胎教

前項の『いのちの輝き』の中でも胎教の重要性を説いているが、野口整体でも一生を通じて健全な人間を育てるという観点から胎教を重視している点は通底する。

医術ということを突き詰めていくと、必ず途中で教育の問題に突き当たる。病気でも怪我でも「どうしてこうなったのか?」「こうならないためにはどうすればよかったか?」とずっと辿っていくと、原因は過去にあるために「そもそもそこに至った生活から正すべし」ということになっていくのだ。

更にその生活スタイルに至った原因を追究していくと、幼児期に浸っていた社会、そして胎教に至るのは当然の成り行きと言えるだろう。

例えばうちの子でいえばもう8才なので、胎教のことをいくら思ってもとうに手が付けられない域に達している。同じ8才の子どもたちを見てみると、本当にそれぞれ個性豊かで人格形成の土台はほぼ完成しているという印象を持つ。

以前の私は母胎の中で体と心の発育の5、6割が済んでいると思っていたのだが、どうやらそれは誤りで、本当は9割以上がすでにでき上がってしまっているのではないかと考えを改めた。

たとえば人間の生活スタイルに朝型とか夜型という表現があるけれども、これは出生の時刻に起因しているのだという。明け方に生まれた子は概して朝型になりやすく、夜半に生まれた子は夜型になるという統計結果が前掲書の中に記されていた。

井深大の著作にある『幼稚園では遅すぎる』という主張も、この線でいえば育児を意識するのは生まれてからでは遅い、ということになる。

昔の日本には「お腹の子に障る」などという表現があったように、母胎内の生活が生まれてくる子の性格や体質にどれだけ強い影響を与えるか、ということが広く一般に共有されていたのである。

しかしながら現代のようにもろもろの事情で共働きが当たり前となっている状況にあっては、いくら胎教を叫んでも深い共感を得ることは難しいかもしれない。

もちろん妊娠期に多少の配慮を持って生活をする人はいるだろうが、かといって「いかに生活すればいいか」とい具体的な問題となると、整体法を正しく修めないことには的確な効果をあげることは難しいのではなかろうか。

すこし論点からはずれるかもしれないが、現代教育はとかく知育に偏り過ぎている。知育に加えて、徳育、体育が教育の三要素として掲げられているけれども、これらをばらばらにして、それぞれ別々の方法で育もうという考え方で果たして奏功するだろうか。

利発で、情があり、逞しい子に育てるための急所の時期を考えるなら、一粒の生殖細胞が数億倍に成長する受胎直後の数週間を軽視する訳にはゆくまい。これは体感的なもので現代人の好きな科学的根拠の確立を待っていたら実証は難しいだろう。

しかし現実に目を向ければ現代社会を生きる人々の心身の問題は山積みで、根拠以前の直感を頼りとし、速やかに胎教の実践を奨めたい。妊娠が分かった時点で仕事をしているなら早期に休暇を取り、家庭内においては妊婦に不当なストレスを掛けないように皆が協力し合うべきである。

社会制度の改正も結構だが社会の最小単位は個人に帰するのだから、社会の改革は個人を十全に育てることから考えねばならないのが道理だろう。

胎教に関してもう一つ知的な方からアプローチするなら前掲書に加えてトマス・バーニーの『胎児は見ている』を読むとその重要性をより深く認識できると思う。

環境問題が叫ばれて久しいけれども、自然を守ろうと思うならまず人間の内なる自然を護り心身の環境破壊をなくすことが重要ではなかろうか。

意識を閉じて無意識に聞く、裡なる要求を感じ生活する、こういうことは人間の自然を守り外界をも治めることに繋がっていく。教育も自然保護も百の論より足下の実践に尽きる。胎教を重んじ良い出産を迎えることはその第一歩であると思う。