1ヶ月ほど前になるが実は腰痛に悩まされていた
医者の不養生はともすれば同情の一つも買えるけれども、整体指導者の不整体は許されない
恥なのである
いろいろ調整を試みるもよくはならず、難渋しながらどうにか仕事をやり過ごしていたのだが回復の波は期せずして訪れた
結論から言えば、庭の草むしりと冬物の片付けで脚立に登り降りしていたら調子が戻ってきたのだ
治そう治そうと工夫したり庇ったりしているうちはかえって治らないという典型のような話で、勉強にはなった
こうして書くと可笑しな話のようだが、世の中には存外こういうものが多いのである
例えば、「念のため」「大事を取って」と言いつつ、要らぬ入院を長びかせてせっせと病人を育てていることがある
別の例えで言うと、右手がかじかんだからと言って、その冷たくなった右手を左手で一生懸命さすっていたらどうなるか
親切に左手がさすっている内はいくらかいいかも知れない
だがその間左手は仕事ができないし、やがては疲れて嫌気も指して来るかもしれない
結果右手が動くようになればいいが、なかなかそう上手くはいかない
正解はそのかじかんだ右手を使って逆に左手を擦るのである
そうすると血行が良くなり、たちまち体温と感覚は戻ってくるだろう
こんな風に、人間というのは守られたり庇われたりすることでどうにかしようと思っているうちは決して丈夫にはならない生き物である
多くの場合病気や故障の実体は余剰体力の発奮材料なのだ
苦しいからと言って余分に寝ていれば余剰体力はますます堆積して、やがて腐りはじめる
その結果、どうどうめぐりと言うか、体力が余ったためになお毀していくという負のスパイラルにはまってしまうのだ
そうこうするうちにやがて弱くある自分自身に快感を覚えて、いつまでも病気でいたいという無意識の要求にのみ込まれてしまう人がいる
そういう状態になった人のことをはじめて「病人」と、こう呼ぶ
人間は眠るのも食べるのも病気をするのも、みんな溌剌と動いて自分の命を出し切るためにやっていることである
自分が知らず知らず毒されてきた潜在観念に気づき、一掃しないかぎり弱い自我は変えられない
健康のために軽い運動などという遠慮がちな態度はやめて、健康のことなど打ち捨てて思い切り動くことが養生だ
最終的には、自分の正体を明らめる以外に治療の手立てはないのである