内なる美

近頃は対話型の精神療法の勉強にいそしんでいたが、やはりフィジカル面では背骨が大事である

先日あるカウンセラーさんと治療談義をしていた折、「心理療法では、〈治った〉と判定するのはどのポイントですか?」と訊ねたら、「忘れたとき」とおっしゃっていた

また、それにつづいて「身体が変わったとき」とも言われた

確かにどちらもそうだ

忘れたときは身体も変わっている

そして人間は対話でも変わるし、手技(皮膚の接触)でも変わるのである

カウンセリングの場合は「もう大丈夫ですね」という両者の合意によって治療終結の確認をとるのが理想の終わり方だが、整体では指導者が身体の変化を観ることをもって結了するのがならいである

ただ指導者とクライエントはその時は一体化しているので、両者の主観的には「どちらともなく、これでいいのだ」という感覚を味わうことになる(間主観性)

いずれにせよ、この時背骨には通った感覚が出てくるのが本当である

整体指導では伏臥した相手に跨って背骨のキワを押える型があるが、これは直接的に中枢神経系にはたらきかける技術であって、おそらく脳の作用に反応を起こさせやすいのだと思う

しかしいくら肉体を押えても意識のあり方が変わらなければ、身体はまた同じように偏ってしまう

だからどちらにしても目指す所は、「現在意識の崩壊と再構築」であり、これを誘発することが治療行為の根本にある

対話で自我崩壊が起こるならばそれはそれで結構だし、身体の接触による刺戟で変わるなら迷わずそちらを使う

これを表現するのに整体では鍵刺激、という言葉がある

鍵というのは、鍵穴の構造にあった形のもの使用して、正しい方向に動かせば簡単に開く

玄関の扉でもこの「鍵」があるから容易に開くのであって、これがなければ蝶番から扉自体を外すなり、破壊するなりしなければ開けることはできない

だから技術というのはありがたいのである

ただ鍵の構造を理解するより、人間の構造を理解することの方がはるかに難解であることは誰もが認めるであろう

だから整体では一にも、二にも、「観察」を重んじるのだ

何ごとも「解れば」出来たも同然なのである

ところが人間というのは探れば探るほど、「解る」ということからは遠ざかっていく

人間は頭で理解しようとするとかえって解らない、だからこそ整体指導者は主観を磨き、身体を観るのだ

背骨はその中心になるが、全体を通して「美しさ」があればそれは「善し」である

やがてはクライエント自身に自らの美しさを観じる心の眼が養われることが肝要で、高度に洗練された審美眼に耐えうる動作と生活が展開されればそこに「整体」が現れる

つまりカウンセラーがいうところの「身体が変わった」のだ

何ごとも「美しい」ということは本物である

さらに、美しさを観じることができるのは、自らの内に美を有するものだけだ

健康とはそういうものである

美と健は同じ事象の別の呼び名なのだ