すごいもの病

野口整体を看板に掲げている関係で、「大きな期待感」を持ってうちに来られる人は割り合い多いと思う。

もう5~6年前のことになるが、ある男性が腰を痛めて来院された。だいたいの腰痛はしばらく手を当てながら待っていると良くなっていくものだから、治ったからといって驚くようなことは何もないのである。

ただそうやって話を聞いていたら、その方はいろいろな「すごいもの」を遍歴していることが判ってきた。

よくありがちなのは、野口整体の愉気に目を付けるような方はレイキヒーリングもやっていたりする。そして講習に出て資格を取られたりしている。

でもそういう人が野口整体にも来られるのである。

その方もレイキをやられているし、まだ話を聞いてみるとスピリチュアル関連の占い師のところにも通っていたと言う。

それからナントカという行者のところで「特別な」瞑想も習ったことがあるし、ロルフィングの講習会にも出ていた。

そうやって、ずーっと「何か」をやられている。

やっていることの実体としては、自分というものの不全感を解消してくれる「何か」をずっと探しているのだ。

半世紀前ならこれは「宗教」の領分であった。

ところが自然科学の台頭によって大半の宗教は力を失っているから、今度はその後釜としてスピリチュアリズムとか民間療法がむりやり当て込まれているのが日本の現状なのだろう。

具体的に言うと難病なんかに罹った場合に、まず病院には行くけれども処置に不安があると次は食事療法をやったり、〇〇整体にいったりする、という構図だ。

これはある種の思想に頼ることで守ってもらおうという幼児的な願望の延長なのである。

現行の「宗教」と呼ばれているようなものも、だいたいはそういう「思想に堕ちてしまった」ものが多い。

つまり「こういう考え方で生活してみたらきっとラクになりますよ」ということをただ教えるだけの話である。

たったそれだけのことを言うために、まずその中心人物の周りを大勢の人で固めてなかなか会えなようにしてある。

そのうえ高い講習料を払ってやっと行くものだから、ある種の人は発達段階の「ある時期」においてこれが非常に助けになるのである。

ただ付け加えておくと、助けになっている内が花であって、やがて気がつくとそのことが大変な重荷になっていることもあるから要注意なのである。

何であれ、その「ある時期」がせいぜい20~30代くらいまでならいいが、中年を過ぎて初老に至ろうかという人までが自分以外の他にすがろうとしていたり、自立していたかと思う人が不意にある種の教義に取りつかれたりするのは、年齢とは裏腹に自我の発達が不充分であったと考えねばならない。

そういう人にとって野口整体というのも一種のまばゆい光として映るのも無理はないのである。

しかし実際はそうではない。

この世のことを延々と突き詰めていくと、結局最後は当り前のことしか起こらないのである。

そういう点で「悟り」とよく似ている。

「悟ったら」と思っていた世界と実際に「悟った後」で出てきた世界というのは大変な食い違いがあるのが常である。

その食い違いによって感涙にむせぶ人もあるかと思えば、ばかばかしいと思って歯牙にもかけない人もいるのだ。

何にせよ、「すごいもの」をずっと探し続けていると、最後の着地点というのはやはり一つしかないのである。

昔から言われているように、天上にきらめく星月に目が眩んで、掌中の珠を失ってはいけない。

自分にとって最も身近な、抜き差しならないものに着眼を正す意外に絶対の救いは無いのである。

人のことはどうであれ、何より自分が眩まされないことなのだが、引きずられないようにわざわざこんなことを書いているのかもしれない。

惺惺著。

喏。