中庸

今日も夕方から子供の風邪の経過を看ていた。子供が生まれてから、何度も何度も、いつもいつも、体験してきたことだけど、病症経過を見守ることに「慣れ」はない。肉親だからかもしれないけど、ときおり「もしや・・」という不安が沸いてしまう。

ともかく人為的に「何とかしよう」と焦っている人にとって、「自然経過」という速度はとってもとってもおそく感じる。だけれども、何を考えて、何をしていようと病症経過には必要なだけ時間は掛かるし、そして必要以上には絶対掛からない。

その速度も期間も、「中庸」のまんま進んでいく。ずっと昔から、「自然」とはそういうものなのだ。

例えば川の流れを思い浮かべてみてもそうだ。上流の急峻な所を流れる水は「速い」だろうか。いや、そうではなくって、やっぱりその傾斜角にそった中庸の速度で流れているはずだ。

それを急とか速いとか見るのは人間の考え方だ。その見方をはなれた時、五官を刺戟する一切のものが中庸であることがよくわかる。

中庸を自分の中に見出したら、その瞬間から大安楽の生活がはじまる。その点、自分はまだ距離がある気がするのだけど。それで人に愉気する資格があるのかと問われると、少し下を向いてしまう。

それでもわずかに気がついた以上は中庸の生活を心掛け、実践あるのみだ。健康生活の原理と言った時、意識を静めること以外に何があろう。この期に及んで、「無我、無心」すらも余計なのだ。そのままでいい。それも頭の中に思い描いた「そのまま」ではなく、ただ本当に、そのまんまのそのままだ。