花粉

回想続きで、開業する前の一時期手技療法家(あんまさんや鍼灸師さんたち)の集まりでテクニックを習っていたことを思い出した。その当時学んだ技術が臨床で役に立ったかというと、そうでもないんだがな。しいて言えば「開業する」ってこうやるのか、というノウハウが解ったことくらいか。ある意味プロになるために一番大事な所でもあるけど。

さて、当時は春が近づくと治療家同士では「花粉症の患者はどうしてますか?」というやり取りをよく目にした。今でもその業界ではそうだろう。花粉症も今や言わずもがなの一大産業である。自論としては、「クシャミ・鼻水・涙」などの重度な方には投薬が一番結果が出る。畢竟症状を「止め」たければ、薬に勝るものはないのだ。手技療法家とは違い、整体指導と言う立場からは鼻炎などいっさい興味のない話だったが、今年は花粉にコテンパンにやられているのでさすがに「どうしたらいいのかなぁ」と考えてしまう。

実を言えば「減食」が一番端的な対応策だ。個人的に「減食万能説」を提唱していて、今の日本では食事の量を落とすだけて消失する疾患が相当にあるとにらんでいる。その他もろもろ対処法はあるけど、所詮人間のやっていることなのだから個人ごとに効くも八卦、効かぬも八卦だろう。ただその大半は市場原理を背景とした内容の乏しいものだと思っている。風が吹いても桶屋は儲からないのに、花粉が飛んだだけて右から左へ大勢人間が動くのも妙な話である。

ふと考えてみると、仕事で愉気をしている時はアレルギー反応は出ない。当然受けている方も操法直後は鼻水が止まっている。自律神経系の関連が予想されるが、メカニズムはわからない。まあ一先ずは人も場所も選ばない減食を試すことをお勧めする。と言ってもあんまりストイックにならないで効くか効かないか、楽しむぐらいの余裕があるといいな。眠くなるような副作用がない所もちょっと素敵だ。

腰痛

20代の中ごろ、茨城県まで武術の師範を訊ねて行った思い出がある。その時に柔(やわら)で投げられてしたたか腰を打ったために翌日から歩けなくなった。過去に腰が痛くて不自由したのはその一回だけで、以来腰痛の相談はよく受けているけれども、自身が腰痛になることはまずない。そう思っていたら先週腰を痛めた。

ひと口に「腰痛」といっても、その原因は複雑で多岐にわたる。世間では「腹筋をやると腰痛の予防になる」という説もあるが、どうかなと思う。実際は腹筋の強いスポーツ選手の多くが腰痛で難儀している。逆にお腹の筋肉の硬直を上手に緩めてやるとすんなり良くなる腰痛もあるくらいだ。整体は何であれ、「固さ」を嫌う。食べ過ぎて胃や肝臓が疲労し硬化することも腰痛の原因としてよく見られるが、その場合は減食や断食が腰痛の特効薬とも成り得る。人体の妙とも言えるが、満腹や空腹といった普通の「感覚」さえしっかりしていれば何のことはない話だ。

知っている人しかわからないけど、「腰が痛い」というのはツライ。例えば立ったまま右手を真っ直ぐ前に出す動作だけでも、腰に負担がかかっていることがよくわかる。本当にひどいケースになるとまず立てないし、横にもなれないのだが・・。自分の場合は職業柄カラダの構造が深部まで把握できることが有り難かった。興味を持って、実験的にいろんな動作を試みては「なるほどな」と研究しながら先週は仕事をしていた。

三日経ち、四日経ち、「良くなったかな?」と思いきや、次に日にはまた痛い。原因は把握していたので敢えてすぐには治さなかったのだが、今回の件で改めて解ったことは胴体と言うのはつくづく「立体」であるということだった。一般には腰が痛いというと、どうしても平面的に腰の表面の筋肉だけにフォーカスしやすい。ところが先にも述べたように、内臓も含めて、複雑な人体が連絡し合って、最終的に臨界点を越えて発症するのが腰痛である。「要」というだけあって、身体全体の動向の責任を担う場所が「腰」なのだ。

