愉気の領分

以前書いた「内外一如」のつづき。

…けれども、愉気をする場合に、そういう外から見えない心の内側のことを頭において手を当てるのと、見える処だけに手を当てて治そうとするのでは大分違ってくる。例えば、相手のいっている言葉じりだけをつかまえて議論したら、その議論に勝ったところで相手は負けていない。くだらないことで上げ足をとられたと思っているだけです。そういうように、見えるところだけで話し合うには、人間にはもっと奥があるんです。だから、その奥にある人間に手を当てることによって、こちらの奥にあるものと交流するのか、それともこちらの手と相手の体とが接触してそこで感応するのか、この二つは似ておりますが違うのでありまして、体に手を当てるだけなら、皮膚の傷は治っても心の傷は治らないのです。人間の体の毀れている中には物理的な打身で毀れているものがたくさんありますけれど、心の打身で毀れているということの方がもっと多いのでありまして、体に手を当てることが愉気だと思っている人は、皮膚の奥になると感じないから治せないのです。

“これは木綿だろうか。御召だろうか、銘仙だろうか”なんて思って触ると、これは銘仙だ、御召だということはすぐに分かるが、その体の中は決して分からない。そうでしょ。自分の注意の集まる処だけしか分からない。それが体の中や心を感じようと思って触ると、体の中や心も感じられるのです。

ただその人の注意や、考え方、感じ方、気の集まり方で、その人の感じ方が違ってくる。だから愉気しても、気なんか感じないという人は、着物しか触らない、「あらウールだわ」と、ウールに愉気しているだけなのです。

ですから、人間に心のあることを知り、更に奥にある生命の働きというものにぶつかるつもりで愉気をして、気が集まると、そういう働きを直接感じるようになるのです。だから自分の中身が拓かれていくと、それに応じて触って分かることが違ってくる。違ってくるとその働きかける場面も違ってくるのです。(野口晴哉著 『愉気法1』 全生社 pp.103-105)

野口整体を受ける方にとっては、やっぱり愉気について関心が集まりやすいみたいだ。指導を受けている感覚を頼りに、自分の家族に手当てをされている方もいる。何故かはわからないけれども、手を当てたり当ててもらうことには本能的な快感が伴う。

古来より「手当て」というものには不思議な解釈がついてまわってきた。「薬も飲まないで、手を当てるだけで何故治るのだろうか」と思われることが多いのだが、実際にやってみるといろいろなことがわかる。まるっと「野口整体」という生き方にシフトするには何年か浸る必要があるが、やがては手を当てることが治療の原型であって、投薬などは疑似治療だと思うようになってくるものだ。

薬というのは論理性の結晶だが、手当てなどは近年になって少しその効能に科学のメスが入ったくらいで全体としては判らないことの方が多い。愉気というものはそもそもが、訳のわからないままやっているくらいの方がいいのだ。アマチュアの場合は特にそうだと思う。鰯の頭も信心からで、お守りでも、お祈りでも、念仏でも、訳がわからないから「効く」のだ。ところがプロになる過程でだんだん訳がわかってくる。この辺りがむずかしいところで、一時的に愉気の力が失われやすい。そこでもう一つやり込んでいくと、もう一度その「漠」とした何かに突き当たる。ここではじめて盲信が本覚に変わる。

そもそもが「病症」や「痛み」などは人間の奥にある生命活動が噴出したものである。表層の痛いとか痒いとかに振り回されている間は、延々と後手を踏むはめになる。できることなら頭が痛くなってから頭を抑えるような間の抜けたことはしたくない。いろいろな身体現象の奥には絶え間なく動きつづける「何か」がある。そしてその「何か」には絶対的な秩序が備わってるのだ。その「何か」がお互いにぶつかり合う様なつもりで触れていくと、純粋な感応が起こる。

不思議なことは何もない。母親が子供を抱いてあやすのと同質のものだ。体の異常を治しているわけではないし、心を癒そうなどとも思わない。ただ抱いている。何万年もそうしてきたのだから、何より事実が証明している。本来は技術とも呼べないようなものだし、当然名前も付いてない。だけれども、命を繋いできた「何か」があるのことだけは間違いない。この力を一応は愉気と呼ぶことになっている。

最初からあるものだけども、それに気づくために修行はいる。それでも修行してこれからそうなるのではない。着眼点が変われば、自分の全部が相手の或る処に集まる。自分自身をよく見てみたって、結局は何が動いているのかわからない。そのわからないもの同士がピタッと当たるようにする。今はそういう感覚で行くのが一番無理がないなと思うようになった。そう言いつつもまだまだ愉気の研鑚の途上である。これというものに執らわれないことが、進歩の秘訣だ。