立腰教育入門

前回のミツコの記事から、「立腰(りつよう)って何だ」ということを改めて考えてみた。そもそも立腰という言葉の出典は、森信三著 『新版 立腰教育入門』に由来する。以下、同著からの引用する。

p.7「われわれ人間が、真に主体の立った人間になる最も具体的な着手点は、結局常時、腰骨を立てつづける事の他にないのである。」

p.10「われわれ人間は心身相即的存在ゆえ、性根の確かな人間にしようと思えば、まず体から押えてかからねばならぬ。意識は瞬時に変転するものゆえ、その持続性を養うためには、どうしても先ず体から押えてかかる他ない。

〃「しかも体の中で一番動かぬところはどこかと言えば、結局胴体であり、そのまた中心はどこかと言えば腰骨である。それゆえ二六時中この「腰骨を立て貫く」以外に、真に主体的な人間になるキメ手はないと行ってよかろう。」

腰骨が立つことは特にせい氣院の整体指導においては急所となる。これなくして仕事の完成はない。森氏は「主体」という言葉を用いるが、畢竟身心の健康問題の要は、今、世界の中心としての自分自身を意識できるかどうかにある。簡単に言うと腰骨の様相(一つ一つの骨の向きや角度)が、意識をその様にせしめる、一大変革の鍵を握っていると言っていい。こういう意識を自己中心主義として倦厭する人もいるかもしれないが、真に「自己」が中心となることは、この宇宙の中にあってどこにも「我」が立たないことを意味する。身体が整うということは、どこまでも清々しいもので「私」らしい気配がどこにもない状態である。

話は戻るが、森氏の立腰教育の元型は岡田式静坐法である。こちらの細かい指導法については知らないのでここでは当院の手法について言及するが、具体的には背部のきめ細やかな脱力、これによって正しい正坐を行うことである。坐骨の正確な安置を基底とし、背骨を芯柱(しんばしら)よろしく下から積み上げていく。これによって直立した脊髄神経が脳の働きを変性し、顕在意識の完全休止および潜在意識の活性化を試みるのである。一切の思量分別と言うものが行われなくると、そこには手つかずに「事実」だけがごろっと姿を現す。森氏は「真理は現実のただ中にあり」という言葉も残しており、これは安楽の法門とも言われる、坐禅の功徳と全く同質のものなのだ。

ただ腰は「立てる」ものなのか自然(じねん)に「立つ」ものなのか、という点は一考を要する。そもそも何故、人間として生まれていながら腰が立たなくなるのか。それは勢いがないからだ。姿勢というのは勢いの象徴である。勢いを生みださずに、外から矯正的に作られた形では保てない。内なる意欲の具現体として、腰は自ずから立つようにするべきであろう。

森氏は「腰骨を立てる」というが、これは人間的な意志の力によるものである。整体でもまず身体から押えてかかるので当然意志は要するが、後に無意識の働きに任せ切るようになる。習慣化と言えばそれまでだが、知識が行動によって身になる、「型の文化」ということだ。生命の根元的な意欲のもとは腰なのだが、子供ならいざ知らず、成人ともなれば自分の腰を鍛えるには最初に本人の強力な意志力がいる。この腰を立ること一つとっても、やる人は放っておいてもやるし、やらない人はいくらこちらが勧めてもやらない。なんであれ「立腰」は人生の一大事である。これは整体の仕事の中でも終始一貫して説く要訣でもある。個人的には個別の整体指導の延長として、公に於いては立腰教育の復活を期待しているのだ。