのか、この二つは似ておりますが違うのでありまして、体に手を当てるだけなら、皮膚の傷は治っても心の傷は治らないのです。人間の体の毀れている中には物理的な打身で毀れているものがたくさんありますけれど、心の打身で毀れているということの方がもっと多いのでありまして、体に手を当てることが愉気だと思っている人は、皮膚の奥になると感じないから治せないのです。

“これは木綿だろうか。御召だろうか、銘仙だろうか”なんて思って触ると、これは銘仙だ、御召だということはすぐに分かるが、その体の中は決して分からない。そうでしょ。自分の注意の集まる処だけしか分からない。それが体の中や心を感じようと思って触ると、体の中や心も感じられるのです。

ただその人の注意や、考え方、感じ方、気の集まり方で、その人の感じ方が違ってくる。だから愉気しても、気なんか感じないという人は、着物しか触らない、「あらウールだわ」と、ウールに愉気しているだけなのです。

ですから、人間に心のあることを知り、更に奥にある生命の働きというものにぶつかるつもりで愉気をして、気が集まると、そういう働きを直接感じるようになるのです。だから自分の中身が拓かれていくと、それに応じて触って分かることが違ってくる。違ってくるとその働きかける場面も違ってくるのです。(野口晴哉著 『愉気法1』 全生社 pp.103-105)

野口整体を受ける方にとっては、やっぱり愉気について関心が集まりやすいみたいだ。指導を受けている感覚を頼りに、自分の家族に手当てをされている方もいる。何故かはわからないけれども、手を当てたり当ててもらうことには本能的な快感が伴う。

古来より「手当て」というものには不思議な解釈がついてまわってきた。「薬も飲まないで、手を当てるだけで何故治るのだろうか」と思われることが多いのだが、実際にやってみるといろいろなことがわかる。まるっと「野口整体」という生き方にシフトするには何年か浸る必要があるが、やがては手を当てることが治療の原型であって、投薬などは疑似治療だと思うようになってくるものだ。

薬というのは論理性の結晶だが、手当てなどは近年になって少しその効能に科学のメスが入ったくらいで全体としては判らないことの方が多い。愉気というものはそもそもが、訳のわからないままやっているくらいの方がいいのだ。アマチュアの場合は特にそうだと思う。鰯の頭も信心からで、お守りでも、お祈りでも、念仏でも、訳がわからないから「効く」のだ。ところがプロになる過程でだんだん訳がわかってくる。この辺りがむずかしいところで、一時的に愉気の力が失われやすい。そこでもう一つやり込んでいくと、もう一度その「漠」とした何かに突き当たる。ここではじめて盲信が本覚に変わる。

そもそもが「病症」や「痛み」などは人間の奥にある生命活動が噴出したものである。表層の痛いとか痒いとかに振り回されている間は、延々と後手を踏むはめになる。できることなら頭が痛くなってから頭を抑えるような間の抜けたことはしたくない。いろいろな身体現象の奥には絶え間なく動きつづける「何か」がある。そしてその「何か」には絶対的な秩序が備わってるのだ。その「何か」がお互いにぶつかり合う様なつもりで触れていくと、純粋な感応が起こる。

不思議なことは何もない。母親が子供を抱いてあやすのと同質のものだ。体の異常を治しているわけではないし、心を癒そうなどとも思わない。ただ抱いている。何万年もそうしてきたのだから、何より事実が証明している。本来は技術とも呼べないようなものだし、当然名前も付いてない。だけれども、命を繋いできた「何か」があるのことだけは間違いない。この力を一応は愉気と呼ぶことになっている。

最初からあるものだけども、それに気づくために修行はいる。それでも修行してこれからそうなるのではない。着眼点が変われば、自分の全部が相手の或る処に集まる。自分自身をよく見てみたって、結局は何が動いているのかわからない。そのわからないもの同士がピタッと当たるようにする。今はそういう感覚で行くのが一番無理がないなと思うようになった。そう言いつつもまだまだ愉気の研鑚の途上である。これというものに執らわれないことが、進歩の秘訣だ。