体を見る、心も診る、生活も視るという風に、一人の人間の活動を「全体性で観る」という大局観が整体の最大のアドバンテージだ。実際の所、これがないと腰痛に限らず身体のあらゆる変調に対応することは不可能と言える。畢竟整体の技術の粋はこの「観察力」で、慧眼が養われると科学的検査では絶対に見えないものが見えてくる。よって、年々歳々「人間」に対する興味は深まる一方なのだ。開業当初、ギックリ腰に手も足も出ずに閉口してた頃を思うと、身体の読み方は随分変わった。怪我の功名という言葉もあるように、「痛み」はすべて自己理解を深めるための良薬である。迷悟一如の感もある。

折り紙

昨日の夕方、姉とめいっ子(太郎丸のイトコ)が遊びに来てくれた。

めいっ子のおき土産。

「折り紙でコマ」

origami1

ちなみに3枚使っていて、予想外の回転数に驚愕した

origami2

太郎丸もくぎ付けである。よく遊んでめでたし。

捻れ型ハンバーグ

せい氣院の妻ミツコです。

昨日は蓮根ハンバーグをつくった。

種がとっても増えたので、何個も焼くのが面倒臭くなってえいっとジャンボハンバーグにした。

先生は久々のがっつりハンバーグでご機嫌、

「捻れ型のハンバーグだね。」

発想が「捻れ型」だという。野口整体には「体癖」といって、身体の相から生まれる感受性の傾向をまとめた概念がある。

捻じれ型と言うのは総じて「ボリューム」を好むらしいのだけど、それ以前に私は料理のレシピを見てもその通りに作った試しがない。

何か自分らしさを表現したいのだろうか、こうしたほうが面白いじゃん、的な発想で行動してしまうところは確かにある。

反対に絶対こういうことをしないのは「上下型」、特に二種体癖だそう。

ジャンボにしたせいで火の通り具合がギリギリだったので焦ったけど、まあ先生もにこにこ食べてくれたのでほっとした。

結婚当初だったら、「まずレシピ通りに作ってから、アレンジしないと!」と言われていただろう。

先生も丸くなったな、と思った。と言っても2年くらいしか経ってないけど。

自重

今年になってようやく春の身体の変動というのがよく分るようになった。兎に角みんな一様に活元運動がよく出るようになる。皮ふはゆるんで汗も出るし、これまでの寒かった気候からうってかわって身体の表情が豊かだ。

それだけではなく、なんとなく「ポヤー」っとしている人も多い。ほんわりと「気分が良い」という感じもあるし、ハイにもなる。新しいことや、変わったことがやってみたくなったり、全般に「動的」でもある。こういう時に、足首が固い、というかアキレス腱の伸びが今ひとつという人は、大脳が過敏に働いて行動の自制が効きにくくなるから注意が必要だ。

転んだり、思わぬ怪我をするようなことも春先に多い。おでこを触って熱いような人はお風呂でよく足を温めて、寝る前にはしばらく深い呼吸をするといい。まあ、半分は自分の注意を喚起するために書いている気がする。「好事魔多し」と言うようなもので、調子がノッている時に上手に自重できる人は養生の達者な人だと思う。春の変動は整体生活の試金石と言える。

立腰教育入門

前回のミツコの記事から、「立腰(りつよう)って何だ」ということを改めて考えてみた。そもそも立腰という言葉の出典は、森信三著 『新版 立腰教育入門』に由来する。以下、同著からの引用する。

p.7「われわれ人間が、真に主体の立った人間になる最も具体的な着手点は、結局常時、腰骨を立てつづける事の他にないのである。」

p.10「われわれ人間は心身相即的存在ゆえ、性根の確かな人間にしようと思えば、まず体から押えてかからねばならぬ。意識は瞬時に変転するものゆえ、その持続性を養うためには、どうしても先ず体から押えてかかる他ない。

〃「しかも体の中で一番動かぬところはどこかと言えば、結局胴体であり、そのまた中心はどこかと言えば腰骨である。それゆえ二六時中この「腰骨を立て貫く」以外に、真に主体的な人間になるキメ手はないと行ってよかろう。」

腰骨が立つことは特にせい氣院の整体指導においては急所となる。これなくして仕事の完成はない。森氏は「主体」という言葉を用いるが、畢竟身心の健康問題の要は、今、世界の中心としての自分自身を意識できるかどうかにある。簡単に言うと腰骨の様相(一つ一つの骨の向きや角度)が、意識をその様にせしめる、一大変革の鍵を握っていると言っていい。こういう意識を自己中心主義として倦厭する人もいるかもしれないが、真に「自己」が中心となることは、この宇宙の中にあってどこにも「我」が立たないことを意味する。身体が整うということは、どこまでも清々しいもので「私」らしい気配がどこにもない状態である。

