片付け

今さらながら「掃除」は大切だ。何かわからないけど「調子が変だ」という時はたいてい家の中が散らかっている。この「散らかっている」ということに気付いたらしめたもので、その時はもう調子が戻ってきたと見て間違いない。さーっと一息に片づける頃には完全に自分のリズムが戻っているからだ。部屋を片付けたから調子が戻ったのではなくて、「片付けている」ことと「自身の状態」は一つである。本当の因果ってこんな風にズレがないものかもしれない。

「心でも体でも異常を異常と感ずれば治る」これは野口先生の言葉です。自分の体調のみならず、いろんな人を観ていても、「おかしい」ことが判らなくなっている時ほど問題の根が深いとみる。異常感の鈍さがあらゆる問題の元凶なのだ。痛みでもコリでも今まで感じなかった小さい不快感に気が付くようになると、誰もが回復の波に乗ってくる。身体感覚をしつこく説くのはこのためである。

最近部屋の「片づけ」が流行っているけど、テレビでモニターになるような人を観ていると大体において散らかっていることが「普通」になっているみたいだ。確かにこれではまずい。以前往診をしていた経験から言うと、家に行くと如実にその人がわかる。身体が偏っている人は家の中がぐしゃぐしゃだった。ただ身体を整えて1週間くらい後にもう一度行くと、大なり小なり部屋が片付いていたことも覚えている。これは嬉しい副産物で、この時本当に「身体が人生を作っていく」ことを痛感したものだ。

今や片付けといえばこんまりさんだが、海外でウケているのは興味深い。もとをたどれば無駄をはぶく生活のパイオニアは禅の文化なのだが、そのZENも海外で需要が増えているそうではないか。禅と掃除は親と子のように切っても切れない関係だ。目の前の塵を一つ拾うことで一体何が起こるのか。当然視界からは塵が消えるのだが、もしこれが「自分を掃除している」と言ったら変に思われるだろうか。今一度「自分」という活動体がどっからどこまでなのか、改めて考えてみるのも面白いかもしれない。何にせよ片づけと掃除は軽視できないという話である。

定休日だったのでミツコと太郎丸と3人で六本木アクシスビルの中にあるサボア・ヴィーブルに行ってきた。知人の個展を観に伺ったのだけど、ふだんは反町・横浜からめったに離れることがないので、完全にお登りさんの心境である。

roppongi

ギャラリー内は質にこだわった作品が整然と並んでいた。芸術作品はどれも一点ものなので、やっぱり普通の「お店」とは気の密度が違う。一点一点が独特の雰囲気を醸し出しているので、良いモノに触れたい方にとっては格別の空間だ。ミツコがいなかったらおそらく自分には縁のない世界だろうけど。

仕事の面から言うと、業種を問わず質の高いものに触れることはいい刺激になる。悪くすると独善に陥りやすい立場なので、今日のような体験は有り難い時間なのだ。野口先生がカザルスのチェロを聞いて自分の仕事の質を点検したという話が有名だが、これは同等の感性があって成立する話だろう。

余談になるが、職能的な「知識」とか「技術」というものは後天的に補えても、「質」というのは天分かも知れないなと思うことがある。瓦をいくら磨いたって鏡にはならないし、ガラスにダイヤモンドの変わりは務まらない。ただダイヤにはダイヤの稀少性があって、ガラスにはガラスの有用性があるのだ。素質自体には本来優劣はないわけで、どんなものであっても磨けば磨いたなりの姿にはなる。

8尺ほどの布に描かれた人物画を前に、自分の仕事の本分についてポツネンと考えていた。ミツコは作家さん(知人)の大ファンだという女性客に熱心に話しかけられて、ゆっくり作品を観るどころではなかった。太郎丸は背中で熟睡していた。

審美眼

昨日のブログ記事に関連してミツコに訊ねられた。「肩が落ちてると、肩を落とすは別ものだよね?」という話だが、整体というよりも国語の疑問であった。肩を「ガックリ」落とすということになると、これは「失意」を現しているので、あまりいいとは言えないだろうな。その場合は「落とす」とも言えるが、むしろ肩が胸の方に巻いているのだ。当然猫背にもなるし、眉間も固くなる。いい空想も出てこないし、腰だって伸びない。生きている身体はどこもかしこもそうなのだが、「部分」は「全体」を雄弁に語るのだ。

件の女性の写真では、もちろん「肩を落とし」ているのではなく「下りて」落ち着いている。呼吸も深い。何より上品だ。当然のことながら「撮影」を意識しているので、「不自然」なのだが、その不自然さの中にも自然の動きが見えていて美しいな。詳しい事情は知らないが、要求が素直に生活に現れている人なんだと思う。自然の健康は必ず「美」として現れる。本物は美しいのだ。