子供の発熱の処置

…そういう教育は、繰り返し行われると、潜在意識の中に滲み込んでしまって、滲み込むとすぐ体を支配するのです。例えば、“四十度の熱が出たらもう駄目だ”などと思うと、すぐ元気がなくなり食欲もなくなる。けれども整体に来ている人達には、熱が出て食欲がなくなるなどという人は極めて少ない。「三十八度しか出ない」「まだ九度なんです」ときまり悪そうに言う。「なんだ、あなたの体力はそんなものですか」と言われそうで、四十度を越さないと幅が効かない。事実、四十度を越しますと、親から貰った梅毒のようなものでもなくなってしまうのです。だから子供の病気に高熱が伴ない易いということは、一面、親から遺伝してきたものに対する消毒の意味があると思うのです。だから私は、子供が高い熱を出すと、“これで安心だ”と思うのです。それがなくて大人になってから早発性痴呆になったり、脱疽になったりしたのではたまらない。ところが近頃では、熱のでることまで予防するようになってきました。ひょっとすると、もう二、三十年の内には、二十歳位になって突然気が狂うような早発性痴呆の人達が多くなるのではないか、その他にも、まだいろいろ抱えている病気の消毒が済まないまま成人していくのではないかと、その点では大変怖いと思うのです。(野口晴哉著 『整体法の基礎』 全生社 pp.22-23)

今日は“まくら”の引用文が重厚になってしまった。太郎丸の風邪の経過記事が途中になっていたので、まとめることにした。

結果から言えば発熱はおとといがピークで39.5℃まで上がった。40℃の大台も予期したが、今回はそこまで至らず、しかもデジタル体温計だったので実際はもう少し低めだったかもしれない。

野口先生の時代には「発熱は怖くない、活用すべし」と言ったら方々から非難を受けたそうな。ところが現在は西洋医療でも熱は下げない方がいい(下げるなキケン)ということが、ほぼ明らかになっているみたいだ。ただこれまで発信し続けた「常識」の手前、明言できずにお茶を濁しているというのが実情ではないだろうか。

「真理」は絶対無二だが、「常識」というのは流動的で薄弱なものだ。だがそれと同時に常識は頑迷でもある。常識に抗して地動説を唱えたガリレオはそのために処罰された。常識が覆ってからも、彼が死んでからも刑は解かれず、罪を許されたのはなんと20世紀に入ってからである。権力というのは凄まじい。今だったら天動説が非常識ということになるのだろうが、本当は天も地もはじめから動いてなどいない。発熱に対する「解釈」も似たようなものだろう。熱はただ熱として出ているだけである。

何にせよ現代に至って、それだけ野口整体と一般常識との落差が減ったのは、やりやすい反面やりがいも減じた気がする。カウンター・カルチャーが徐々にサブ・カルチャーになり、メイン・カルチャーとなった時にはその存在意義も消えてしまう。これはこれで寂しい。

少し熱の処置のセオリーを書いておくと、整体では発熱のピークに差し掛かったところで後頭部に蒸しタオルを当てることがある。本来、体力充分であるはずの1歳児ならこんなことをする必要もないのだが、今回は緊張がゆるみきらないので少し熱刺戟を使うことにした。ここからリズムが順になって、経過が良好になったうようだ。

注意したいのは、「子供が熱を出したら後頭部を温める」と覚え込むと、いま実際に、目の前で活動している〔身体〕を見失う。いわゆる自然界には「同じことは二度起こらない」という一大法則がある。その一回性の出会いに対して適合する方法は、過去の知識の堆積から見つけることは不可能だ。

〔今〕を知りたければ、〔今〕から学ぶ意外にない。整体操法とは元来、即興力の連続で構成されているのだ。そのヒントは過去の事例の中にもあるが、過去の中には答えそのものはない。記憶の蔵を漁るのをやめて、いま目の前で燃えている命の色を観ることだ。さすれば今何をすべきかは自分の命で感じ、自分の身体でわかるように出来ている。これがわからないようでは、鈍っているのだ。

