いのちの輝き

久しぶりの書評、のような記事。オステオパシーの権威ロバート・C・フルフォード博士による『いのちの輝き』について。

個人的には二度目のトライである。10年以上前に一度購入したものの読まずに手放してしまった。当時アンドルー・ワイルをはじめとする欧米圏の代替医療関連の本を手あたり次第買い込んでいた。

とはいえ読むのがすこぶる遅いため買ったはいいが読まずの本が積み上がり、積読(つんどく)が一定量を越えたところで一気に放出してしまったのである。ひと言でいえば不明であった。

オステオパシーについてはカイロプラクティックとかスポンディロセラピーなどとともに、いわゆる横文字の代替療法として認識していた。他の2つについては全く不勉強で未だに知識を持ち合わせていないのだが、オステオパシーについては上の書を通じてごくごくさわりの部分だけでも知ることができた。

代替療法、手技療術としての個々の技術の背景に一つの思想・哲学体系が認められるのである。それはひと言では表しがたいが、一つの例を挙げると、体を部分に分けることで理解しようとする現代医療とは対極の視座に立ち、オステオパシーのそれは全身心を複雑系としてのつながりをもつ有機体として捉えている。

その結果臨床においては自ずと「見えないもの」「触れられないもの」「現象化する以前の何か」に対する配慮を重んずることになる。当然客観性よりも主観が重視されることになり、その主観を如何にして磨くか、ということが技術修得の鍵になる。

我田引水的になるがこうした態度は野口整体と通底する部分が多い。どうしてかと考えていくと、やはり観念主義的な学説よりも臨床で得た感覚と事実を重んじたことが大きいように思う。

現代人の好きな科学的根拠を求める際には、多くの人は迷信や思い込みよりも事実を重んじる態度こそが科学的であろうと考えている。

建前としては確かにそうなのだが、実際巷に横行するカガク的根拠の大半は、事実以前の「こうに違いない」という思い込みの方が優先されることが多い。

ここに科学のパラドックスが生じる。常識や社会通念よりも目の前の事実を重んじる民間の臨床家が非科学的という謗りを受け、既存の世界観や王道とされる価値観の中だけで分析結果を読み取ろうとする妄信的態度の方を「カガク的」とみなされやすい。

この記事でいちいち例を挙げることはしないけれども、こうした事実か思い込みかの論争の起源を辿って行くと、早晩天動説か地動説かで当時の欧州社会を揺るがしたガリレオ裁判に行き当たる。

この辺りに関しては村上陽一郎著『近代科学を超えて』という本に詳しく記されているので興味のある方は参照されたい。

同様にフルフォード博士が一般的な医学の道から外れ、オステオパシーという医学の未踏ルートを歩み続けることは容易なことでなかったという。中世のガリレオやブルーノに対する糾弾にも匹敵するような批判を受けながらも、自ら真実と認められるものだけを拾い集め道なき道を逞しく歩いて来たというところも整体法の航跡と酷似する。

似ているからどうだということもないけれども、自然科学というものがいわゆる先進国と呼ばれる社会の最大の武器であると同時に強力なクビキとなっていることを再確認できたことは収穫であった。

最初にこの本を読んだとしても無論それなりのインパクトはあったと思うが、それ以前に整体法という社会の裏街道を10年以上歩んできたことで多少なりとも目が肥えていたということが本書の読解に奏功したと思う。

できれば院のサイトの方にも本書を紹介するページを設けたいと思うのだが、質とボリュームをどの程度にするか悩む。こちらのブログでもプロローグから終章まで良いと思ったところを引いていこうか、などと思っている。

できれば来院されるすべての方に一読を奨めたいくらいだ。とはいえ業界内では有名なロングセラー本なので、むしろ私が一番最後に読んだのかもしれない。