話は戻るが、森氏の立腰教育の元型は岡田式静坐法である。こちらの細かい指導法については知らないのでここでは当院の手法について言及するが、具体的には背部のきめ細やかな脱力、これによって正しい正坐を行うことである。坐骨の正確な安置を基底とし、背骨を芯柱(しんばしら)よろしく下から積み上げていく。これによって直立した脊髄神経が脳の働きを変性し、顕在意識の完全休止および潜在意識の活性化を試みるのである。一切の思量分別と言うものが行われなくると、そこには手つかずに「事実」だけがごろっと姿を現す。森氏は「真理は現実のただ中にあり」という言葉も残しており、これは安楽の法門とも言われる、坐禅の功徳と全く同質のものなのだ。

ただ腰は「立てる」ものなのか自然(じねん)に「立つ」ものなのか、という点は一考を要する。そもそも何故、人間として生まれていながら腰が立たなくなるのか。それは勢いがないからだ。姿勢というのは勢いの象徴である。勢いを生みださずに、外から矯正的に作られた形では保てない。内なる意欲の具現体として、腰は自ずから立つようにするべきであろう。

森氏は「腰骨を立てる」というが、これは人間的な意志の力によるものである。整体でもまず身体から押えてかかるので当然意志は要するが、後に無意識の働きに任せ切るようになる。習慣化と言えばそれまでだが、知識が行動によって身になる、「型の文化」ということだ。生命の根元的な意欲のもとは腰なのだが、子供ならいざ知らず、成人ともなれば自分の腰を鍛えるには最初に本人の強力な意志力がいる。この腰を立ること一つとっても、やる人は放っておいてもやるし、やらない人はいくらこちらが勧めてもやらない。なんであれ「立腰」は人生の一大事である。これは整体の仕事の中でも終始一貫して説く要訣でもある。個人的には個別の整体指導の延長として、公に於いては立腰教育の復活を期待しているのだ。

立腰の教え

今日はミツコです。

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先日のこと。

「包丁の使い方がうまくなったね。腰が少しずつ使えるようになってきた。」

と、先生がいう。

包丁は引いて切るものだけど、どうしても真下に向かって力を入れてしまい、よく刃先をだめにして先生に研いでもらっていたのが、最近は研ぐ頻度が減ってきた。

先生曰く、包丁を上手に使いこなすには腰が入っていないと難しいと。

テーブルを拭くときも腰が入っていると、力の入り具合がきまるというか、手を動かしやすい。

太郎丸もお腹がすいていて、積極的に乗り出してごはんをたべるときは腰が入っている?!

私がPCに向かってノリノリで仕事をしているときも腰が立っているらしい。

立腰とは本当にすごい教えだなぁと思うこの頃。

続・玉子焼き

前回の焦げた記事はこちら

くやしいのでもう一回・・・

TY1

ゆーくりゆーくり慎重に・・・

で・・

できたゾ(・_・)

TY2

今回はミルフィーユ状に6層くらいになってます。お隣はわかめフリカケのごはん。

はー、これでスッキリ。

待つ

ミツコに続いて太郎丸も風邪を引いた。熱がなかなか下がらないので一時不安にもなったけど、それでも何もしないで待っていたらやがて症状は消えた。整体には「風邪は体の自然良能」という概念があって、病気は中断させずに最後まで使い切ること(病症経過)を説く。人為的に治すことよりも、命が一番良い働きをできるように、身体を整えてひたすら待つのだ。今回の太郎丸の場合は、熱が終わったら肌がつるっつるになった。それまで2ヶ月くらいはお腹にも背中にもカサカサが出ていたのに、今はピッカリしている。「病症が体を治している」とはこのことかと実感した。

話を戻すと、整体の技術は「待つ」ことだ。やってみるとわかるけど「何もしない」でいることは、「何かする」ことよりも気合いと根性がいる。河合隼雄さんは「何もしないということに全力を懸ける」という至言を残されたが、これにも通じる話かもしれない。こちらから「何かしよう」としなければ、相手は抵抗する力を失う。病気というのは苦しいものだが、そこをもう一つ丁寧に見ると「苦しい」だけである。苦しいことを「苦しい」だけで終わらせることができる人は力のある人だ。そういう人は苦しむ人の傍らにも静かに坐せるだろうな。治療者とは斯くありたいものである。