無心となって整う

そもそも身心が調子を崩すのは何故だろうか。

簡単に言えば、それを操縦しているものに欠陥がある、ということだ。

少し専門的な言葉を使えば、現時点の自我意識が身心を損なうようなものなのだ。

整体操法の真の目的は、瞬間、その自我が完全休止、あるいは消失することにある。

絶えず自分の身体を緊張させてしまう、「その人」が止(や)まれば、あとは身体の恒常性維持機能によって刻、一刻と回復の道をたどる。

整体では「ポカンとする」という極めて平易な表現を使うが、その真意がわかるとそれまでとは生き方がまるで変わってくる。

まず余分な考えに頼らなくなる。

そして「任せる」という感覚が育つ。

見えたら見えっぱなし。聞こえたら、聞こえっぱなし。

目も耳も、歪んで見えたり違って聞こえることがない。

それを認識する意識の方に問題を起こすものがある。

そういう意識活動が止んだとき、無心となったときに、必ず残るものがある。

それが「自分」と「外界」。

しかもそこには切れ目がない。

無心とは、ありとあらゆるものが映り込む、鏡の如き心をいう。

むずかしいことは一つもない。

脱力すれば自然とそうなる。

あとは、

本当にやるかやらないか。

時節は人それぞれ。それでも脱力しきれば、やがて必ずそうなる。

整えるものが消えて、治そうとするものがどこかへ行くと、みんな上手くいく。

無心となって整う。

無為。

ずっと昔から、そういう風にできている。

神仏の正体

私がお話するのは、いままでの学問的な考え方だけでは考えきれない体の問題なのであります。私たちの胸の中に肺臓と心臓があるということはどなたもご存じですが、それを動かしているある働きがあることには気がつかないでいる。例えば、恋愛をすれば食事がおいしくなるし、好きな人に出会えば心臓が高鳴ってくるが、借金をしていると食事もまずいし、顔色も悪くなってくる。このように恋愛とか借金とかいうものによって生じてくるある働きと、肺臓とか心臓とかいうものが関係ないとはいえない。ところが胸の中を解剖してみても、レントゲンでいくら探してみても、そういうものは出てこない。だから人間の生活の中には解剖してしまったら判らない、また胃袋とか心臓とかいうように分けてしまったら判らないものがある。電報一本で、途端に酒の酔いが醒めてしまうこともありますが、どういうわけで醒めるのか判らない。その判らないもののほうが、却って人間が健康に生きて行くということに大きな働きを持っているのです。(野口晴哉著 『健康生活の原理』全生社 pp.3-4)

生き物を生かす不思議な力

サムシング・グレートとは、具体的なかたちを提示して、断言できるような存在ではありません。大自然の偉大な力ともいえますが、神といってもいいし、仏といってもいいような存在です。とらえ方は自由なのですが、ただ、私たち生命体の大本には何か不思議な力が働いていて、それが私たちを生かしている、私たちはそれによって生かされている、という気持ちを忘れてはいけないと思います。(村上和雄著 『スイッチ・オンの生き方』 致知出版社 p.90)

