仰げば尊し

今日は妻子を伴って母校(大学)に行ってきた。お世話になったゼミの先生と連絡が取れたのでご挨拶に伺ったのだ。先生には10年以上お会いしていなかったのだけど、快く応対してくださって心の涙にぬれた。ほんとに泣いてはないけれど。思えば自分の半生は多くの師に恵まれ、支えられてきたものである。遅まきながら感謝の一念が湧いてきた。

先生はともすれば学生からは「きびしい」とか「こわい」とか言われる存在でもあったが、今の年齢になって振り返ると、とにかく先生は優しかったのである。むしろ現代の、いわゆる「最近の若者は」と言われるようなあどけない学生を相手にする以上、一定のきびしさは必要だったのだと思う。優しい方である。

何であれ指導者には人を温かい目で見られる余裕というか、善悪を越えたところで相手の成長を願えるような心の広さが必要だ。そのためにはいろいろな経験も必要かもしれないし、徳性も求められるだろう。

先生は成績のけっして良くない自分を折に触れてほめてくださっていた。それも人づてに聞こえるおほめの言葉だったので、ガツんときたものである。いや私だけでなく、みんなに対してそうなのだが、人間というのはどうしても認められたとおりに、その方向に育ちやすい。

『小公子』のドリンコート伯爵もそうだったように、たった一人にでも「良い人だね」と認められるとやはりそういう心は裏切れないものである。そういった善の心、本心良心のようなものが人間の中心には予め備わっているようだ。

その本心良心がしっかりと育って芽吹くためには、良質な父性と母性がいる。空手でお世話になった師範や整体の師匠は私にとってはお父さんだった。いつもぶれない芯の強さに比肩して、ひとたび怒ると怖かったな、などと思い出される。言わずもがなだが、ゼミの先生はお母さんのように見守ってくれたのだなと感じる次第である。

人を育むために必要な力は「つよさ」と「やわらかさ」の相乗的なバランスで成り立つ気がする。治療ということを考えても、やわらかく、静かであり、落ち着いた力で相手が良くなるのなら、それに越したことはない。

中国の古典『老子』にも、静かでやわらかい方が常に主人となり相手をリードする、と説かれている。そういう意味で、先生のやわらかさと品の良さは現在まで貴重な教えとなって生きていると思う。しかしここまで書いて自分を鑑みると、「その割に‥」という気もする。

いつまでも先生の広い心にいつまでも甘えてないで、もう少し勉強するべきかな、などと姿勢を正してみたりして。こんな殊勝な心持がいつまで続くかわからないけど、何故か反省も促されたありがたい再会であった。