他人の自然に立ち入る前に、自分の自然を守ることだ。自分の自然が表出すると、「あちら」と「こちら」の垣根は消える。それは看病、整体操法における基本であると同時に、充分条件でもある。方法論は何処まで行っても方法であり、手段でしかない。手段の奥にある理合いを感じ、そこを出発点として感じ、考える頭が欲しい。そしてその頭が消えさえすれば、愉気は無量の光となる。

中庸

今日も夕方から子供の風邪の経過を看ていた。子供が生まれてから、何度も何度も、いつもいつも、体験してきたことだけど、病症経過を見守ることに「慣れ」はない。肉親だからかもしれないけど、ときおり「もしや・・」という不安が沸いてしまう。

ともかく人為的に「何とかしよう」と焦っている人にとって、「自然経過」という速度はとってもとってもおそく感じる。だけれども、何を考えて、何をしていようと病症経過には必要なだけ時間は掛かるし、そして必要以上には絶対掛からない。

その速度も期間も、「中庸」のまんま進んでいく。ずっと昔から、「自然」とはそういうものなのだ。

例えば川の流れを思い浮かべてみてもそうだ。上流の急峻な所を流れる水は「速い」だろうか。いや、そうではなくって、やっぱりその傾斜角にそった中庸の速度で流れているはずだ。

それを急とか速いとか見るのは人間の考え方だ。その見方をはなれた時、五官を刺戟する一切のものが中庸であることがよくわかる。

中庸を自分の中に見出したら、その瞬間から大安楽の生活がはじまる。その点、自分はまだ距離がある気がするのだけど。それで人に愉気する資格があるのかと問われると、少し下を向いてしまう。

それでもわずかに気がついた以上は中庸の生活を心掛け、実践あるのみだ。健康生活の原理と言った時、意識を静めること以外に何があろう。この期に及んで、「無我、無心」すらも余計なのだ。そのままでいい。それも頭の中に思い描いた「そのまま」ではなく、ただ本当に、そのまんまのそのままだ。

原始の心

ただ自分の命というものは、非常に大切なもので、死ぬということは大変なことである。唯一絶対の生命である。
大切な大切な生命である。その生命をおろそかにすることは最も愚かなことである。(吉田弘著 『手の妙用―大自然の治癒力―』 東明社 p.62)

整体の技術は愉気にはじまり、愉気におわる。「ただ手を当てる」という行為を技にまで昇華させたのが整体だ。

その根本は、自分の命と同じように他者の生命を大切にする態度である。たったこれだけの、本当に「あたりまえ」のことが希薄になっているのが現代という時代ではなかろうか。

人間の進歩を思う時に、この「共存共栄」という原始感覚を基礎としない活動は、先に進めば進むほど人間の世の中を先細りにし、また不安定にしていく。「手当て」はこれに対するアンチそのものだ。

古来から「手を当てる」行為というのは、何度も何度も注目されては消えていった。近年その効能の一部に科学的根拠が認められたことから、特定の分野では継続的に行われている。

教室で愉気法を行なう方を見ていると、人間が人間を慈しんだり大事にしようという行為は、その形に美しさが現れるものだと感じるものだ。

本来ならば「手当てを習う」というのも、滑稽な話かもしれない。人間が原始感覚を取り戻せば、整体操法も愉気の講習会も要らなくなるのだ。痛いところがあれば、すっと手が行く。これは万国共通の身体感覚なのだから。

しかしこれがなかなか容易でないのも事実だ。地球上で唯一人間だけが、「自然」を会得するための後天的な訓練を要する。少し変わった、面白い生き物だと思うのだが、野口整体の存在意義はここにある。

一人の人が命の大切さに目覚めることは大きなことだ。愉気がそのきっかけとなれば、こんな嬉しいことはない。「訓練」してこれからできるようになるわけではない。すでにあるものに「気づき」これを自在に使っていく。

その気づきのために訓練がいるのだが、訓練している姿が即実証なのだ。ただ手を当てればそれでいいのだから。ということで、何卒実践をよろしく。

中毒

太郎丸が下痢をした。暑かったのでうっかり寝室の窓を開けていたうえに、半ズボンで寝かせて膝から下を冷やしてしまったみたいだ。水あたりのような気配もあったけど、これはちょっと正確にはわからない。昨日「汗の内攻」で冷えの注意を喚起したばかりだったので、なんとも不甲斐ない話になった。

