昨日の記事を読むといかにも宗教を軽視しているようにも見えるが、私は宗教は尊いと思っている。
ただ宗教の定義がそもそも曖昧だし、現行のそれの多くが特定のドグマを擁立するだけの集団になっていることは残念だと思う。
だいたい捉われを捨てることが目的であるはずなのに、宗教活動をしている人の方が案外執らわれていたりするから妙である。これではむしろ執教的と言わざるを得ない。
無論宗教法人ばかりがドグマを有しているわけではない。
現代は大小高低さまざまな思想が横行している。
しかし人生上の苦境において思想でどうにかなるようなものは一つもない。仮にあったとしても、その思想に力を与えるのは自身の信念や気力なのである。
だから平素から「野口整体なら治るのではないかと‥」お問い合わせをいただくが、つまるところは「あなたが治りたいか治りたくないか」が焦点になる。
実際のところ俗にいう「ノグチセイタイ」などはもはやどうでもいい。そういう依りかかりの対象になりそうな全てのものをぶち壊して、裸の力で前進することが野口の説いた内容である。
結局自分を守ろうとするから弱くなる。
守ってくれたり、救ってくれるようなものなど何処にもないということが早くわかることが何より救いになるということなのだ。
そういう、最初に自立した人がその上で修行を積むことが、真の養生である。
何ごとも頼ったり頼られたりする関係に甘んじて、どうにかなっている内は花である。
『無門関』の第一則にも、「妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す」とある。
できるだけ早い段階で「どうにもならない事態」に直面し、自ら心路を絶することが自分を救う唯一の道なのだ。
事態が窮しているのに自分が窮することを先送りするのは得策とは言えない。
死中に活を見出すことだけが自分を逞しくし、道を切り開いてくれるのである。
もとより退路など何処にも無く、活路も無用である。
それが〔今〕なのだ。