治すためにいろいろな技術を使わなければいけないというのは治療の前段階だ。
真の治療は造作もないことの中にある。つまり一切の作り事を止めること。自然・宇宙の時、摂理に任せ切る。
実際はその「任せ切る」ということも造作のうちだ。だからそういう人間的な「はからい」を全部捨ててしまう。
そう考えると、「何もしないということに全力を懸ける」と言った、心理療法家の故河合隼雄氏の言葉は秀逸だ。
手を出さない、手を着けない。
そうすると、無になるだろうか。
無にはならない。
必ず残るものがある。
自身の「体」と「環境」が残る。
環境は人を苦しめない。
苦しみたい人は苦しむ。苦しむことを止めれば、苦しいは消える。
そういう自由性がいつも、〔今〕、与えられている。
生きているということは限りなく自由である。
本源的に治療と言える行為は、当人にその自由性を気づかせること以外ない。
だけれども、これから自由になろうとすれば縛られる。
今どうなっているか。
感ずれば皆わかる。
行き詰ったら、意識を閉じて、無心に聞く。
しかし聞いているものがあるうちは、最後のところが落ち切らない。
今どうなっているか。
感ずれば即わかる。
自然を体得すれば、もうもとへは戻らない。その瞬間から大安心の生活者だ。