生き物を観る眼

赤ちゃんの観方で一番大切なのは、他から抱きとったときの重さの感じである。異常のおこる前は、その重さの感じがフワッと軽いし、充実してズシリとした感じのするときは調子がいいときである。これは物理できな目方の問題ではない。「留守にして帰って、まず子供を抱きとる。その瞬間の重さの感じで留守中どんなに扱われたか判る。また皮膚のつやと張り、眼の色と光とちから、便の量と色、及び掌心発現の状況などから、観る眼を養うことが大切である。そういう生き物を観る勘は、生き物に注意を集めて。興味をもって観ることによって育つ」と(野口)先生は言う(野口昭子著『子育ての記』全生社 p.7)

先月太郎丸をつれて一歳半検診に行ってきた。診るものと言えば、身長・体重、歯科検診、それから言葉がどれくらいわかるのか、である。「言葉の遅れ」がないかどうかを確認したいようだ。

それはいいとして、歯の検査の時に無理やり口をこじ開けられたみたいで太郎はかなりショックを受けてしまった。顔が小さくなってしまって、翌日は熱も出した。結局調子が正常に帰るのに三日はかかったのだった。

診察室に入っては泣き出す子供の集団を見ると、やっぱり人情的には憤懣やる方ない気持ちにはなる。申し訳ないのだが、こういうものが「人間」の健全な発育を点検するものとは到底思えない。ただし、それは極々少数派の主観的な価値観で、ふだん我々が職能的に使っているような「生き物を観る眼」の方が相当「異質」なのだということも知っているつもりだ。

簡単に言うと、「動いている物を動いているまま、全体性を観る」というのがこちらの仕事で、一般医療(科学)では「動いているものを一時的に止めて、部分的に測り」たいわけである。

もちろん、こういう風に部分的に専門性を高めることで解ることもあるのだ。それはそうなのだが、部分的になることで観えなくなることも沢山ある。そして我々はいつだって、その専門分化によって「見えなくなる」ものに用があるのだ。具体的には先に引用した、「皮膚のつやと張り、眼の色と光とちから」というものがそうだし、もっと端的に言えば「いのち」というものが「それ」である。

整体というのは発生当初から、近代医療の見地で「見落とされるもの」を相手に仕事をしてきたのだ。科学的な分析は生命活動から出てくる燃えカスを調べているだけで、「いのち」そのものを捉えることは絶対にできない。

だから「人間の健康生活を指導する」といったときには、やはり整体の独壇場というのが実状ではないかと思う。我田引水も甚だしいのだけど、本当のところそうだとしか思えないのだからしょうがない。縁のあった人たちと向き合って、一人一人、直にこの価値を伝えていくより他ない。多勢に無勢なのだが、それは職業としての存在意義とセットなので複雑な気分だ。