体が整う意識

ゆる体操が発案・発表されてからどれくらい経つのだろうか。

身体運用法の極意としてリラックス(=ゆるむ)ということが着目されてから、スポーツの世界から日常の故障予防、治療にいたるまで身体論の世界は飛躍的に変容した。

そういう観点から整体操法の要点をまとめるなら、「無意識的に入った力を如何にゆるめるか」ということに集約される。

極端な事を言えば、ゆるむのだったら方法はなんだっていい。

手技療法ならば、やさしく触れればそれだけでゆるんでくるし、対話で感情を吐露することも効果的だ。カラオケなどで発散することもできるし、泣くことや笑うことでも長びく緊張を緩和、解消してくれる。

そして、これらはどれもみんな普段から無意識的にやっている。

潜在意識には平衡要求というバランサーが備わっているので、何もしなくてもどんどん良くなろうという力が働いているのだ。

「じゃあなんで私は治らないの?」と思われる方もいるかもしれないが、よくよく観るとやはり一年前と同じということはない。

やはり何か変わっている。

悪くなっているように見えても、内実は良くなる方向へ変わっている。

いわゆる中庸という速度なのだが、人間が慌てるとこの中庸がおそく感じる。すると焦って何かしてしまい経過が乱れるのだ。

だから、「整体」というのは他動的な技術ではなく、自分自身が積極的に自然に任せる態度を意味している。

何もしないということに全力を懸ける。

実際は「何もしない」などということはありえないのだけど、人為の中の無為を生かすということだ。

科学的に言えば理性の働きを最小に抑えるということになる。

妄息(や)めば、寂生ず。

無心となって整う。

整体とは意識の形だ。

治る時に治る

人間は治る時に治る。「その時」までは何をしても治らない。

すり傷ひとつ取っても、生命速度というのに準じて治っていく。風邪でもやはりそうだ。

生きているものはみんな治っていく。

治っているそばから、また毀れていく。

何か、中心に向かって必要なモノを集めていく働きがある状態を、「生きている」という。

生命発生の起源からしてそうだ。

まず最初にギュッと凝縮した力で「種」ができる。

その種がまた種を残すべく活動していく。

必要があれば熱も出るし、下痢もする。何か皮膚から捨てるようなものがあれば発疹も出る。

生きている限り、生命の平衡要求は失われない。

これから訓練をしてそうなるのではない。

それでは間に合わない。

最初からそうなっている。

等しく与えられている「ある働き」。

これを「健康」と説く。

病気を治そうとして、また健康になろうとして行なうものは、やればやるほど健康から遠ざかる。

向かえば背く。

自分の呼吸、脈、体温、これらを一体誰が保っているのか。

知らずに生きてきたなら、いまここで見極める必要はあるのではないか。

考え方ではなく、事実に学んでみよう。

自分という活動体が一体どうなっているのか。

その見極めがつけば、痛いことは痛いでおわり、苦しいことは苦しいでみなおわっている。

そうして健やかに動いている。

これも「その時」が来ないとわからないらしい。

やはりその人が、治る時に治る。

そういう風にできている。

たかが開脚、されど開脚

書店でEikoさんの開脚の本を目にした。ひと口に開脚と言っても、一生懸命やればそれだけで目覚ましい効能があるものだ。流行りなのか最近は元力士の方などもよく股割りを紹介している。

具体的には生理痛、PMS、前立腺肥大症などには、開脚だけでも一定改善がみられる人は多い。いろいろな「健康法」をちょっとずつかじってはやめてしまうより、開脚一本にしぼって1年やり込む方が恩恵は大きいのではないだろうか。何ごともそうだが、どれを選ぶかよりも、選んだものをどれくらい深いところまでやり込めるかが成否を分ける。

ところで、よくよく見ていると健康法にはそれぞれ定期的なブームがある。中でも手当て・手かざし療法、足裏健康法、開脚などはだいたい10~20年周期で登場している。

すべての健康法は、発信者が「これはすばらしい」といって一定期間情熱を注いで紹介すると、かならず共感する人たちが出てくる。あとは信じてやりきれば、どれもそれなりに結果は付いてくるものだ。

成功のカギは「信じきれるかどうか」で、発信者の信念と受け手の素直さがぴったり合うと効果はてき面現れる。治療法とかセラピーも似た性質があって、方法論以前に施術者やヒーラーの魅力やキャラクターで成り立っている面は強い。

いわゆる「カリスマ」というような性質だと思うのだが、私はそっち方面はあまり期待できないので、こつこつと理論を構築して、わかりやすく説いていくことに専念している。本当に良いものは自然と必要な方へ伝わり、次代にのこっていくものだから。