姿勢

今日はミツコ(嫁)がブログを書いてくれました。よろしくお願いします。↓↓

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モノを持たない暮らしに憧れて、本棚を整理しはじめた途端に挫折した。

ちょっと、さらっと目を通すだけのつもりが、普通に読み始まってしまったのだ。
捨てようと思っていた雑誌を眺めていたとき

キッチンに立っている人の写真を以前とは違う見方で見ていることに気がついた。

 

「あ、この人肩が落ちてる。腰が入ってる。

あとで先生にきいてみよう。」

 

好きなことをしているとき、

集中しているとき、

だいたいは腰が入っているらしい。

 

だから、なんでも「興味を持って」というのは

大事なポイントなのだろう。

 

先生に体をみてもらう時に、

最後に「本気の正座」をつくってもらうことがある。
先生ともよく冗談で話をするけど

腰が入っている状態というのは

「チーン」という感じ。

大仏さんのようにどーんと座って

ほんとうに「今だけ」になる。
「考え」が消えて、腰がどっしりするのだ。

 

不思議と肩の力が抜けて

上半身がそれはそれはラクに、頭もスカッとする。
パソコン仕事が続いたりして

肩こりがひどくなったりすることがあるけど

一度このスカッとした状態を体験すると、

いかに日常で肩に力が入っているかがわかる。

 

そして、肩に力が入っている時はたいてい猫背だ。

 

肩が落ちてるというのは、腰が入っていないとできない状態なんだ。

そして、肩が落ちているというのはリラックスしているということ。

 

よくスポーツ選手なんかの話しで

リラックスした状態で試合にのぞむとかいうのを聞いていたけど

なにか偉業を成し遂げるためだけでなくても

人はいつでもリラックスしていたほうが物事がうまくすすむ。

 
頭で計画してうまくやっているつもりでも

やっぱり体の方が一枚上手で

そっちを整えるだけでいろいろなことがラクにすすむ。

 

野口整体のいいところは、日常に落し込めるところだな、といつも思う。

 

20160208

自分の世界

世界の中心は 生きている人間 それ自身だ 『偶感集』p.16 

グローバルの話から一転して今日は「人間」の話だ。以前海外在住の方が、私用で来日される期間を利用して通院されたことがあった。時はまさしく3.11の直後で、整体指導を受けにきた動機もどこかに吹き飛んでしまい、初回は原発事故の批判を滔々とされていたのが印象的だった。「誰々が悪い」という体ではないけど、しきりに「コレは国際的な問題だ、人類の負の遺産だ」とおっしゃっていたのだが、2、3度通ったら原発の話は頓と出なくなり、話題は家庭の問題に移った。「国際的な問題」が一体どこで起きていたのか、本人が気づいたかどうかは知らない。気づこうと気づくまいと、世界はいつも平らなのだ。そしてみんな自分の思い通りの世界を生きている。それを「我と宇宙は渾一不二」と野口先生は示された。このことを知っていようと知っていまいと、みんな自分の思い通りの世界を生きているところが人間の面白いところである。

 

世界標準

野口整体がもっと世界に羽ばたいていいのではないかと人に言われて、それぐらいの価値はあるだろうなとは素直に思った。人間の生理と精神を「事実」のほうから正確に読み解いたものなので、世界中どこに行っても通用する普遍性はある。ただ性質的にはこちらから行って布教に努めるよりも、質の高さを実証して自然に広まっていく方がいいなとは思っている。

昔の中国には、インドまで命を懸けて仏典をもらいに行って、無事帰郷してからは死ぬまで漢訳に人生をささげたような話がある。人生の諸問題を根底から解決してくれるものを、本当はみんな知りたいのだ。宗教はその代表格だけれど、「考え方」をともなうメソッドは他との衝突も生む。その点、整体で説く人間像は「水をのんだらおしっこがでる」というようなあたりまえの話を細密に体系化したものなので、どこに行ってもまちがいなく通じる話だ。

自分自身は家にこもりきりの生活だけど、指導を受けに来られる人は行動的な方が多いのでそのあたりからも多少は流布するかもしれない。ただ異文化交流には誤解がつきものなので、実践力と言語能力の両方が必要かと思う。ちょっとでも理解が変わると全く別ものになってしまうので、薄まって広まるよりもたった一人でもいいから正しく伝わることを大切にしたい。500年後くらいには野口整体もグローバルスタンダードになるだろうか。

節分

節分が実は年四回あることを最近知りました。いくつになっても知らない事だらけだ。

setubun

近所で配っていたオニのお面をひっくり返すと・・・

不苦者有智(ふくはうち) 遠仁者疎道(をにわそと)

くるしまざるものにはちあり じんにとおきものはみちにうとし

出典はいつどこなのかわからなかったけど、いつの時代もシャレの上手い人はいるものですね。智は人間にもともと具わっている「真実を見極める力」だとも言われます。「智有るものは苦しまず」ということですが、「真実が見える人」にはこの世界はどう見えるのか。「鬼」ははたしてどこにいるのか。