活元運動を指導し始めて6年余りになるけれども、「活元運動をやると、何がどうなるのですか?」という直接的な質問を受けたことは一度もない。

何だかわからないけれども、お集まりいただいて、手を当て合って、活元運動をして来た。

ところがこの「何だかわからない」というものの中に、生命の働きが内包されている。人の頭でわかるようなものは精々その程度なのだと思ってしまう。

人間が生まれる、ということ一つとってもその活動の実体はほとんどわからない。

一個の生殖細胞がおなかの中で数十兆に膨れ上がり、「その時」になると陣痛がはじまって外界に現れる。

何故そうなるのか、それがわからない。わからないまま、人類創生以来、ひとつも困ることなく命を継いできた。

文明生活はそのわからないものを暴こうとして、生命を捏ね繰り回し、難解にし、調和に抵抗してきた。

調和させよう、させよう、という絶え間ない知的探求が、自然の精妙な均衡を脅かしてきたのだ。

それならば、その「わからないもの」をわからないまま、煥発して、ぐんぐん生きて行く方が都合がいいのではなかろうか。そういう考えが沸いてくるのも自然であろう。

元来、祭りや舞踊、歌にはそういうちからがある。

ただそれには、文化や風土、宗教観、時代性、地域性、いろいろなものが付随してくっついてくる。それらは、相互に対立や矛盾を生む可能性も孕んでいる。

人の「考え方」というものには、対立が付きまとうのだ。

そういういっさいの付属物を剥がし、純粋な生理機能に濾過したものが活元運動であると言っていい。

生き物は、生まれた瞬間から、絶えず「そういう風に」動いている。

何故かはわからない。

わからないけれども、わからないことで一つも困らない。

不自由もしない。

知ろうとすれば、わからなくなる。真を求ればたちまち真に背く。

わからないままでいい、というと全てがわかるようにできている。

むずかしいことは一つもない。

五官に任せれば、全てが一度に手に入るではないか。

感じて動く。

生命体とは、感じて動く感動体なのだ。

認識には誤りがある。

感じ方に間違いはない。

神も仏も、みんな、はじめから生命に宿っている。

その光が、そのまま現れるようにすればいい。

そのためにどうすればいいかも、自分のいのちで感ずればわかるようになっている。

波動を思う前に

ある時、僧が趙州に尋ねた、「私はこの道場に入ったばかりの新米でございます。ひとつ尊いお示しを頂きたいと思います」。すると趙州が言われた、「朝飯はすんだかい」。僧が言った、「はい、頂きました」。すると趙州が言われた、「それでは茶碗を洗っておきなさい」。僧はいっぺんに悟ってしまった。(西村恵信訳注『無門関』岩波文庫 p48 無門関第7則 趙州洗鉢より)

※趙州・・・趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん、778年 – 897年)は、中国唐末の禅僧。Wikipediaより

今日は午後から陽の光がさしたので、仕事の合間に家中の換気をした。

数日にわたる長雨で建屋に湿気と澱みが籠っていたのだ。

巷でよくいう、掃除をすると波動が良くなるというたぐいの話は疑わしいと思いつつ否定もできないでいる。掃除が綿密にできている時ほど仕事の成果もよく上がるからだ。

そもそも「波動」という言葉が何を意味しているのか曖昧な点も多い。自分としては「気」とか「勢い」に類するものだと想定している。

去年の11月に総持寺の催しに出かけた際、百間廊下という長い廊下を初めて見た。ここを修行僧が毎朝雑巾掛けするというのだが、廊下の無言の光沢が禅とは何かを雄弁に語っていた。

「飯を食べたら茶碗を洗え」という禅の示唆が醸し出すように、波動がどうであろうと住家はきれいがいいに決まっている。

目に見えないものも、実はみんな目に見えている。

精神、即、肉体。心身は不即不離といって相違ない。掃除をした時、いったい何が清められるのか、改めてよく考える必要はないか。自分という活動体がどうなっているのか、本当に見極める必要はないか。

よくよく参じ、真摯に取り組みたいところである。

発病の原理

ガンになる遺伝子も、高血圧になる遺伝子も、人間は誰でも持っているのです。ガンの遺伝子を持っているというと非常に悪いイメージを抱くと思いますが、これらの遺伝子は何も病気を引き起こすことを目的としているわけではありません。身体にとって必要な遺伝子であり、細胞の中でおとなしく調和していれば、何も問題はありません。

ただ、それがなんらかの原因で一定水準を越えて増殖してしまうと、病気として現れてくるのです。(村上和雄著『スイッチ・オンの生き方』致知出版社 p.53)