ハイキング

今日は子供を背負ってハイキングに出かけた。

ハイキングの定義がよくわからないのだけど、舗装道路に慣れきった平衡感覚からすると土の上を歩くだけでも身体にほど良い刺戟になる。

整体では行動のもとは背骨の弾力にあると説く。だから頭でっかちになる前に背骨を鍛えよう、と言うのだがどうやって鍛えたらいいのだろうか。

簡単に言えば坐骨と足裏を使うのがいい。足裏でデコボコ感をじかに味わうことで中枢神経系に働きかけ、脳を活性化することが出来る。

現代病の「うつ」などは平たく言うと「考え過ぎ」の延長なのだ。下半身を中心に平衡感覚を要するときは思考が休まり、心の静寂に至りやすい。一番の脳トレは歩行ではないだろうか。

能書きが長くなってしまったが、心が疲れたら本とパソコンを一度たたんで足とお尻を使おう。

七夕飾り

短冊と、おり姫&ひこ星。

短冊2016

願いごとのコツは、「○○しますように」、「△△になりますように」の「ますように」を使わないこと。

この「ますように」によって願い(理想)と現実(現在)に一線引かれてしまい、「そうはならない」という空想が育ってしまうそうな。

だからすでに「叶った」という態で書くこと。そして、そのように振る舞うこと。

そうすると「願い」と〔今〕に距離がなくなる。

単純だけど、大切なことなのだ。

人は生涯、〔今〕だけだからね。

腹痛と発汗の関係

今朝は腹痛に見舞われた。お腹が痛いなんてめったにない話なのでいろいろ勉強になった。

原因は明らかで、寝床で汗を冷やしたのだった。「汗の内攻」の典型である。汗が風に当ると汗腺から引っ込んでしまう。そうすると内攻する。汗の内攻には、下痢などもよくあるけれど、腰が痛くなったりお腹が痛くなったりする。

いわゆる定番の操法は足の甲にある中指と薬指につながる骨を左右に広げるように押さえる。あとは半身浴などをして背骨から汗をシトシトかけば、1~2時間程度で経過する。冷えて汗が引っ込んでお腹が痛くなったのだから、温めて汗を出せば経過してしまうのだ。簡単な話なのだが、こういうものも内科などに行ってしまうと原因がわかりにくいのではないか。

先日暑ければエアコンをつけましょうといった矢先なのだが、今日はエアコンには注意が要るという話である。この「一貫性」を理解していただけると嬉しい。

除湿

梅雨も極まって、多くの方が湿気の疲労でクタクタになってきている。

昨年までは「夏はじとーっと汗をかいて過ごさなきゃだめだ!」と根性論まじりに語っていたのだが、それなら熱帯雨林にでも行って生活したらいいじゃないか、と自問して「やっぱりエアコンを付けよう」という回答にいたった。

「苦しい思いをして何になるのか?」という、長年の苦行論に決着がついたという話でもある。

真面目に生きる、真剣に生きるとは、「苦しい事を率先して味わう」というようなこととは対極にあるものだった。

エアコンの「ドライ」のスイッチを入れるのに、ずいぶん遠回りしたことか。

シナシナにしっけた煎餅みたいになって仕事しているよりは、除湿をしてぴしっと働いた方がいいに決まっている。運動でも精神活動でも、苦しいのはみんな間違いだ。

ということで疲れている暇があったら、エアコンをつけましょう。

仰げば尊し

今日は妻子を伴って母校(大学)に行ってきた。お世話になったゼミの先生と連絡が取れたのでご挨拶に伺ったのだ。先生には10年以上お会いしていなかったのだけど、快く応対してくださって心の涙にぬれた。ほんとに泣いてはないけれど。思えば自分の半生は多くの師に恵まれ、支えられてきたものである。遅まきながら感謝の一念が湧いてきた。

先生はともすれば学生からは「きびしい」とか「こわい」とか言われる存在でもあったが、今の年齢になって振り返ると、とにかく先生は優しかったのである。むしろ現代の、いわゆる「最近の若者は」と言われるようなあどけない学生を相手にする以上、一定のきびしさは必要だったのだと思う。優しい方である。

何であれ指導者には人を温かい目で見られる余裕というか、善悪を越えたところで相手の成長を願えるような心の広さが必要だ。そのためにはいろいろな経験も必要かもしれないし、徳性も求められるだろう。

先生は成績のけっして良くない自分を折に触れてほめてくださっていた。それも人づてに聞こえるおほめの言葉だったので、ガツんときたものである。いや私だけでなく、みんなに対してそうなのだが、人間というのはどうしても認められたとおりに、その方向に育ちやすい。

『小公子』のドリンコート伯爵もそうだったように、たった一人にでも「良い人だね」と認められるとやはりそういう心は裏切れないものである。そういった善の心、本心良心のようなものが人間の中心には予め備わっているようだ。

その本心良心がしっかりと育って芽吹くためには、良質な父性と母性がいる。空手でお世話になった師範や整体の師匠は私にとってはお父さんだった。いつもぶれない芯の強さに比肩して、ひとたび怒ると怖かったな、などと思い出される。言わずもがなだが、ゼミの先生はお母さんのように見守ってくれたのだなと感じる次第である。

