七歳までは神様

先日、息子(三歳)と地下鉄に乗ったときに、となりに座ったおじいさんがすごくかわいがってくれた。

「かわいいねぇ、むかしから七歳までは〈神様〉だっていうよ」といわれて、「あーそうですかぁ‥」と思わず聞き入ってしまった。

そうだろうなぁ、と思う。

〈神様〉っていうのはつまり「私を超えた、漠としたもの」である。最近の私は、すぐにそれは「無意識だ」と固定的になってしまうのだけど、とどのつまりそれは「それ(es)」ではないか。

だから「ボク」という自我がまだふにゃふにゃで確立されていない三つ子なら、内なる〈神様〉ともつながりやすい。

もちろん、大人になってもまだ「自我がふにゃふにゃです」というのは困ってしまうのだが。かといってあんまりカチコチなのも、それはそれでいつも病気ばっかりしていることになりそうだ。

適度な柔軟性というか、いわゆる「遊び」的なこころの余裕がないと、体の方にシワ寄せがいって苦しむことになってしまう。

そういう意味では、子どもは大人よりもずっと感情と体が直結しているからすぐに風邪をひいたりじんましんが出たりする。そういうことで調整がつきやすいから大病もしにくいのだ。

大人からすれば、そういう子どもに触れる時間は貴重なのである。

うっかり変なものを信仰して拝むくらいなら、子どもと一体になって遊ぶ方がよほど宗教的であり功徳はある。

やはり七歳までは神様なのだ。

八歳から〈神様〉でなくなるのかどうかはわからないけれども、大人だって本当は誰でも意識を閉じればすぐに神(しん)は現れる。

そういえば子どもは体もやわらかい。

身体の弾力を取り戻し、顕在意識のレベルを下げることで目の前の問題事は消えてしまう。

理屈は非常に簡単なんだけど、実現するには自力がいる。

活元と坐禅をすすめるのもそのためだが、それを「取れる」人というのは本当に僅かに限られている。

普段大人の頭で子どもの世界をみているといろいろ教えたくなるが、本当は学ぶことが多い。

あまりそういう境界を設けず、一緒になって遊ぶことが何よりだろう。