食あたりで下痢をした場合は脚を湯につけて温めると経過が良い。脚は消化器の働きと一つだからだ。余談として、潮干狩りのあと貝にアタるケースが多いのは踝から下を海水で冷やしたためである。脚を冷やすと普段なら中毒を起こさないようなものでもアタってしまうのだ。こんな風に中毒には外的要因と内的要因がある。

今回は真夜中だったので脚湯はしないで、腹部の痢症活点(りしょうかってん)に手を当てて介抱した。場所は大腸の曲がり角と肝臓の重なる位置で、だいたい右肋骨の下あたりと覚えておけばいい。生理学的には腸のぜん動と肝臓の解毒作用を高めるのだと思う。

最終的にミツコに抱っこしてもらったまま眠ったら朝には全快だった。考えてみると日常生活でもっとも重宝するのは肝臓の手当てかもしれない。技術として行うには少しコツがあるので、教室でも実習しておこうか。

活元会

今日は活元会でした。ご参加の皆さまおつかれさまでした。

R0013747

2009年の開業からこの活元会はこつこつとやってきました。月日とともに変わったと言えば変わったし、変わらないと言えば何も変わっていません。

野口整体に興味を持たれる方のおかげで、淡々と続いてきました。これからもこつこつやって行こう、ということで来月もやります。

日時)5月28日(土) 10時30分~13時00分

よろしくお願いします。

変われるのか 変われないのか

最近の研究テーマというか「人間というのは結局変われるのか、変われないのか」ということを深く考えていた。野口整体の根幹は「潜在意識教育」で、これが抜けてしまうといくら技術で身体を整えてもまた戻ってしまうのだ。だから基本的には自我意識の変容、成長ということが伴わないと、仮に「治った」としてもまた元に戻ってしまう。

それではどの辺まで変わるのか?ということなのだが、当然自分自身の変化の幅でしか他者はリード出来ない。一般に言う「性分」とか「性格」、「気質」など表現は諸々あるとして、自分が整体指導を受けてきた経験からも言えるのだが、「自分で自分をこうだ」と無意識に思っていることはなかなか変わらない。逆に言えば自我がしょっちゅうコロッコロッと変わってしまうようでは、自他ともに社会生活全体がままならなくなるだろう。昨日まで知っていたAさんが、今日になったら全く違うAさんになっていた、というような事が横行したら個人にも公にもさまざまな支障が出る。だから自我というのは生来強固な造りになっていると言えばそうなのだろう。

だからといって、「変わらないのか」と諦めてしまえば心理療法も整体指導も成り立たない。そう言う観点から、「変わる」も「変わらい」もなく続けていると、やはり何かが違ってくるのも事実だろう。実はこの辺りの所は河合隼雄さんの著作からヒントを得ながら、ある時期から熱心に取り組んでいるのだが・・。「人間が少しでも変わるというのは大変な事なのです。」という氏の弁は、実体験から出てきた重みのある言葉だ。

人間は「変わらない」ということと「変わる」ということが両方矛盾なくあるというのが実態かもしれない。臨床ではそう思って見ていくとお互いにとって一番負担がないし、長期にわたって同じ人に粘り強く取り組める心構えにもなる。具体的な方法としては「待つ」という技術になる。治療の方法論で「何かする」ということは沢山あっても、ただ「一緒にいる」ということはなかなかやれない。実際のところ「何もしない」ということが、生命の成長要求を一番シンプルに発現させる方法という気もする。天心で行う愉気というのがその象徴かも知れない。

治療者が相手の「自我」というのを掴んでいるうちは、そこに執らわれてどうにもならないということがやっぱり出てくる。だからその「どうにかしよう」ということがなくなれば、元来自然の相というのは次々を変わっていくものだから、その力をそのまま使えるようになるのではなかろうか。そう言えばこの辺りのことは河合さんの『心理療法序説』という本の中に、「自然モデル」という表現で著されていた。また復習してみようかな。いつもながら書いていると、どこからともなく答えが出てくるから不思議だ。誰だか知らないけど、「無意識」はありがたい。