人を育むために必要な力は「つよさ」と「やわらかさ」の相乗的なバランスで成り立つ気がする。治療ということを考えても、やわらかく、静かであり、落ち着いた力で相手が良くなるのなら、それに越したことはない。

中国の古典『老子』にも、静かでやわらかい方が常に主人となり相手をリードする、と説かれている。そういう意味で、先生のやわらかさと品の良さは現在まで貴重な教えとなって生きていると思う。しかしここまで書いて自分を鑑みると、「その割に‥」という気もする。

いつまでも先生の広い心にいつまでも甘えてないで、もう少し勉強するべきかな、などと姿勢を正してみたりして。こんな殊勝な心持がいつまで続くかわからないけど、何故か反省も促されたありがたい再会であった。

病が治りやすい頭と胃袋の状態

整体には難病という概念がない。ないことはないかもしれないが、どこまでいっても身体的活動の一形態という見方だ。

医学的には身体の細部を調べていちいち因果性を明らかにしようとするから、詳しくなればなるほどわからなくなってくる。知識で追いかけるとどうしてもむずかしくなってしまうのだ。それはそれで利点も沢山あるのだけど、盲点も同時に生んでしまう。

簡単に言えばレントゲンには感情や感性、人格は写らない。これが盲点で、その写らない、見えない所にいつも核心がある。

朝から晩まで不快想念が浮かんでは消えているようでは自律神経が影響を受けてその調整作用としての病が絶えず発症する。人間には思念が止んでいる時間が必要なのだ。

さらに言えば、頭と胃袋はカラッポの時間を作るのが良い。

頭が休まると自律神経の働きが正常化し、消化器官が休まると、肝腎を筆頭に体内の臓器が消化吸収以外の作業にフル稼働できるからだ。

断食と瞑想は東洋的感性に基づいた修養法であり健康法、また治療法であった。

断食は勧めないが、整体は食事の適量化と精神活動のデトックスを促す。必然的に病気の必要性が減るのである。

理屈はいくらでも説明つくが、大切なのは自分がやるかやらないかだ。そうかもしれないな、と思う方は本当に活元運動をやっていただくといい。自覚したものは一生の財産だ。

気合と勢い

・気合といふこと、操法の大事也。彼の実を虚ならしめ、我の実を彼に移す。彼の実、病気の塊り也、我の実、健康なる正気也。彼吐く時我吸い、彼の吐き切る時我が指に力を入れる、この呼吸適へば、忽ち彼満つ。
これを気合といふ也。(野口晴哉著『治療の書』全生社 p.118)

・私は先生の気合を思い出した。先生の気合は比類のないもので、琴を立てかけ、何本目といって買い合いをかけると、その糸だけがピーンと鳴った。山道で気合をかけると、他の人の声はみんな谷に落ちるのに、先生の気合だけは、遠い山脈に、唸るように、波打つように消えて行った。
そんな気合を、先生はここ(御岳)で会得したのだろうか。(野口昭子著『回想の野口晴哉』ちくま文庫 p.28)

今日は夕飯をすませたあと、子どもと家で気合をやって遊んだ。

整体法には呼吸法が伝わっている。邪気の吐出法、漏気法、深息法、気合法の4つだ。

もしかしたらもう少し、奥義のような秘密裏の呼吸もあるかもしれないけれども、そこまで奥のことは私は知らない。

 

気合法というのは、イエーイという音声を出して、下腹部に強い膨満感を生む呼吸法である。琴やキターのような弦楽器に向かって気合をやると反響するから面白い。

家には琴はないのでグレゴリオチャイムで遊んだ。エーイ!と気合をかけるとイーーン・・と鳴る。

1歳半の子供がキャー!と発声しても鳴るので、波長さえ合えば共鳴することが判った。神秘性はなくした。極めて物理的ではないか。

久しぶりにやってみると、発声とともに仙腸関節がぐーっ引き締まるのが如実にわかった。さらに両足の拇指球がぐさっと突き刺さるような立ち方になる。

 

腰がびーん!っと締まるような感じで、簡単に言うと「やってやろうじゃないか」の心境になる。

整体操法の究極は人間に潜在する力を奮起することなのだ。

こちらの勢いが相手に共振するようにする。

 

相手の勢いを喚び覚ますのはこちらの勢いなのである。

指導する者はそういう「圧縮した力」を瞬時に爆発させる技術が必要だ。

 

さて気合を繰り返しやっていたら、梅雨の鬱滞感もサッパリと消えていた。理屈をこねてもどうにもならない時は、自分で自分に気合をかけてしまえばいい。

本当のことを言えば気合に音声はいらない。いちいち大きな音を立てるのは虚の活かし方を会得するための実を使った稽古である。

 

単なる大声でガアガアいったって、それは形骸化した迷惑行為にしかならない。

実際に気合いと練るには「真剣に生きる」ということに尽きる。

 

裡なる要求を知り、その実現に向けて全生命を傾ける。

詰まるところ気合の要訣はこれだろう。

今を無駄にしてはいけない。

今を生きよう

今という「機」に間に合うからこその機合いなのだ。