無心となって整う

そもそも身心が調子を崩すのは何故だろうか。

簡単に言えば、それを操縦しているものに欠陥がある、ということだ。

少し専門的な言葉を使えば、現時点の自我意識が身心を損なうようなものなのだ。

整体操法の真の目的は、瞬間、その自我が完全休止、あるいは消失することにある。

絶えず自分の身体を緊張させてしまう、「その人」が止(や)まれば、あとは身体の恒常性維持機能によって刻、一刻と回復の道をたどる。

整体では「ポカンとする」という極めて平易な表現を使うが、その真意がわかるとそれまでとは生き方がまるで変わってくる。

まず余分な考えに頼らなくなる。

そして「任せる」という感覚が育つ。

見えたら見えっぱなし。聞こえたら、聞こえっぱなし。

目も耳も、歪んで見えたり違って聞こえることがない。

それを認識する意識の方に問題を起こすものがある。

そういう意識活動が止んだとき、無心となったときに、必ず残るものがある。

それが「自分」と「外界」。

しかもそこには切れ目がない。

無心とは、ありとあらゆるものが映り込む、鏡の如き心をいう。

むずかしいことは一つもない。

脱力すれば自然とそうなる。

あとは、

本当にやるかやらないか。

時節は人それぞれ。それでも脱力しきれば、やがて必ずそうなる。

整えるものが消えて、治そうとするものがどこかへ行くと、みんな上手くいく。

無心となって整う。

無為。

ずっと昔から、そういう風にできている。