西洋医療にみる難病・奇病について専門書をあらってみると、発病のメカニズムはわかっていても根本の原因についてはよくわからないことが多い。

「それが何らかの原因で」そうなる、と括られていることがほとんどだ。

本来なら原因がわからなければ対処のしようがないはずなのだが、病気の苦悩を目の当たりにするとどうしても表面的な症状の除去に流れて行ってしまう。

ところが医原病という言葉が示す通り、発症しているものを人為的にプッツリ止めてしまうことは生命の秩序を脅かす、危険な行為なのだ。

「病気は命を脅かす悪いもの」という固定的な観念が払拭されない限り、遺伝子工学の医療的発展は近々頭打ちになってしまう。

ボタンの掛け違いというよりも、袖を通す以前の間違いに気づいたうえで再出発が必要だ。

お釈迦様は「病気は衆生の良薬」と言ったそうだが、病気は生命保持の安全弁、時にこれが最後の砦ともなる。

疾病は調和を欠いて起こるのではない。

実際は人間的な精神活動の偏りを正すのが身体上の病であり、疾病そのものが自己の身心と外界との調和を恢復する働きなのである。

これを理性から出発した科学的処置によって自然の調和力に抵抗をしているのが、現代広く行われている「治療」の実体だ。

理性が過剰に働いているうちは、いのちの妙を感じることはできない。人の為すことは偽りであると知り、無為の力に目覚めよう。

そのためにむずかしい方法が要るのかというと、そんなことはない。ポカンとして身体の自然の動きに任せるという、それだけでいい。簡単な話なのでありがたみがないのだが、真理はいつも近すぎて見えない。逆に目を閉じた方が判るのではないか。