この2週間ばかりは子供の夜鳴きにやられている。「整体」をやっているとさぞかしラクな良い子育てをしているだろうと思われるんだけど、親子ともども普通に泣いたり笑ったりの日々で、とても立派な話はできない。どこにでもあるふつーの育児だ。

夜鳴きについてよく見ていると、程度の差はあれぎゃん泣きした翌朝は大抵きげんが良いので見ている方がアラ?っとなる。泣くには泣くだけの理由があるはずで、ムリに止めない方がいいのかもしれない。泣くだけ泣いてしまえばスッキリするのは大人も子供も変わらない。

少し仕事に寄った話をすると、滞った「感情」が流れるための水路を開けることが整体の要訣だ。止まってしまった感情が動き始めないことには、身体にいくら力を加えたって何も変わらない。心が動くと一気に身体が変わるので、やっぱり心と体は同じものの別称なのだ。感情が複雑に絡まると、身体が偏ってくる。

心理学用語でいう「コンプレックス」は「感情複合」と訳されるけれど、もともとは「複雑だ」という程度の意味らしい。身体がスキッとしない人は環境に揉まれ過ぎて自分の今の感情が解らなくなっていることが多いし、難治性の病気なんかもほとんど感情の凝固によっている。その点、子供は感情と身体が直結しているので、その場でしっかり消化することで変なこわし方をしないで済むのかもしれない。

よく育児本なんかには「赤ん坊は理由がなくても泣くことがある」とサラッと書いてあったりするけど、大人がわからないだけで「ない」と断ずるのはちょっと切ない気がする。涙には必ずその人なりの理由があるのだ。心理学の研究がいくら進んでも心そのものは手がつけられないもので、結局「おんぶにだっこ」が究極の解決策であることはいつの世も変わらないと思う。

103歳になってわかったこと

今日は今年最初の活元会でした。お近くからも他県からもご参加いただきまして、みなさんお疲れ様でした。

さて、久しぶりに読書ネタです。昨年、読書の秋に脱読書宣言した私ですが(誰にも言ってませんでしたが)、結局また復活です。元の木阿弥。。(ー。ー)ちーん

一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い

103sai

ミツコと買い物先で目について、「103歳になったら何がわかるのか」が知りたくなって衝動買いです。幻冬舎はタイトルでやられる率が高いのです。そういえば、石原慎太郎さんが活元運動を紹介した『老いてこそ人生』も幻冬舎ですね。

その内容ですが・・・、「私には死生観がありません」と言うくだりから始まる第一章からして秀逸です。

p.10「これまで私は、長寿を願ったことはありませんでした。死を意識して生きたこともありません。淡々と、生きてきました。…考えたところでしようがないし、どうにもならない。どうにかなるものについては、私も考えますが、人が生まれて死ぬことは、いくら人が考えてもわかることではありません。現に、私になにか考えがあって生まれたわけではありませんし、私の好みでこの世に出てきたわけでもありません。自然のはからいによるもので、人の知能の外、人の領域ではないと思うからです。」

本当の真理を語ると必ずこういう身もフタもない話になりますね。誰だって考えたから生きている訳ではないですから。生きていれば考えることができるわけで、その「考えること」をやめるとどうなるのか、ここに全人類救済の鍵があるようだ。生命存在の急所を突く内容が散見するのでいくらでも感想が書けそうだけど、読み方は人それぞれ・・、気になられた方はご一読をどうぞ。

あんまり喉が痛いので昨夜とうとう加湿器をつけて寝ました。おかげさまで今朝はだいぶ楽です。文明のありがたみを噛み締めつつ窓を開けたら、あ、雨か・・。^^; そうとう乾いていたので、今日の雨には癒された。仕事をしていても身体の乾燥は軽視してうっかり見落としやすい。

少しセオリーのおさらいになりますが、冬は水を飲むことです。あたりまえの話ですけど・・。こういう当たり前の事はありがたみがないので、自分でもおざなりになりやすい。身体が乾燥すると、わかりやすいのは先ず唇がカサカサします、それからあちこち痒くなったり、トイレが近くなったりと、そんな風になってくる。水さえ飲んでいればいいのですが、冬場は習慣のない人は意外と飲まないんですね。

土の乾いた鉢植えなんかは一度水をやっても、カチコチの土の隙間を通ってサーっと下から出てしまいます。その場合は土が湿るまで繰り返しやらないといけない。それと一緒で一度身体が乾いてしまったら1、2回にゴクっと飲んだ程度ではしみ込まないのです。1週間くらい繰り返し繰り返し飲むと潤ってきます。「水を飲む」なんて人から聞いてやるのも変な話ですけどね。敏感な身体を保つ方が主で、こういう知識の収集は補助程度に収めたい。