久しぶりに愉気のこと

天心の愉気

それなら陰気を退けて、陽気な活発な気を送り込んだらどうなるだろう。そこで愉気ということをやってみました。実際は触らなくてもいい。気が感応すればいい。愉気して気を送ると、どこが変わるか判らないが元気になる。けれども不安や闘争心はいけないのです。平静な気持ち、天心をいいますか、自然のままの心でスッと手を当てるとよくなる。

良くしようと思うのは人間の作った心です。使えば減るなんて思うのも、人間が作った心です。体の自然は腕を使うと太くなる。足を使うと足が太くなってくる。頭を使うと深く考えられるようになってくる。使って減るようなものでない。気だって、陽気を愉気すれば、いよいよ陽気が増えてくる。活気を送れば、いよいよ活気が増えてくる。使って減るということはない。

ただ、伝えても相手に伝わったのか伝わらないのかが判らない、しかし愉気をして心を集中すると変わってくるのです。体が変わるのか、心が変わるのか、気が変わるのか、それは判らない。判らないが、その人も、相手も感じる。障子越しの明かりのように気持ちがいいという程度です。けれども、いろいろと変化を起こしてくるのです。怪我をしたらそこへ愉気すると、外側の怪我でも内側の怪我でも簡単に治る。やってみると妙なもので、私はそういうことを、触手療法として教えたことがありました。みんな手を当てているとよくなる。手を当てたくらいでよくなるわけがないと言う人がたくさんいました。やるまでは不安であっても、自分でやってみると信じないわけにはいかなくなる。そしてだんだん熱心になります。(野口晴哉著 『愉気法1』 全生社 pp,38-39)

気がつくと、最近「気」のことを語らなくなっていた。整体をはじめたばかりの頃は「気の感応」というのが面白くてしょうがなかったけど、それはもう「あたりまえのこと」になってしまったのかもしれない。身体は触れても変わるし、触れなくても変わる。死ぬまで一時も留まることなく、生命は生命に反応して動いていく。

骨盤矯正などということでも、やっぱり気があるから骨も自然に動いていくのだ。だから物理的な力だけで骨を動かそうとしても変わらないし、うっかりすると毀してしまう。特に仙腸関節などは、「関節」とはいうものの可動性はほとんど目には見えない程度の作りになっている。それでもただ触れていると身体にとって自然な方向へ動いていくから「気」というのは便利だ。身体を整えるためには細かな技術をあれこれ覚えるよりも、気の誘導法としての「愉気」を覚える方がずっと役に立つ。

もとより整体は気を重んじる世界だけど、改めて考えてみるとやはり気は目に見えないし、どこまでもぼんやりしたものだ。探し回るととまったく見つからないのに、何もしないで放っているとあちらこちらに「気」は感じる。次の活元会でまた愉気の実習をするので、しばらくぶりに文献に目を通したら初心の頃を思い出して懐かしく感じた。「自然のままの心でスッと手を当てるとよくなる。」というのだから、特に「初心」の頃の愉気は素直で通りやすい。教室で学んだ人から「愉気したら色々なものが良くなった」という報告をよく聞く。技術はたいてい時間とともに向上するものだけど、「素直な心」とか「無邪気さ」というのは時間とともに隠れてしまいやすい。そういう観点からも初心は天心にも通じる純粋さを備えている。教えようと思っている人から教えていただくことは存外に多いのだ。

助からないと思っても 助かって居る

助からないと思っても 助かって居る
河井寛次郎著 『いのちの窓』 東峰書房

人間にとっての本当の「救い」が判らなかったときは、愉気することが大変だったな。

人は救えない。

何故なら最初から救われているから。

最初に「助かっている」から、悩むことができる。

最初に「助かっている」から、苦しむこともできる。

「助かっている」は誰もが平等に与えられている最前提条件だ。

自分の目玉は生涯自分の目では見えない。

これから救われるようでは〔今〕に間に合わない。

助からないと思っても 助かって居る。

「考える前」に世界はあった。

はてしない土地
新しい世界
― からだ

袋の中のネコ