理解と自覚

「整体」になるのにどれくらいかかるだろうか。

うちに通われている方を見ていると、一応の段階までだいたい2、3年くらいが目安かなと思う。

「風邪を引いて熱が出ると、骨格筋がゆるんで、身体が整う」という風邪の効用を例にとっても、理解はすぐにできる。

それでも、実際に「うん、これは間違いないね」と自覚に至るにはやっぱり年月がいるのだ。

理解に力はないが、自覚したものは力になる。

しかし自覚するためには理解の入り口が必要だ。

それも感受性という門が開いていなければ、はじまらない。

人が整体を選ぶのか、整体が人を選ぶのかはわからないけれど、

最初に響き合うものがある。

自分の中に「信」を見い出そうとする人には、いつでも門は開かれている。

閉じてしまうのも自分自身だ。

自分、自身が、どう生きたいか、

感性に問いかけてみよう。

道ははじめから拓かれている。

と、思う。

歩き方

立つ、歩く、という動作は当たり前すぎてこれを習うという習慣はない。

それだけに歩き方はどの人も個性的だ。

「これが正しい」というものを一つ選び出すことも出来ないし、「よくない歩き方」というのも限定しずらい。

昔、ある剣道の先生が街中で道行く人たちの足を見ていた。

すると「生きた足の使い方」をしている人は、一人もいなかったそうです。

みんな死に足になっている。

それがどうゆうものか、想像するしかないけれど、

整体指導を継続していくと、共通する変化があることに気がついた。

簡単に言うと足音が変わる。

もっといえば足音が小さくなり、やがてはしなくなってくる。

頭に気が上がっていると足元がおぼつかなくなるらしい。

できた人は踵まで息が入る。

足音がしないように気をつけて歩いたのでは意味がない。

腰の柔軟性との兼ね合いなのだ。

一つの目安だけれど、変化がはっきり見えるので仕事の目安にはなる。

音には品が現れる。

自分の足音を聞いてみよう。

魂の点火者

「人生二度なし」を説いた教育者 森信三氏は「魂の点火者」と呼ばれていた。

魂に火がつけば、あとは心も体も勝手に燃えていく。

指導者というのは皆、心を動かすことが仕事の根幹だ。

本来、医も仁術である。

心の温度を使うものなのだ。

当然だが、あちらに火を灯すには、こちらが燃えていなければいけない。

もとより人間は赤々と燃えているのだから。

いのちを高められるは、いのち以外にない。

愉気とはそういうものだ。

人間がいる限り、人間はつながりあっていく。

つながりを見失いかけたら、背骨を感じ、手を当て合って、活元運動をしよう。

人間がいる限り、人間はつながりあっていく。

このことはずっと変わらない。

燃え移るものがある限り、光はつながっていく。

それだけで、ずっと大丈夫なのだ。

自然モデル

治すためにいろいろな技術を使わなければいけないというのは治療の前段階だ。

真の治療は造作もないことの中にある。つまり一切の作り事を止めること。自然・宇宙の時、摂理に任せ切る。

実際はその「任せ切る」ということも造作のうちだ。だからそういう人間的な「はからい」を全部捨ててしまう。

そう考えると、「何もしないということに全力を懸ける」と言った、心理療法家の故河合隼雄氏の言葉は秀逸だ。

手を出さない、手を着けない。

そうすると、無になるだろうか。

無にはならない。

必ず残るものがある。

自身の「体」と「環境」が残る。

環境は人を苦しめない。

苦しみたい人は苦しむ。苦しむことを止めれば、苦しいは消える。

そういう自由性がいつも、〔今〕、与えられている。

生きているということは限りなく自由である。

本源的に治療と言える行為は、当人にその自由性を気づかせること以外ない。

だけれども、これから自由になろうとすれば縛られる。

今どうなっているか。

感ずれば皆わかる。

行き詰ったら、意識を閉じて、無心に聞く。

しかし聞いているものがあるうちは、最後のところが落ち切らない。

今どうなっているか。

感ずれば即わかる。

自然を体得すれば、もうもとへは戻らない。その瞬間から大安心の生活者だ。

土いじり

今日は朝から草むしりと、先日剪定した大枝・小枝を刻んでゴミやさんにだした。

屋根の上でのこぎりを振るっていた時はおととし参加した山岳修行のどきどきを思い出したけど、今日は地上に降りてパチパチ枝を切っては落ち葉と一緒にゴミ袋に詰めるという静かな作業だ。

屋根に上がる必要はないけど、頭の疲れやすい人やノイローゼ気味の人は少し疲れるくらいまで身体を動かせば解消しやすい。

「健康のために何か軽い運動をしましょう」という言葉はよく聞く反面、その先の「運動」についての指示は曖昧だったりする。身体に合わない運動はケガをうみやすいし、スポーツマンに膝痛や腰痛が多いのもよく考える必要がある。

活元運動をすすめつつも、土いじりも意識が静まりやすかった。これは原始感覚なのかな。

感性

この数ヶ月ほど、知らないうちに客観性に偏っていた。

「自分の目ん玉で観る」という感覚が薄まっていたのだが、異変に気付いて主観を意識するようにしたらまた少し「見える」ようになってきた。

感性、感情、身体感覚、etc・・・、「感じる」ということは生きることの出発点である。

そもそも「感じる」という原始感覚には間違いがない。食べ物の「おいしい、まずい」というようなことから、「どう動けばいいのか」、ひいては「どう生きればいいのか」まで感性は知っている。

客観性や合理性からは、功利的な生き方を考えられても、自分にとって楽しい生き方、心が充ちてくる人生の姿や形は判らない。

ここが開けてくることで、身体も精神も従来の弾力を取り戻す。

ここに至って、はじめて「乗り越える力」も出てくるのだ。

当然だが自分が理性に偏り過ぎていては、他人の感受性は開けない。

もっと感性が活潑にイキイキする方法を率先して行なっていくことだと思った。仕事自体が感性と感性の共振で成り立つものだ。主観を積極的に使っていくことで感受性は磨かれる。

観念論みたいだけど自分にとっては具体的な話である。不安定であっても、動きはじめれば健全だ。生きているとは、感じて動くことをいう。考えるのはいつもその後だ。この順番さえ間違えなければいい。